記憶はそこに置いていけ

佐古間

空っぽの家

空っぽの家 1

 カシャ、と切られたシャッター音が、思いのほか響いてしまったことにどきりとした。

 そっと背後を振り返る。後ろをついてきたはずのマコトは、詰まらなさそうな顔で周囲に目を向けている。既に家具などを引き払った家の中はあまりにも殺風景で、どこか寒々しい。電気を止めていなくてよかった、とぼんやり思う。

 マコトの表情は至って普通だった。苦々し気な顔も、苦しそうな顔も、特にはしていない。今朝見たまま、やや面倒そうな感じは見受けられるが、それは単に「家の最終確認」という役目に対してで、この家そのものに何かを感じているわけではなさそうだった。

 そのことに少しだけ安堵する。無理にマコトを呼びつけた自覚はあったし、断られても仕方がないと思っていたのだ。もっとも、たとえ断られたとして――どうにかしてマコトをこの家に呼びつけようとは画策していた。今、このタイミングでマコトをここに連れてくることは、自分にしかできない使命だと思っていたし、マコトにとっても――当然、自分にとっても――それは必要不可欠な工程だった。

「なんで写真?」

 数回目のカシャ、という音で、漸く黙り込んでいたマコトが声を上げた。手に持つデジタルカメラの中には、殺風景な家の写真が何枚も収められている。レンズ越しに見ていたリビングから目を逸らすと、マコトは怪訝な顔をしてこちらを見ていた。

「――まあ、最後だし。せっかくだからと思って」

 こうだった・っていう記録にもなるしね。続けるとマコトは「ふぅん」と気のない返事。「最後だから」と告げたところで、マコトが「じゃあ自分も」と写真を撮るとは思っていない。自分の中にあるのはこの家で過ごした思い出だが、マコトの中にあるのはきっと思い出ではなく単なる記憶に過ぎないのだろう。

(きっと、思い出したくもないだろうに)

 零れそうなため息を飲み込んで、「部屋あっためようか」と提案した。肩にかけていたトートバッグから二人分の座布団と電子ケトルを引っ張り出した。長らく水も使っていなかったので、しばらく流してからケトルに水を入れた。マコトは黙ったまま座布団の上に座り込んだ。

 昔、四人が座れる大きなソファを置いていたリビングは、今何もなくがらんとしている。カレンダーを張り付けていた壁に画鋲の跡がうっすら見えた。カーテンも取り外してしまっているので、庭へ向かうガラス戸からの光が少し眩しい。

 電源を入れたばかりの電子ケトルは、静かに水を温め始めて次第にコトコト、ゴトゴトと音を上げた。「紅茶でよかったよな」と問えば、「うん」とそれだけの返事が返る。

 マコトは庭を見ていた。座布団の上に座ったまま、じっと、庭の向こうを見ている。庭いじりは両親共通の趣味で、昔は色とりどりの花が並んでいたのを覚えている。まだ父が元気だった頃、規模を大分小さくしながらも庭いじりだけは止めなかったのに。今は誰も手入れする人がいないので、花はないし雑草の見える土が広がるだけ。

「……コウスケさんさぁ、」

 マコトがぽつりと言葉を漏らす。

「よく母さんとガーデニングしてたよね。私、庭に出るの好きだった」

 こんなに荒れちゃってたんだあ、と、それから小さな声は続いた。「マコト、」呼びかけはケトルのゴトゴトという音に遮られて、カチリ、役目を終えたケトルが音を立てて電源を切る。マコトの視線の先に、きっと元気だった頃のアイコと父の姿が映っているのだろうと思えば幾らか安心する気持ちがあった。瞳の色は暗くない。顔の色も、暗くはない。

「……ほら」

 プラスティックのカップに紅茶を注いで持っていくと、マコトは「ん」と漸く庭から視線を外した。こちらに向き直って、ふう、と紅茶に息を吹きかける。そういえば猫舌だったな、とそんなことを思い出して、思い出さなければいけないほどマコトと向き合ってなかったのだと実感した。

(だって、もう随分経つ)

 連絡を取る事に緊張しなかったわけではない。マコトはどこか自分から――自分たちから距離を置こうとしている節があって、子供の頃はそれがどうにもいけ好かなかった。

 幼い頃の自分は、大好きだった母を亡くした寂しさと、唯一残った父すらも奪われるのではないかという恐怖で周りが見えていなかったのだ。父がやたらと、マコトの事を気にかけていたのも勘違いに拍車をかけた。

 思えば、アイコとマコトは「始め」から少し歪だった。どこかぎこちない母子。アイコは自分にもマコトにも分け隔てなく優しくしたが、マコトに触れあう一瞬だけ、いつも少し躊躇う様子を見せた。まるで腫れ物に触るように、その躊躇いがきっと“後ろめたさ”というものなのだと、単純な感情しか感じられなかった子供の頃は理解できなかったのだ。

「テツはいつからコーヒー、飲めるようになったの?」

 ふう、ふう、とまだ紅茶を冷ましながら、思い出したようにマコトが聞いた。自分が「マコトが猫舌である」と思い出せなかったように――マコトもまた、自分の事を殆ど知らない。マコトは中学を卒業してすぐ、逃げるように家を出て行ってしまった。

「中三くらいかな。マコトが家出てった後くらいに」

 ずず、と音を立ててコーヒーを啜れば、質問してきたくせにマコトは興味なさげに「ふぅん」と生返事をする。思いついたから聞いただけのような。少なくとも、マコトの前でコーヒーを飲んだことはほとんどなかった。逆を言えば、「コーヒーを飲んだところを見せていない」とマコトが覚えていたことにはなるが。

「……親父がさ、」

 それで、気まずくなるのはいつだって自分の方だった。マコトは何も知らないふりをして――距離を置こうとするくせに、いつだってこちらを気遣う。自分だけではない、父のことも、アイコのことも。

「調子がいいときは、意識はっきりしてて。窓から公園見えるだろ、そこに植わってる花見ながら、介護の人相手に“アイコさん、次はあそこに何を植える?”って相談するんだよ」

「へえ」

「介護の人も調子合わせてくれてさ。一応、アイコさんの好きだった花とか教えといたから、それで、次は白いアネモネがいいわって」

「……母さん、アネモネが一番好きだったから」

 マコトはそういうと、すっと指を出して庭の端の方を示した。

「テツたちが来る前の事だけど。あのあたりに白いアネモネを植えてて。初心者が育てやすい花だから、最初に育てた花って言ってた」

 そのままマコトの瞳が僅かに細まる。昔を思い出そうとする表情は、少しだけ翳りを帯びて薄暗い。「あのあたりなら、」とは自然と出てきた言葉だった。過去に囚われそうなマコトを、もう少し先の過去に連れ戻したかったのかもしれない。

 例えマコトに“思い出”がなかったとしても。

「父さんとアイコさん、よくマーガレットを植えてたよな。マーガレットは父さんの好きな花だった」

 言葉を続ければ、ぱちりとマコトは瞬きをした。「ああ、そうだったかも」と思い出すように視線を上に向ける。「母さんもマーガレットは好きだったな」とマコトは答えた。

「っていうか、嫌いな花なんてあんまりなかったけど。一番好きなのは白いアネモネで、マーガレット植えるようになったのはコウスケさんが来てからかも」

 それまで庭ではあんまり見なかった、と。マコトは小さな声で、「コウスケさんが来てからだよ」ともう一度付け足した。

 この家に来たばかりの頃のことを、実はあまりよく覚えていない。薄暗い家だと思ったのは確かだった。目に見える部分ではなく、家の雰囲気が全体的に淀んでいた。

 当時の自分は、マコトこそがその淀みの中心にいるのだと信じて疑わなかった。実際、それは当たらずとも遠からずで――確かにマコトはこの家の“中心”だったのだ、良くも、悪くも。

 マコトちゃんと遊んでおいで、と父に促されて、二人で庭に出たのはいつの頃だったか。マコトは何も言わずに黙り込んだままで、自分は目に映る様々なものに気をとられてばかりいた。

(ああでも確かに、あの頃この庭に色はなかったかも)

 思い出す。マコトと二人で庭に出たあの時、確かに雑草が伸びっぱなしの庭は、薄暗く、色気のない庭に見えたのだ。

「……家の中、まだ撮るの?」

 漸く紅茶に口をつけたマコトがぼんやりとした声で問うた。もう視線は庭から外れている。「全部見て回るぞ」と答えると、やはり「ふぅん」と気のない返事。

「マコトはどうする?」

 どうする、と問いながら、少し意地悪な質問だったなと思う。マコトは自分に誘われたから来ただけで、自発的に来たわけでもない。「どうする」と問われたところで、やることがないなら帰ると言われてもおかしくはなかった。

 けれどもマコトは、ゆっくりと紅茶を飲みながら、「もう少しここにいようかな」と言った。

「私も後で少し家の中、見ておこうかな。確かに、最後だし」

 最後、と。

 マコトの口から言葉が零れる。色々な感情のこもった「最後」だった。

「……うん、それが良いよ」

 それに、どう答えるのが正解なのかわからなくて。代わりに小さく頷く。紅茶を見つめるマコトと視線は合わないまま。

(マコトも、何か考えてんのかな)

 子供の頃だってわからなかったのに。大人になった今、急にマコトの考えることがわかるようになるはずもない。ただ、子供の頃から変わらぬ淀みを抱えたマコトが、それでも家の中を見て回ると言ったので。

(……やっぱ、必要だったのかな)

 連れてきて正解だったのか、どうか。問うわけにも行かぬまま、できる限りゆっくりとコーヒーを飲み込んだ。

 もう少し、マコトの気持ちを知りたいと考えながら。



 家、処分しようと思って。

 電話口から聞こえた、記憶通りの声に話を切り出すのは随分勇気のいる行為だった。家? と繰り返されたのは、目的のない世間話から、急に話が変わったせいかもしれない。

 電話口のマコトは、戸惑った様子も動揺した様子も見せないまま、そもそもどこの「家」なのかわからぬと言った調子で、もう一度「家?」と問い直した。自分がその先を、中々続けられなかったせいだ。

「そう、家。アイコさんの――」

 その家を、実家、という言葉で称せなかったのは、自分たち家族がどこか歪なまま過ごしてきてしまったからだった。アイコさんの、と、言葉だけでマコトには伝わる。マコトは「ああ」と思い至った様子で、「あの家」と静かに付け足した。

 ひとつ、低くなった声色に瞬間体が強張る。顔が見えていないのに、さっとマコトの顔が青ざめたのを想像した。

 マコトの実母であり、己の義母であるアイコが亡くなったのは、今から三年前の事だった。

 マコトが出て行って、アイコが亡くなって、なお家を手放せなかったのは、アイコのいるあの家での思い出があまりにも多すぎて、あまりにも重すぎたからに他ならない。その頃既に自分も家を出ており、父に近くで暮らすよう何度も提案したのだが、結局父が家を離れることはなく、昨年施設に入るまで、一人であの家に暮らしていた。

 マコトと自分は血の繋がらない“家族”だった。二歳上のマコトはいつも自分より少しだけ大人びていて、子供の頃はそれもまた“気に食わない”ことの一つだった。マコトを取り巻く事情を理解したのは、大学入学を控えた十八歳の頃である。

「……漸く処分するんだね」

 暫く間を開けて、電話越し、マコトの声は無機質なように思えた。安堵した風でもなく、憤慨するでもなく。悲しむでもなく、喜んでいるわけでもなかった。

 あの家に対する感情は、きっとアイコとマコトが一番近しいのだろう、と思っている。自分と父が移り住むまでの時間を、自分は知らない。

「……反対する?」

 血の繋がりのない自分が家も土地も相続してしまっていることについて。アイコ側の親族は様々な事情を汲んだうえで受け入れてくれてはいたが。歪であるのは自分もまた同じだ、と、理解している。電話口から僅かに空気の動く音がした。声に出さずに、首を振ったのかもしれない。

「別に、今の家の持ち主はテツじゃん。好きにしたらいいよ」

 わざわざ連絡くれなくてもよかったのに、と、それから続く。突き放すような調子でもあって、どう答えたらよいのかわからなかった。

「……じゃあ、その、さ」

 もぞもぞと言葉は口中で蠢くだけ。一向に明確な形になって出てこようとしない。急な喉の渇きを覚えたが、今何かを飲んでしまうと、このまま伝えたいことを伝えずに電話を切ってしまう気がして、目の前のペットボトルを強引に遠ざける。マコトは話し出さない自分を静かに待っていた。切られてしまってもおかしくはなかったのに。

「……――最後、だから。最後に、もう一度、家の中を見ておこうと、思って。マコトにも付き合ってほしいんだけ、ど……」

 そうしてようやく吐き出された言葉は、段々と力を失くして音量を下げていく。黙って聞いたままのマコトが、もしかしたらもう耳から電話を離してしまっているのではないか、という不安に駆られて、心臓の音がうるさい。

 マコトが静かに待っていてくれたので。自分もまた、黙り込んで返答を待つ。何の物音もしなかった。息を飲む、僅かな音すらしなかった。

「――……そう。いいよ」

 どのくらい経ったか。数秒のことだったのか、数分か、体感として十分は待たされた、ような気がする。実際のところはわからない。

 少しかすれた声でマコトは了承した。急な安堵に力が抜ける。

「あ……ありがとう、ごめんな、忙しいときに」

「いや、別に。仕事も落ち着いてたから」

「じゃあまた日程とか、メールするわ。都合悪い日とかある?」

 問えば今度はぱらぱらと紙の音。ややあって数日分の「都合が悪い日」が返ってきて、慌ててそれをメモに残した。幸い、幾つか設けた候補とはいずれも外れていそうで、上手く日程調整が出来そうだった。ありがとう、と、もう一度礼を伝える。今度こそ、マコトは緩く息を吐いた。どこか疲れたような息だった。

「いいよ、もう。それじゃあ、後はメールで」

「うん、わかった。ありがとう」

 ぷつり、と通話が切れる。電話を持つ手がぶるぶると震えていた。久しぶりに聞いたマコトの声にも、そのマコトから、すんなりと了承の言葉を引き出してしまったことにも。急な恐怖を覚える。

(本当に、良かったんだろうか)

 提案しておいて、なお。ずっと疑問に思い続けている。本当は、アイコの死後、コウスケからあの家を譲り受けた時から、ずっとだ。

(本当に、俺で、良かったんだろうか)

 本来、あの家の正当な所有者はマコトであるはずで。横から入ってきただけの自分には、本当はそれだけの権利がない。ただあの家を手放すことも、処分することもできずに宙ぶらりんにしてしまったツケが、しわ寄せとして自分に来ているだけなのだ。理解していたが。

(……マコトは、俺を、恨んでないだろうか)

 緊張で固まってしまった片手から、強引に携帯電話を落とした。指先は震えたまま。耳の奥で、そう、と頷いたマコトの声がいつまでも反響しているようだった。

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