第1話 「人形ノ夜」5.遭遇

 奥の扉が、わずかに開いていた。


 暗がりの向こうから、ひんやりとした空気が流れてくる。

 それはただの湿気ではなかった。明確な、感情の残り香だった。

 泣いている。呼吸を抑えようとするのに抑えられない、誰かの声が、確かにそこにあった。


 陽は足を踏み出した。

 目の前を人形が這っている。

 ガラスの眼がこちらを見ている。

 しかしもう、恐怖は少しだけ薄れていた。


 それよりも――

 その奥にある、“想い”の正体を知りたいという気持ちのほうが、ずっと強かった。


(誰が泣いてるの……? なんで……こんな場所で……)


 床の上に霊符灯を一枚、置いていく。

 ほのかに光るそれが、後退の目印になる。もし戻れなくなっても、これがあれば道を思い出せる。


 扉に手をかける。

 冷たい金属の感触が、手袋越しにすら骨に染みるようだ。

 深く息を吸って、ゆっくりと押し開ける。


 その瞬間、空気が変わった。


 部屋の中は、異常なまでに静かだった。

 音が消える。鼓膜が塞がれたような感覚。

 重い。目に見えない何かが、全身に絡みついてくる。


 そして、目に飛び込んできたのは――


 人形。


 他のどれよりも、大きい。

 人間の大人ほどのサイズ。少女の姿を模している。

 白いワンピース、長い黒髪、無表情の顔。

 だがその目は、ほかの人形と違って、光っていなかった。


 それはまるで、“ずっと待っていた”ような、静けさだった。


 足元に、半壊した作業台がある。

 その上に、写真立てが一つだけ残っていた。

 誰かの娘。七五三か何かの記念写真。陽は見た瞬間にわかった。


(この人形……この子を模して、作ったんだ……)


 遺された誰かが。

 娘を失った誰かが。

 その“代わり”として作ったのだろう。形だけでも、声がなくても、ここにいてほしかった。


 陽は、一歩、前に出た。

 人形は動かない。

 けれど、部屋の隅で、ガタリと物音がする。

 視線を向けると、壁に寄せられた古い机の下に、山のように人形の部品が積み上げられていた。


 手足。顔。ガラスの眼球。

 欠けた頭部。削りかけのボディ。

 そのすべてに、式の痕跡が残っている。

 何度も、何度も――娘を再現しようとした痕跡。


(この部屋だけ、時間が止まってる)


 陽の手が、銃に伸びる。

 まだ“滅”は使えない。

 だが、“封”でもない。


 これはきっと、“還す”べきだ。


 誰かが、何かを残した。

 それを、この人形は“持ったまま”今もここにいる。


 だから。


 陽は、そっと呟いた。


「……ごめんね。待たせたよね。

 でも、もう――行っていいよ」


 銃を持つ手に、もう迷いはなかった。

 式符を装填。

 引き金にかけた指が、そっと力を込める。


「ちゃんと見てたよ。あなたのこと。あなたの、大事な人のことも――」


 瞳が、光った。

 ただ一瞬、人形の目が、ほんのわずかに揺れた気がした。


「……還りますように」


 陽は、撃った。

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