第一夜 虐げられる日々
月夜にカラス
「痛……」
夜も更けた頃。
白雪はようやく一日の仕事を終えて、自身の寝室に向かった。
白雪が暮らすのは、母屋ではなく、離れのこじんまりとした一室だ。
母屋ほど設備は整っていないものの、必要なものは最低限あるし、この部屋にいるときは一人で過ごせるので、白雪はこの部屋が好きだった。
「口の中、腫れてる……」
白雪は頬に手を触れて、痛みに眉を寄せた。
小花に打たれた頬は、ひとまず外の雪を掬って、冷やしていた。幸いなことに血はあのあとすぐに止まったが、やはり口の中は引き続き腫れているようだった。
(もう少し早く冷やしておけばよかった……)
仕事があるからと、適当に血を拭ってしばらく放置していたのもいけなかったのかもしれない。白雪は少し息をつくと、雪で頬を冷やそうと、窓を開けた。
冷たく澄んだ外気が肺に入り込み、白い息となって色のない唇から吐き出される。外にはちらちらと六花が舞っていた。
月の光を照り返して雪は輝いている。その雪を見て、今宵の月はどのようなものかと、白雪はふと顔をあげた。
──目を見張るほどに、美しく巨大な満月だった。
白雪は息を呑んだ。満月の美しさにではない。
満月の中に在る人影にだ。
──誰かいる?
隣家の屋根の上に、満月を背にして誰かが立っていた。体格からすると男に見える。肩に引っ掛けた羽織が風にゆらりと揺れていた。
一瞬見えた男のあまりの美しさに、白雪は息を呑んだ。
男の唇が小さく動く。
「 」
優しくて、泣きたくなるくらい懐かしい声で、何か囁かれたような気がした。
……冬の夜が見せた幻想だったのだろうか。
は、と瞬きをすると、次の瞬間には男は消えていた。見事な満月だけが、空に悠然と浮かんでいる。
「今のは一体……」
白雪は呆然としたように、男がいた場所を見つめ続けた。けれどやはりそこには誰もいなかった。
少し疲れているのかもしれない。
もう今日は寝てしまおうかと、気味が悪くなって、窓を閉めようとした時だ。
ざく、ざく、ざく……。
白雪は身を強張らせた。
誰かが雪を踏みしめて、暗闇の中をこちらへ歩いてくるような音が聞こえてきたからだ。
音は次第に窓辺にまで近づいてくる。
部屋の明かりが、男の足先を照らし出したような気がした。
「っ!」
思わず白雪は、目を瞑って畳に尻餅をついた。けれど男の声も聞こえなければ、気配も感じない。
恐る恐る、うっすらと目を開ければ、畳に一枚、黒い羽が落ちているのが見えた。
「……羽?」
訝しげにそう呟いた瞬間。
「くわっ」
「きゃあっ!?」
人ではないものの鳴き声が聞こえてきて、白雪は思わず悲鳴をあげた。
見れば、窓枠に、何か黒い生き物が留まっていた。
「……から、す?」
「くぅ」
──そこにいたのは、漆黒の翼と瞳を持つ
どのように育てば、このように美しい射干玉の黒になるのだろう。そこまで大きくはなかったが、空を飛ぶことに特化したしなやかな体躯と、どこをとっても美しく輝く羽を持つ鴉には、研ぎ澄まされた美しさがあった。
白雪は息を呑んだ。鴉とは、このように美しい生き物だっただろうか。
鴉はちょこんと窓枠に足をひっかけて、こちらをじっと見ている。
「お、驚いた……」
白雪は胸を撫で下ろした。
「妖魔に、化かされたのかと……」
そう口にして、久世家では、そのようなことが起こりうるはずがないと、ようやく少し冷静になった。
白雪がホッとしている間にも、鴉はじいと白雪を見て離れようとしなかった。人に慣れているのだろうか。怖がる様子もないようだ。
「……こんな夜更けに、どうかしたの」
「……」
気づいたら、白雪は鴉に話しかけていた。
人に話しかけることは億劫だが、動物に話しかけることはできた。動物であれば、機嫌を損ねることもないからだろうか。
「くぁ」
まるで返事をするように、鴉が鳴いた。
白雪は困ったように眉を寄せる。
「私に、何か用事?」
そう言うと、鴉はちょこ、と首をかしげた。その愛らしい様子に、白雪の警戒心が溶けていく。
「……カラスというのは、近くで見ると案外可愛いモノなのね」
人に慣れているのか、白雪が手を伸ばしても、鴉は逃げなかった。
「食べものが欲しいの?」
そう尋ねれば、くぅ、と鴉は喉を鳴らした。
まるで白雪の話を理解しているみたいに。
「……おいで、桑の実をあげる」
白雪は机の引き出しを漁って、油紙に包んでいた赤い実を鴉に見せた。
鴉は首を傾げると、再び白雪を見る。
「……毒なんてない」
そう言って自分で一口、噛んでみせる。
そうすると鴉は一声くあっと鳴いた。白雪が赤い実を差し出せば、はしはし、と嘴でつまんで器用に食べた。その愛らしい様子は、静かだった白雪の心を、ほんのわずかに波立たせた。
嬉しい、と言うのだろうか。いつぶりかに、そういった感情を覚えた。
「……綺麗な黒色だね」
「くぅ?」
……黒に惹かれるのは、白雪の本能みたいなものだ。
曇りないガラス玉のような瞳に、白雪の真っ白な髪と、灰色の瞳が映った。
白いのは髪だけではない。肌も、まつ毛も、雪のように白い。
この家で白雪が忌避される理由の一つがこれだった。
母は、白雪が生まれたとき、父にひどく責められたらしい。
この白い髪をもつ子どもに、自分との繋がりはあるのかと。
白雪の持つ色彩が、久世家に時たま生まれる無能力の子どもの象徴だとわかったときに、その疑いは晴れた。しかし被った不名誉に母は白雪を恨むようになっていた。
生まれついてのものだから、白雪の努力でどうにかなるものではないのに。
「……私、きっと空っぽだから、真っ白なんだ」
鴉の瞳に、白雪の感情のない顔が映っている。
鴉は何も答えなかった。ただじいっと白雪を見つめているのみだ。
白雪が手を伸ばすと、鴉は腕に留まった。
鳥の脚力は強く、爪は鋭い。白雪は肉が引きちぎられるのを覚悟したが、鴉は優しい力で白雪の腕を掴んでいた。まるで人間の腕が脆いものであるのを知っているかのように。
「……不思議。あなた、人みたい」
「くう」
体と比較すると、頭と首の毛が、ふわふわとして柔らかかった。
指で首を撫でてやると、鴉は気持ち良さそうに目を瞑った。
もふ。
白雪の指が、鴉の首の毛に埋もれていく。
「あたたかい……」
白雪はその体温を感じながら、ふと子どもの頃にあった出来事を思い出した。
「……昔、怪我をした鴉を育てたことがある」
ひどい怪我をした鴉だった。犬か猫に襲われたのだろう。
幼い白雪は、その鴉を放置するのも可哀想で、離れに連れ帰ってひっそりと育てていたのだ。
「あの鴉、どうしちゃったんだっけ……」
思い出そうとするものの、霞がかかったように、その部分の記憶だけが思い出せない。
「あ、れ……」
最近、こういうことがままある。
昔のことを思い出そうとしても、思い出せないことがあるのだ。
けれど白雪はそれほど気にしていなかった。
どうせいい思い出など、それほどないのだ。
忘れてしまったとて同じだろう。
「……どこかに行っちゃったの、かも」
そう言って白雪は口を閉ざす。
そんな白雪を、鴉はじいっと見つめていた。
──誰かに向かって、こんなに話したのは、いつぶりだろうか?
あまりにも久しすぎて、白雪は疲れてしまった。
黙って一日労働するよりも、自分の話をする方がよほど疲弊するような気がする。
「……寒いでしょう。しばらくここにいるといいよ」
そう言うと、鴉は嬉しそうにきゅるる、と喉を鳴らしたのだった。
次の更新予定
カラスと白雪 ─退魔師の娘は、大妖の掌中で愛でられる─ 美雨音ハル @andCHOCOLAT
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