第16話 カルテに書けない言葉
医師とは、診断を下す仕事だ。
けれど、人生にはカルテに書けない“真実”がある。
◇ ◇ ◇
副院長・須賀啓一の一件から二週間。
帝都大学医学部附属病院は、ようやく静けさを取り戻しつつあった。
内部告発によって、複数の不正が明るみに出た。
不必要な検査、上層部への利益誘導、若手医師への圧力――。
それらの中心にいた須賀は、医師免許の返納を検討しているという。
葉山光璃は、その日も診察室にいた。
「……次の方、どうぞ」
中年女性が、不安げな表情で入ってくる。光璃は穏やかな笑みで迎えた。
「初めまして。葉山光璃です。今日は、どんなことでいらっしゃいましたか?」
女性は小さく頷き、語り出した。
不眠、めまい、胸の痛み。診断書が欲しいという。
ありふれた訴え。でも、その奥にあるのは――。
「ご家族や、お仕事で何か変化が?」
「……夫が、先月亡くなりました」
光璃は静かに頷いた。
「それは、大変でしたね」
「いえ、でも……もう、過去のことなので」
そう言って、女性は笑った。
でも、その目の奥は、まるで何かを凍らせていた。
光璃は、その姿に**“ある人”**を重ねた。
患者ではない。自分自身だ。
父の死。母の失踪。
小児精神科を選んだのは、誰かを救いたかったからではない。
“自分”を救いたかったからだ。
◇ ◇ ◇
女性の診察が終わり、光璃はパソコンに向かった。
診断名を書く手を止めて、ふと思った。
(この人に必要なのは、薬じゃないかもしれない)
彼女の苦しみは、病名では語れない。
それでも医師として“何か”を差し出す必要がある。
光璃は、処方箋の最後に、手書きで一行添えた。
「いまは、泣いてもいいんですよ」
カルテには書けない。医療報告にも載らない。
けれど、それがいま、彼女にできる最良の処方だった。
◇ ◇ ◇
夕方。
病院の屋上に出ると、少しだけ春の匂いがしていた。
光璃は白衣のまま、手すりに寄りかかる。
「終わった、って顔してるわね」
背後から声をかけてきたのは、臨床心理士の水野だった。
「一段落は、つきました」
「例の女の子――ましろちゃんは?」
「今日、自分から“ありがとう”って書いた紙をくれました。声は、まだだけど……たぶん、もう大丈夫です」
水野はふっと笑った。
「あなた、本当は医者より作家向きかもね。“言葉”で治すなんて」
光璃は目を細めた。
「それ、褒めてます?」
「もちろん」
◇ ◇ ◇
夜。
病院のロッカールームで、光璃はふと、机の引き出しを開けた。
そこには、過去の患者から届いた、たくさんのメモや絵が収まっていた。
「また学校行けるようになりました」
「先生の笑い方、好きでした」
「ママが泣かなくなったよ」
それぞれの子どもたちが、自分なりの“言葉”でくれたメッセージ。
どれも診断名にはならない。けれど、確かに“治癒”の証だった。
◇ ◇ ◇
光璃は、今日のカルテを閉じたあと、ノートを一冊取り出した。
そこには、自分自身の“処方カルテ”が書かれている。
開いたページに、こう記した。
診断名:希望依存症
処方:それでも、人を信じること。
葉山光璃は、白衣を脱ぎ、ゆっくりと帰路に着いた。
夜空には、星が一つだけ、確かに輝いていた。
(了)
【毎日17時投稿】葉山光璃の処方カルテ 湊 マチ @minatomachi
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