第15話 診断名:沈黙依存症
沈黙は、時に最も雄弁な“叫び”になる。
◇ ◇ ◇
帝都大学医学部附属病院――副院長の職務停止が発表された翌週。
院内は騒然としていた。いや、表向きは静かだったが、誰もがどこかよそよそしく、ぎこちない空気が漂っていた。
「葉山先生、ちょっと話せます?」
声をかけてきたのは、小児科のベテラン看護師・川村だった。
「新しい患者さんが来てるんですが……その、少し変わった子で」
変わっている、という言葉は、光璃にとって少し警戒すべきサインだった。
◇ ◇ ◇
小児病棟。午後の光が淡く差し込む一室に、その少女はいた。
名取ましろ(なとり・ましろ)。9歳。
身長はやや小柄で、髪は肩にかかるくらいの黒髪。痩せすぎというほどではないが、どこか影がある。
「彼女、しゃべらないんです。ずっと。親御さんによると、数週間前から“急に”話さなくなったとか」
「失語症の診断は?」
「どの医師も首をひねってます。脳の画像も、神経伝達も異常なし。ストレス性か――と」
光璃は、静かに頷いた。
そして、ベッドの隣にしゃがみこみ、目線を少女に合わせる。
「名取ましろさん。こんにちは。私は葉山光璃っていいます。先生じゃなくて、光璃って呼んでくれてもいいよ」
少女は、小さく首を横に振った。
拒否、ではない。ただ、“応えたくない”という意思の表れのようだった。
◇ ◇ ◇
ましろの病室に通い始めて三日目。
彼女は依然として一言も発さなかったが、手元のスケッチブックに、ある絵を描いて見せてきた。
それは、白衣を着た人々が、大きな穴の前に立っている絵だった。
人々は口元に×印を描かれ、目は真っ黒に塗られていた。
(――これは……)
光璃は、直感的に思った。
この絵は、“沈黙の強制”を象徴している。
そして、ましろはその中心にいた。絵の端に描かれた、たったひとり、口を開けた少女。彼女だけが、叫んでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
光璃は、彼女の過去の診療情報を洗い直した。
すると、一つの共通点が浮かび上がる。
名取ましろは、半年ほど前に「帝都大学医学部附属病院・分院」で短期入院していた。そのとき担当していた医師の名――
須賀啓一。
副院長だった男。今は職務停止中の彼が、過去にましろを診ていたという記録が残っていた。
◇ ◇ ◇
光璃は、川村看護師に聞いてみた。
「ましろちゃん、そのときの入院中に何かありませんでしたか?」
「そういえば……。ましろちゃん、点滴の量が多すぎるって、一度泣きながら看護師に訴えてたって」
「それ、記録に残ってますか?」
「……いえ、上から“書かなくていい”って言われて」
その瞬間、光璃の背筋に冷たいものが走った。
この少女は、たしかに“言った”のだ。
でも、その言葉は大人たちによって「なかったこと」にされた。
そして彼女は学んだ。言葉は、信じてもらえないのなら意味がない。
その日から、ましろは沈黙を選んだのだ。
◇ ◇ ◇
翌日。
光璃は、ましろに語りかけた。
「あなたの声、私は聞こえてるよ。しゃべれなくてもいい。ちゃんと、伝わってる」
ましろは、少しだけ目を見開いた。
そして、スケッチブックに書いたのは――
「ほんとう?」
「うん。ほんとうだよ」
少女の目に、静かな光が宿った気がした。
◇ ◇ ◇
夜。
光璃は院内報告書に記した。
《診断名:機能性選択性緘黙症(silent dependency)
原因:医療環境内における抑圧的言語否定
対応:自己肯定感回復と“受容”の継続的アプローチ》
ましろはまだ、声を発していない。
でも、彼女の“心の声”は確かに届いていた。
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