第4話:回らないミキサー
午後二時。
来客の波がゆるやかに引き、レジ前に一瞬の静寂が生まれた。
その切れ間を縫って、神崎がそっと手を上げる。顔にはほんのり不安の影。
「佐々木さん、対応お願いできますか……?」
神崎の前には、一人の女性客が立っていた。
淡いベージュのコートに身を包み、年齢は三十代半ばほど。目元に疲労の影はあるものの、怒りは感じられなかった。
むしろ、落ち着きの中に、微かな失望を滲ませた雰囲気。
「先日こちらで購入したミキサーなんですが、最初の数回は使えていたんですけど、急に刃が回らなくなってしまって…その後、たまに動いたり止まったりするようになって。ちょっと不安で」
そう言って、彼女は丁寧にミキサーの箱を差し出してきた。
「食品を扱うものだし、刃物が関わる商品なので……こう不安定だと怖くて。申し訳ないんですけど、一度見ていただけますか?」
「もちろんです。ご不便をおかけして申し訳ありません。こちら、お預かりして状態を確認させていただきます」
私は彼女の目を見て、しっかりと頭を下げる。
箱の中の本体を取り出し、電源ケーブルを確認しながら刃の部分の動きを試す。確かに、動き出したかと思えばすぐに止まり、回転もぎこちない。
モーターの接触不良か、明らかに初期不良と思われる状態だった。
「大変申し訳ございませんでした。こちらのミキサー、明らかに動作が不安定で、安全性にも問題がございます。すぐに交換対応させていただきます」
そう言うと、彼女はふっと視線を落とし、わずかに口元を揺らした。
「……ありがとうございます。でも、今回は返品でお願いできますか。最初は交換でもいいかなって思ってたんですけど、やっぱり一度こうなると、もうこの製品を使うのが怖くなってしまって」
その語り口は静かで、けれど芯があった。
怒鳴り声も、理不尽な要求もない。ただ、誠実に落胆を伝えている。
信用を損なったあとに訪れる、慎重な距離の取り直し。
「承知しました。ご不安な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。返品で対応させていただきます」
レシートの確認、商品の状態、返品の理由を記録用紙に記入し、規定通りの返金額を案内する。女性の表情は、返金に向けた対応が進むにつれ、すこしだけ柔らいでいった。
「丁寧に対応していただけて、ありがたかったです。…また、別の商品を見に来ますね」
彼女は軽く頭を下げて去っていった。背筋はまっすぐで、抗議の余韻ではなく、納得の余韻がその後ろ姿に残った。
数分後。レジカウンターの裏で、神崎がこっそり近寄ってくる。
「さっきのお客様……また、クレーマーの方でしたか?」
耳打ちするように問うその声に、私は首を横に振った。
「いや。あれは、正当な意見だったよ」
神崎が目を瞬かせる。
「でも……ミキサー、何回か使ってたって言ってましたよね?それでも返品って、できるんですか?」
「初期不良なら当然、できるよ。むしろ放置されたほうが困る。
自分で原因を探して、リスクを抱えて使われるほうが怖い。
今回は“使用したうえでの異常”を、冷静に伝えてくれた。ありがたい対応だよ」
神崎は、まだどこか納得しきれない様子でうなずいた。
「クレームとカスハラって似てるようで全然違う。
怒鳴ることや押しつけることだけが“強い主張”じゃない。
誠実な失望や、不安からくる声にも、ちゃんと耳を傾けるべきなんだ」
私はミキサーの返品処理をしながら、淡々と続ける。
「でもまあ、理不尽なヤツには容赦しないけどね」
神崎がクスッと笑った。
光の角度が少し変わっていた。
その変化に気づける余裕を、今日の対応がくれた気がした。
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