第5話:こぼれた味噌汁

「すみません、ちょっと……この鍋、危ないんじゃないですか?」


昼下がり、やや猫背の中年男性が、慎重な口調でレジに近づいてきた。抱えているのは、当店で数ヶ月前に販売したセラミック加工の片手鍋。

佐々木が対応に出ると、男性は低い声で言った。


「普通に味噌汁を温めてただけなのに、急にガタンと倒れて、全部ぶちまけてしまって。手に熱湯がかかって火傷しました。こういうのって、どう対応してくれるんですか?」


第一声は落ち着いていたが、その背後にはうっすらと圧力が滲む。


「お怪我、大丈夫でしたか?」


「まあ、軽いやけどですが……病院にも行きましたし。とにかく、商品のせいでケガしたんで。こっちは被害者ですよ」


佐々木は軽く頭を下げた。

「申し訳ございません。まずは商品の状態を拝見してもよろしいでしょうか」


佐々木は、鍋を受け取って裏へ運んだ。

取っ手、底面、内部のコーティング、加熱面の歪み、すべてを詳細に確認し、同型商品と比較しても異常はない。


──なるほど、商品に異常はない、か。

心の中で佐々木は落胆する。このパターン、もしかしたらお客様も商品の問題ではないとわかっているのではないか。自分の過失で火傷をした、でもあくまで“商品が悪かった”っていう建前だけ握りしめて、こっちから何か引き出せないかって探っている……最悪の想像をかき消すように佐々木は身震いした。


レジに戻ると、男性は腕を組んで仁王立ちしていた。


「大変お待たせいたしました。商品の状態を点検いたしましたが、破損や製造上の不具合は確認されませんでした。通常の使用において問題がない範囲と考えられます」


「でも、こぼれたんですよ? こっちは火傷してるんですよ? 不良がないって、どうやって証明したんですか?」


「点検内容としては、取っ手のぐらつき、底の歪み、異常な熱伝導などの可能性を一つひとつ確認しております。すべて基準を満たしており、事故につながるような不良は見受けられませんでした」


「……ほんとに? なんか納得いかないな。今まで使っててもこんなふうにひっくり返ったことなんて一度もない。これは絶対にどこかおかしい。もう一度詳しく見てくれませんか?」


──どっちだ。純粋に商品に過失があると考えているのか、それとも自分の火傷を囮になにかを要求しているのか。

佐々木は慎重に言葉を紡ぐ。


「こちらの商品、現時点で製品の不良を示す明確な根拠は見受けられません。ただし、製造元に点検依頼をかけることは可能です」


「……その依頼って時間かかるでしょ、客に待てって言うの? まぁ、いいや、点検はもういいよ。」


男は呆れた口ぶりと共に、火傷がはっきりと見えるように袖を捲った。一気に敬語を崩し、目には苛立ちが灯り始めていた。


「……あのさぁ、こっちはもう怪我してんの。責任取ってもらわなきゃ困るんだよ。誠意ってもんがあるでしょ? ……慰謝料とかさ、そういう話になってもおかしくないと思うけど」


──ビンゴ。

佐々木はこの世の理不尽に絶望したが、平静を装って言葉を続けた。


「お気持ちはお察ししますが、商品の欠陥が確認できない場合、補償や慰謝料等のご対応は難しいのが現状です」


「はぁ、おたく、それで責任果たしてるつもり? こっちは身体に傷負ってるんだよ? 企業として、こういうケースに誠実に対応するのが当然でしょ?」


語尾が鋭くなり、訴えるような目で佐々木を見据える。


「こっちはちゃんと説明してるのに、“はい、不良じゃありません”の一点張り。じゃあ消費者センターに持っていきますし、法的に訴えてもいいんですかって」


明らかに一線を超えた発言、これは要望ではなく“ゆすり”である。


「それはお客様のご判断にお任せいたします。弊店としては、事実に基づいた調査と説明を行っております」


「……ふざけんなよ。訴えたらどうなるか、あんたわかってんの?」


明確な“脅し”である。

店内の空気がまた少し凍る。周囲の客は明らかに距離をとり、視線を逸らす。


それでも佐々木は、少しも表情を崩さず、静かに頭を下げた。


「お怪我に関しては心からお見舞い申し上げます。ただ、商品に明確な不良が確認できない以上、弊店として補償を行うことはできかねます」


重なる佐々木の毅然とした対応で、粘った男の瞳にうっすら諦念が滲んだ。


「……はぁ ほんと使えねぇな。こっちはてっきり、せめて治療費ぐらいは出してくれるのかと思ってたよ。店としての誠意がまるでない。ご自由にってことだし、訴えてやるよ」


男は捨て台詞を吐き鍋を引っ掴むと、やや名残惜しげにこちらを睨みながら去っていった。

商品のレシートも、病院の診断書も、何も出されていない。


ドアが閉まると店内の空気が少し弛緩する。

一部始終を、少し離れて神崎が見ていた。おずおずと小声で切り出す。


「今の人って……本気で訴えるつもりなんでしょうか?」


対応の余韻に疲れながら、首を小さく横に振る。

「言えば何か出ると思ってる人って、一定数いるんだよね。責任の所在が自分にあることを自覚していてもなお、それを口にしないのなら、なおさら質が悪い」


私は気まずい雰囲気を切り替えるように、店内有線BGMの音量を少し上げた。

外に目をやると、心中を写すような見事な曇空が広がっていた。

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接客業のためのカスハラ観察記録 紫丁香花 @mnmn-

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