第3話:並ばない男

レジ前に、静かに列ができていた。平日昼過ぎの雑貨店にはゆるやかなBGMが流れ、数名の客が各々の順番を守っていた。


その列を無視するかのように、ひとりの男性が、レジ横の空いたスペースにずかずかと割り込んできた。初老の男で、黒のジャンパーを着ている。手にはガラス製のキャニスターを持っていた。神崎はその異物のような立ち姿に気づき、声をかけた。


「恐れ入ります。こちら、列の最後尾があちらになりますので……」


男は眉をひそめて、神崎を見下ろすように睨んだ。


「は? いや、俺、今来たんだけど?」


「はい、ですので、最後尾にお並びいただけますか?」


「は? は? お前何言ってんの? 俺、レジに来たんだよ?」


神崎の目が静かに揺れた。男は一瞬、後ろを見た。客たちが静かに並んでいるのが、視界の端に映った。


その刹那、男の眉間に僅かな戸惑いと、何かを誤ったという小さな羞恥の色が浮かんだ。が、それはほんの一瞬のことだった。次の瞬間には、まるでそれを上書きするかのように、声を荒げる。


「だいたい、そんなのわかるように案内しとけよ! どこが列なんだよ! 何様だお前!」


羞恥を怒りに変えるのは、弱者の自己防衛であり、誰かがその矛先になるのは理不尽の典型だった。


神崎は、それでも一歩も退かず、深く頭を下げた。


「申し訳ありません。ですが皆さまお並びいただいておりますので――」


「うるせぇ!」


怒声が店内に響いた。列に並んでいた客たちは凍りつき、BGMが無音のように感じられた。


「なんだその態度は。客に指図すんのか。女のくせに、なに気取ってんだよ!」


言葉の刃が性別を選んだあたりに、男の本質が滲んでいた。相手を見て、力の差を測ってから怒鳴るタイプの人間だ。彼の中では、神崎は「怒鳴っても大丈夫な人間」として分類されていたのだろう。


その証拠に、手にしていたキャニスターを、レジ台に向かって乱暴に投げた。幸い、商品は落下することなくレジ台に跳ねて止まったが、カランとガラスが揺れる音が、神経を逆なでするように響いた。


神崎の顔色がすっと変わった。目は泳ぎ、指先が震えている。


「……あの……少々お待ちください……」


奥のスタッフルームから、ちょうど佐々木が戻ってきた。状況をひと目で把握し、神崎の背に軽く手を添えて前に出た。


「お待たせいたしました。こちら、何かございましたでしょうか?」


男の目が、一瞬にして鈍る。敵が強くなったことを、本能で悟ったのだろう。数秒の沈黙があり、それから男は不機嫌そうに吐き捨てた。


「……もういいわ。くだらねぇ。時間のムダだ。」


そう言ってキャニスターを取りもせず、踵を返してレジ前を去っていった。扉がバタンと音を立てて閉まり、ようやく空気が緩む。


神崎は深く息を吐いて、小さく頭を下げた。


「すみません……私が、列をご案内しただけなんですが……」


「うん、大丈夫。むしろ、よくやった。完璧だったよ。」


佐々木はそう言いながら、キャニスターをそっと脇に寄せた。


「こういう人は、怒るために来てるんだよ。並ぶとか、商品買うとかは二の次。誰かに自分の苛立ちをぶつけられれば、それでいいんだ。」


小さく苦笑してから、彼は最後にこう締めくくった。


「人に物を投げるほどの“正義感”、人生のどこで拾ってきたんだろうな。――売り物の方がよっぽど透明で、ずっと割れにくい。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る