忍び寄るスニーカー

kou

忍び寄るスニーカー

 デパートにある書店。

 中学生の渡瀬わたせ春香はるかは、ずっと探していた本を手に、満足感で胸をいっぱいにしていた。

 休日のデパートは多くの人で賑わっている。

 その喧騒の中で、ふと、春香は奇妙な感覚に襲われた。

 まるで、人混みに紛れて、誰かがじっと自分を見ているような……。

(……気のせい。かな?)

 振り返ってみても、特定の視線を感じる訳ではない。

 人の多い場所ではよくあることだ、と自分に言い聞かせ、春香は会計を済ませて書店を出た。

 デパートを出て、昔ながらの商店街を歩く。

 少し疲れていた春香は、休憩することにした。

 目に入ったのは、レトロな喫茶店。

 春香は窓際の、通りが見える席を選んだ。

 紅茶を注文し一息つく。

 さっそく本を開き、活字の世界に浸りかけた、その時だった。

 窓ガラスに映る自分の背後、通りの向こう側に、一瞬、人影のようなものが見えた気がした。

 慌てて振り返るが、そこには何もいない。

 ただ、夕暮れ時の人通りがあるだけだ。

(……見間違い?)

 しかし、一度気になり始めると、妙な違和感がまとわりついてくる。

 店内の照明が落とされた隅の方。

 客の話し声が途切れた一瞬の静寂。

 その隙間に、何か別の「気配」が紛れ込んでいるような感覚。

 それは音もなく、ただ存在している。

 その気配は、まるで特定の靴を履いているかのようだ。

 コツコツと音を立てる革靴ではない。

 もっと静かで、滑るように動く……そう、「忍び寄る」ような、靴。

 英語の授業で習った言葉が、不意に頭をよぎった。


【スニーカー】

 その語源は、「sneak(忍び寄る)」

 ソールに柔らかいゴム素材を使用している為、足音を立てずにそっと忍び寄ることができるという意味。


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 カップを持つ手が、微かに震える。

 窓の外に目をやっても、店内の様子を窺っても、はっきりとした異常は見当たらない。

 けれど、確実に「何か」がすぐ近くにいる。

 音もなく、じっとこちらを窺っている。

 春香は、まるで透明な壁にじわじわと追い詰められていくような、息苦しさを感じ始めていた。

 恐怖で顔が青ざめていくのが自分でも分かった。

 会計を済ませ、店外に出ようとした時、一人の少年が入ってきた。

 学校こそ違うが、同級生の少年・佐京さきょう光希こうきだ。

「渡瀬さん?」

 光希は、春香の様子がおかしいことに気づいた。

「……って、顔色悪いけど?」

 光希の真っ直ぐな視線に、春香は張り詰めていたものがプツリと切れた気がした。

「あの、さっきから……何か、変な気配がして……」

 春香は、デパートでの違和感から、このカフェで感じている音のない気配を、途切れ途切れに話し始めた。

「……分かった。僕が家まで送ってくよ」

 光希の力強い言葉に、春香は涙が滲むのをこらえながら、こくりと頷いた。

 二人でカフェを出る。

 光希が隣にいるだけで、先程までの息詰まるような恐怖は少し和らいだ気がした。

「大丈夫。僕がついてる」

 光希は春香の不安を感じ取ったように、短く言った。

 夕闇が迫って来る。

 二人は並んで歩き出し、春香の自宅へと続く、人通りの少ない道へ行く。

 そして、案の定、は再び現れた。

 空気が、ひやりと冷たくなる。

 まとわりつくような気配。

「……いる」

 光希は春香を自分の背後にかばうように立ち、ゆっくりと振り返った。

 数m先の電柱の影に、はいた。

 黒い人影。

 顔も形も判然としないが、異様な存在感だけが際立っている。

 そして、その足元。

 影の中に溶け込むようにしながら確かに見える、泥にまみれてひどく古びたスニーカー。

「佐京さん……」

 怯える春香に対し光希は落ち着いていた。彼はゆっくりと息を吸い込み、武術ウーシューで習得した拳を握る。

 光希は黒い影に対し距離を詰めて行った。

 その動きに合わせて、まとわりつく冷気と圧迫感が増していく。

 春香は息を飲むことしかできない。

 光希が動く。

 踏み込みと同時に、鋭い呼気と共に、渾身の突きを繰り出す。それは黒い影の中心、胸のあたりを正確に捉える。


 裂帛の気合


 突き出した拳に、強い気を込める。彼の全身から発せられる純粋な意志の力が、異質な存在を打ち抜く。

 ふっと、圧迫感が消えた。

 冷たい空気も和らぎ、元の静かな夜道に戻った。

 黒い影も、気味の悪いスニーカーの幻影も、跡形もなく消え去っていた。

「……行った、みたいだ」

 光希は構えを解き、ふぅ、と深く息を吐いた。

 額には汗が滲んでいる。

「ありがとう、佐京さん……!」

 春香は涙ぐみながら礼を言った。

 本当に怖かった。

 でも、光希が守ってくれた。

「いや……」

 しかし、光希の表情は晴れなかった。彼は影があった空間を睨みながら、険しい顔で呟いた。

「……完全に消滅させた手応えじゃない」

 その言葉に、春香の心に再び不安の影が差した。

 恐怖は去ったのではなかった。

 ただ、一時的に退けられただけなのかもしれない。

 軽やかに歩ける靴。

 でも、その名前の由来である「sneak(忍び寄る)」という言葉の不気味な響きは、もう春香の中から消えることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忍び寄るスニーカー kou @ms06fz0080

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ