第25話:「アスフォデルスの取り扱い説明書25・それ以外の所で話が進む」


 ――あらゆる因果に決着が着いたその後のひととき。

 大陸に無数にある峠の茶屋で、慣れない片腕に苦労しながら彼は一口茶を啜った。


「……やっぱ強かったなぁ、あの女」


 剣の老翁レナードである。右手は二の腕までばっさりと失いながらも、彼はまさに異名の如く死なずに茶を啜っていた。しみじみとした口調で呟かれた言葉は、誰にも聞かれる事はない。

 生姜と蜂蜜、そして山羊の乳がたっぷり入った茶のコップを置くと、レナードはその失われた右腕を掲げる。その目は、暗命剣が走った箇所に向けられていた。


「あれが暗命剣。……確かに、経絡に魔力を流し全身の点欠を貫くなんざ大抵の奴は死ぬわな」


 バルレーン・キュバラムの秘奥、暗命剣の骨子を韜晦しながら彼はもう一度茶を啜る。再会の淡い歓喜、心地よい屈辱、儚い妄執――生きて在る事の味がした。

 大抵の奴が死ぬ業、それを振るわれた筈なのに彼がどうして生きているのかと言えば……。


「因果ですな、バルレーン・キュバラム。あっしの身体は、腸も血の流れも点欠も……全て逆なんでさぁ」


 その体質を、『皇帝の玉体』という。今世で数人しか存在しない、稀有な体質。それが彼が片腕だけ犠牲にし生き延びれた理由である。

 利き腕の対価としては――恐らくは彼女も既にこの事を察してはいるだろうが、それでも――破格の取引だった。……その茶を最後の一滴まで飲み干すと、彼は代金を机の上に置いて茶屋を跡にする。


「さて、まずはこいつを使い物にしなきゃならん……久々に山籠りと行くか!」


 目指すは東。暁が昇る方角。

 明け行く空に、三度目の再戦を祈り死なずのレナードは歩み始めた。……いつかバルレーン・キュバラムを獲る、その日に向けて。


 ――――。

 ――。


 イシュバーンの一角にある無名者達の墓。罪人や浮浪者、その他の不都合な者達を弔う為の場所がここである。

 風の冷めた、よく晴れた昼下がり……息子の亡骸と共に葬られた師の簡素な墓標の前に、彼はそっと白い花を供えた。


「貴方のやった事は、けして許される事ではない――それでも貴方は間違いなく私の師でした」


 彼に残された時間は少ない。もうそろそろ馬車が出る。新たな土地に向かう為の物だ。

 国との司法取引により死罪を免れる代わりに、未だ開拓途中である極西の地へ向かう事となった。十数年親しんだこの土地と、まさかこの様な別れ方をするとは……否言うまいそれは断ち切らねばならぬ物だ。

 ここに帰ってくる事は……もう無いだろう。


「お世話になりました、師父。どうか安らかに、ご子息といつまでも……」


 元来、彼だけなら西の地に行く必要はなかった。なら何故向かうのと言えば、彼がもう一つ取引を願ったから。

 ……解剖調査後、実験体として扱われる筈だった師父ガノンダールと息子フロウィスの遺体を墓に葬る事。彼の師に対する最後の贈り物である。


「さよなら、師父」


 その時、風がふわりと息吹きある物が彼の鼻を擽った。

 舞い散るのは淡い桜の花片。……彼の青い瞳から、一筋涙が伝った。


 ×    ×    ×


 ――それは、遠く過ぎ去った過去のある日。

 トルメニア王国の東部、魔術師ガノンダールから遠く離れた小さな名もなき寒村。そこに古びた深緑色の屋根の一軒家がある。


 黒壇の香りが仄かに薫る、深紅の壁の部屋の中。金の髪に淡褐色の瞳がやけに浮いて見えた。群青色のローブに赤い天鵞絨のマントを羽織った女は、時を重ね飴色になった揺り椅子に座っていた。かちゃり、という音がするとその真鍮で出来た左右の義腕が机の上に乗った。


 名をファルトールという。この工房の主にして、世に遺跡荒らしと呼ばれる大魔術師である。……ファルトールは、首元までかかるまで伸ばした黒髪に薄紫の瞳の少年に対し鷹揚に訊ねた。


「それで、我が弟子アルンプトラよ。あの子の様子はどうだ?」

「二週間前に移植した義眼の調子は良好で、本人は特に何も言ってきません。……高い材料使って作った甲斐がありましたね師匠――お陰で僕達しばらく三食は、食べられる野草です」


 少年の名は、アルンプトラと言った。彼女の一番弟子である。彼は青と白のローブを纏い、腰には二対の真鍮製の器具――傀儡環が吊るされていた。

 右手を繰る。その五指には全て指輪が嵌められており、そこには薄い極小の魔力の糸が付きそれは腰の傀儡環に通っていた。その指を繰ると、傀儡環の数字が刻まれた輪が回転し、……土塊で出来た小人のゴーレムが彼の右肩の上で野次を飛ばす仕草を見せた。それに対し、ファルトールはと言えば――


「ふふ、はははは、あーっはははは! ……ごめん、ひょっとして怒ってる?」

「当然でしょう。何の相談もなしに、ガノンダール師から弟子を拐ったんですよ。――直前まで共同研究組んで、大口の仕事が決まって、僕が久々に豪華な食事にありついていた十分後にね!」


 破壊と殺戮の伝道師とまで呼ばれた女が、今はこの少年一人に頭が上がらない。

 何せ魔術は金がかかる。大口のパトロンがいれば、別だが大抵の魔術師というのは貧乏暮らしが基本だ。そもそも何故彼らがこんな名もない辺鄙な寒村に住んでいるかと言えば、地価が安いその一点だけである。

 本来なら、アルンプトラが言う様にガノンダールとの共同研究を行う事で、魔術師ギルドを通して国から潤沢な研究予算を融通してもらえる筈だったのだが……。


「本当ごめん、我慢出来なかった」

「まぁ、しょうがありません。ガノンダール師、あんな事やってたんでやった事自体は怒ってないですよ。問題は仮にも一番弟子の僕に何の相談もなかった事です」


 ガノンダールが弟子に対して行っていた、古代のホムンクルスに関しての人体実験を見つけた事。それに彼女が怒り、共同研究を打ち切った事により今は儚い夢となって消えた。


 その後のファルトールに何が起きたかと言えば、まず他人の弟子を攫ったという事で魔術師ギルド内で悪評が立った。のみならず、ガノンダール間で交渉した結果弟子を引き渡す代価として多額の示談金を払わねばならなくなった。更には、引き取った弟子への義眼を始めとする治療費が思った以上に高額となった。……それらが加わった結果、ファルトール一門の家計は現在火の車である。それを事後承諾で言われた日には、弟子であるアルンプトラとて納得は行かないのも道理だろう。


「待て私にいい考えがある――この人の感情に反応して魔力が通る技術、これが当たればデカい!」

「研究を賭け事みたいに言うんじゃありません!」


 事、魔術師ともなれば研究で食えなくても最悪冒険者にでもなれば糊口は凌げる。現にファルトールは昔は冒険者だったが、今は肺を病んであまり身体の無理は効かない。長い戦闘に関しては不向きと言っていい。また弟子のアルンプトラに関してもゴーレムを遣う才能はあるが、そもそも成人前である為冒険者になる事は出来なかった。一応、拠点としてる寒村で医者の真似事をしているが……入って来る報酬は雀の涙だ。


「奴の話が煩わしくなって、生まれ故郷の話で煙に巻いて外の空気を吸いに行ったら、あんな物を見つけるとは夢にも思ってなかった」

「まぁ、いいです。もう一度言いますが、あの子を救った事自体は素晴らしい事なんで……それに普通では得難い子だったかもしれません」

「そうなのか?」

「えぇ、ついこの前から魔術を教えてるんですが、昨日は、魔導書一冊を一日暗記し何も見ないで模写しました。それも文章間違いすら正確に。チェスも教えた途端上達してますし。……あぁ、師匠が出したパズルも全て解かれちゃいましたよ」


 アルンプトラの言ったパズルというのは数学で言う所の魔方陣を使った立体の物である。答えを完成すれば、ファルトールの幻影が現れ褒め称えてくれるという物だ。ファルトール手製の焦具――天球儀のイヤリングの次に与えたのがそれである。


「え、アレ全部解いたのか!? 一か月分のつもりで用意したんだぞ!?」

「一個解いて幻影を見たら、もう夢中になっちゃって。……三日で全部解きましたよ」


 教えがいから自然と鼻息が強くなるアルンプトラとは対照的に、ファルトールの顔は少し曇っていた。数拍の後にアルンプトラがそれに察し尋ねる。


「どうしたんですか、師匠? 何かあったんですか?」

「……確かに凄い子だよ、あの子は。でもなアルンプトラ、私は正直それを素直に喜べない」

「何でですか?」

「記憶力が優れているというのは、即ち苦しみや辛さも忘れられないという事だからだ。あれだけの事を忘れられないというのは、後々まであの子の心を蝕むだろう……それを思えば、な」


 現にファルトールとアルンプトラは彼女の心が病んでいるのを目の当たりにしていた。それは引き取った直後、最後のホムンクルスを摘出した時だった。

 ――そいつ、そいつ……殺してください。お願いします、お願いします……。

 摘出した直後、体力をかなり消耗したのにも関わらず、そう言った彼女の心は間違いなく病んでいた。……きっとこの傷は長く尾を引くだろう。


「……あのホムンクルス、どうしたんですか師匠?」

「遠くにやったさ、もうあの子と二度と会う事のないとこに……今頃は川を渡りきった頃だろう」

「……お疲れ様でした、師匠」


 人の形をした物を直接手を下す事は出来ず、川に流したのだとアルンプトラは察した。倫理が破綻した者が多い魔術師の中で、ファルトールは珍しく真っ当な部類だ。心労はあまりあっただろう。ファルトールが顔を曇らせながらそう言った直後である。大きな破裂音が一つ。その音に思わずアルンプトラとファルトールの顔が驚き一色に染まる。


「工房の方からです!」

「命は無事だね!」


 ファルトールは真っ先にアストロラーベを取り出すと確認。……アスフォデルスの魔力と連動し一目見れば身体の状態が解る仕組みとなっている。

 アルンプトラは魔力の糸を通し、左手でゴーレムを繰ると小人程のゴーレムが跳ねてドアノブを下に降ろす。そしてもう一度左手を引くと、そのままドアが開いた。

 彼等二人が押っ取り刀で音の出元である工房に駆け付けるとそこには……焦げた鍋の前で面食らい硬直する、茶色い髪に三白眼の少女がいた。顔の左半分には包帯が巻かれている。白煙と共に漂う香りは、仄かに霊薬の物が混じっていた。


「……あ、ご、ごめんなさい」

「怪我は!? 何をやってたの!?」


 アルンプトラが驚愕冷めやらず、若干興奮したまま聞く――と同時に両手を繰るとそこに先程と同じ小人のゴーレムが現れ、部屋の跡片付けを始めた。すると彼女は少し口ごもり、おどおどと怯えながら。


「……今日は、お昼まで自由にしていいって言われたから……その……あの……」


 その時、ファルトールは淡褐色の瞳を走らせて机の上に置いてある物に目星をつける。傍らの机に置かれている小瓶は、全て人工皮膚を作れる材料だった。それでファルトールは全てを察した。


「霊薬の調合は、また来週って言ったじゃないか! 何か作るなら呼んでくれないと! ……どうして、こんな事を」

「その……だって」


 涙ぐみ始める少女に対し、ファルトールは右手でアルンプトラを一度制する。顔はわざと怖そうな物を取ると。


「いい、アルンプトラ。こうまで勉強熱心なら、こっちだって考えがある。今回は私がやろう、――ちょっとこっちに来なさい」


 その時、少女は一瞬ひっと引き攣った声を漏らす。そしてファルトールに少し手を引かれると、途端堰を切ったかの様に謝り始める。


「ご、ごめんなさい! ごめんなさい! わ、私師匠みたいになりたかったんです! だって、だって……私の顔お化けみたいになっちゃったから」


 その時、アルンプトラとファルトールは一瞬顔を曇らせた。年頃の娘がこれを言う等、あってはならない事だ。そしてファルトールは一拍間を置いた後。


「来るんだ」


 有無を言わさず引っ張り出し、連れて来たのは先程の深紅の壁紙の部屋だった。中の内装は本棚とベッド、そして金色で装飾された鏡台だけである。その前に少女を座らせると、彼女の前にある物を並べる。……全てファルトールが普段よく使う化粧道具である。勝手な事をやって怒られると思い、流れていた涙がぴたりと止まり、代わりに戸惑いの声が上がる。

 ふわりと、化粧道具から山椒が薫る。


「こ、これは……?」

「今は、まだ義眼の調整が終わってないから教えられないが……終わったら化粧の仕方を教えてやろう」


 瞠目する少女に対し、ファルトールは彼女のその細い肩に両手を置き。


「誰が怒るものか、火傷を消したかったんだものな。……そうだ、紅を引いてみるか? これなら包帯を取らなくて済むしな」


 そうして紅の入った金色の丸い缶を開けると、ファルトールは右手の小指で掬い少女の口に左から右へ引く。それが少女が初めて引いた口紅であった。


「これで美人が出来た。……ほら、笑ってみな」


 心から笑える事なんて少なかったのだろう。鏡の前の少女は不器用に、ぎこちなく笑みを浮かべる。それがファルトールの目には何とも痛ましく映って見えた。そしてこれからこの少女は何度も忌まわしい記憶に悩み、苦しむのだろう。それでも、今だけはこの少女に笑っていて欲しい……そう思ったのだ。

 喩え、一つの命を奪った矛盾を抱えたのだとしても。


「なぁ、実はもう一つ贈り物が有るんだ。お前の身体は特殊だ、ロクでもない奴が付け狙う事もあるかもしれない。……だから、お前に魔術師としての新たな名を与えよう」

「名前……?」

「あぁ、その血の香りは極楽百合だ。でももう一つ、別の呼び方があるんだ不凋花というな。永遠に色褪せず、萎み枯れる事のない花。アスフォデルスの名をお前に贈ろう」


 これから自分はこの少女に沢山の贈り物をしよう。愛も、友情も、怒りも、悲しみも……一人で生きていける様に。全てを差し出そう。

 命有る限り。否、命尽きたとしても尚。

 なぜなら。この子は遠い日に失った家族と同じ目をしているのだから。いや、この子も紛れもない家族なのだ。


「どんな人生でもいい、生きてさえいてくれれば……」


 ――全ては、遠く過ぎ去った過去の話である。

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