第24話:「アスフォデルスの取り扱い説明書24・終わらせる事ができる」
――己(おれ)達は、望まれ生まれて来たモノではない。
「お願い、通して?」
だから死脳喰らいに埋められた兄弟の最期の言葉を断った。
「母さん……、母さん……」
だから影喰い沼に埋められた姉妹が伸ばしたその手を断った。代わりに己が二人に与えたのは、永別の刃と言葉だ。
「眠れ、お前は安酔の舟に抱かれ……やがて楽土の路を辿るだろう」
己の声は位相がずれている。故に喉を震わせても唸り声しかならないが、血を分けた彼らとだけは語り合う事が出来たのは何の因果か。それでも今は言葉を喋れない事を感謝している。
「師匠……」
その小さすぎる身体、母と呼ぶには余りにか細く弱々しい姿。けして、彼女にだけはこの正体を明かしてはならないのだ。きっと、彼女は己の正体を知った瞬間殺すだろう。何故なら、己は彼女が忌み嫌うホムンクルスの最後の一匹なのだから。
己の名はファングイン。魔術師アスフォデルスの血を受け継いだ、望まれぬ最後の仔。
穢れから生まれたムーンチャイルド。
己は、けして人間じゃない。
――――。
――。
ガノンダールに纏わる、全ての因縁と禍根に決着を付けた後。
……研究所は閉鎖。率いていた一門は方々に散り、魔族に関しての研究は協議の結果、全て焼かれる事となった。
父と息子の亡骸は無名者達の眠る墓地に埋葬されたらしい。
それが、魔術師ガノンダールに言い渡された裁きの全てだ。しかし残された傷は深かく、けして癒える事は無かった。
「戻らない。私、私の姿が……」
己の前では、アスフォデルスが琥珀色の液体を滴らせながら狂気の形相で鏡の前で自分の裸身を睨んでいる。……思わず寒くならない様にケープを体にかけたが、彼女は気づく事はない。
ガノンダールの一件が終わり、アスフォデルスは数日間枯れる程の涙を流した後、今は何かに取り憑かれたかの様に力を取り戻す為の行為を繰り返している。皆、それは悲しみを癒す為の代償行為だと考え、まるで幽鬼の様になったアスフォデルスに付き従っていた。
「――」
不意に、右手が陰りに触れ熱さが走る。
……己は、闇に耐性のない体になってしまった。常に光を焚かないと、体は即座に闇に炙られる。
あの後、ランタンを持ったバルレーン達と合流しなければ己は焼け死んでいただろう。
トラウマから、思わず息を飲んでしまったが気付いた様子はない……あの日からアスフォデルスが己を見る事は無かった。
「属性を変換させますか、ベラドンナの秘薬を使い……いえ、もっと他に」
『機帥の迷宮』の最奥、そこに眠った哲学者の卵に何度浸かってもアスフォデルスの姿が戻る事は無かった。肉体は問題ない、心肺機能も霊覚も何もかも元通りとなっているし、賢者の石も機能している。
しかし魔族に取り込まれた事が影響しているのか、哲学者の卵が彼女の身体に応える事はもう無かった。結局、何も彼女の手に戻る事はなかった。生き残った事が必ず幸福を与えるという訳じゃない。
正体を隠せば、このまま幸せになれると思ったのに……幸せは己達の事が嫌いらしい。
「……アスフォデルス殿、その……」
ユーリーフが何か言いかけた所で、それはバルレーンが無言で止めて一先ずこの場を去る事を促す。去り際、バルレーンは己に目配せをした。何かある時は必ず止めろという意味だ。
「何故……何が間違ってるとうのです。素材を変えますか、聖別した物に。それともケロタキスを動かして……」
その姿はまるで妄念に取りつかれた悪霊の様だ。いや、まさしくアスフォデルスは悪霊に取りつかれているんだ。
「……もう、私しか師匠の姿を残していないのに」
ぽつりと呟いた言葉は、感情が抜けきっていた。そこで光を失いつつある青い瞳はふと、机の上に置かれた鋭いナイフに向いた。それは彼女の籠手に仕込まれた装備の一つ。
ぴたり、と妄執の香りが消える。そこで澄んだ、ガノンダールの時と同じ知性と理性の匂いが香った――
「離してください、ファングインさん……こうなったら次の手を取るしかありません。師匠が死んだんです、もう生きる意味がないなら……私」
右腕を掴んで、その刃を止める。
ようやく己を見てくれた。けれど、アスフォデルスから香る感情は悲しみ、郷愁、絶望、諦観、喪失――それらが理性にくるまれて。己が欲しい匂いは一つもない。
じわり、と彼女の右半分に火傷が浮かび上がる。彼女はちらりと鏡を見ると、己に示す様に。
「ほら、火傷だって……こんな顔じゃ私生きていけないですよ」
それでも、己は首を横に振った。我ながら子供染みてる。己は、貴方がいてくれればいい。醜くなんてない。汚らわしくなんてない。どんな姿でも良い。
「どうしてです、ファングインさん。……何故、貴方は何時も助けようとするのですか?」
だって、貴方は己のママだから。己の、己の大切な人だから。……言葉にはならない、してはいけない言葉が心の中で浮かび上がる。
「……貴方には感謝してるんです、ファングインさん」
続く言葉は己の心を抉るのに、十分過ぎた。
「貴方は、あの魔族二人を殺してくれました。私から生まれたあの化物を。どれ程礼を言っても足りない……」
思わず琥珀の左が丸くなった。それは、アスフォデルスが魔族の秘密を知っていたからだ。一瞬自分の正体がバレたかと思った矢先、アスフォデルスの言葉は続く。
「貴方は、私の悪夢を祓ってくれました……貴方を信じたい」
言葉からは、何かを隠している感じはしなかった。少なくとも己の正体には気づいていないらしい。正体がバレなかった事に安堵する反面。あの二人が、どの様な気持ちで果てたかを思えば……。
「本当は、私が、私の手で全部ぶち殺さなきゃいけなかったんです……殺してやりたかった」
「……」
「でも、最後の一体は師匠が既に処分してる……汚点は跡形もなく清算されました、もう思い残す事はない」
そう呟くと、アスフォデルスは己の右手に嚙みつき、拘束が緩んだ所でナイフに駆け寄る。そして天を仰ぐ様に首元にナイフを向け、刃を喉に押し込め瞼を瞑る――
――瞑る、ように見せかけた。
肉を、裂く音が一つ。
痛い。
凄く、凄く痛い。
己の右手の手の平には、深い刃の跡が刻まれている。
とめどなく流れる黄金の血は、一瞬の内に甘い極楽百合の香りで部屋を満たした。
「………………やっぱり、ですか」
直後に響くのは、たった今救おうとしたアスフォデルスから漏れる上ずった、まるで信じたくない物を見た様な声だ。その青い瞳から一切の光が無くなる。
理性と知性の匂いがする。
アスフォデルスのその青い瞳はまるで冷たく凍てついた満月の様だった。その刃が、まるで裁きの様に向けられる。
己に。
「ファングインさん、貴方は……」
アスフォデルスは躊躇いながらその言葉を告げる。稀血に同じ香りは存在しない、つまりそれは……アスフォデルスはもう答えに辿り着いていたのだ。
あ。
あぁ。
「そうなのですね」
あの時、神様に何でもすると言った。でも影喰い沼の時、血を流すのを怖がってしまった。
……あぁ、そうか。だからこれは代償なのだろう。約束を破ってしまった事に対する。
でも己は生きて欲しかった。死ぬなんて耐えられなかった。
だって、己は――アスフォデルスを守る為に兄と姉を殺したんだもの。
血を分けた家族を殺してまで守ったんだもの。
ばあちゃんは、きっと悲しんでるだろう……。
「う、嘘ですよね。嘘だと言って下さい……どんな理由でもいいんです、何でも……他でもない貴方が言うのなら」
その瞳が、縋る様な目で己を見た。こんな目で見られたくなかった。
でも解ってる、代償を払わなくちゃいけない時が来たんだ。
己は、返事の代わりに腰に付けたガンプを取り出す。ツギハギだらけだのぬいぐるみ、頭の兎の耳を取り出すとそこには熊の耳が隠されていた。
お願い、愛して欲しい。愛して欲しい。こんなに、こんなに頑張ったんだから。辛い戦いを二回もした、飛竜からも守った、殺した殺して殺して殺した。何でもする、貴方が望む事を望むまま何でもする。愛して、愛して愛して愛して愛して。好きでいて、抱き締めて、何処にもいなくならないで。
愛して、嫌いにならないで、捨てないで、殺さないで。
お願い。お願い、ママ。愛して……。
そうして伸ばした手に、返って来たのは――
「穢らわしい!」
――再びの、冷たいナイフの一閃だった。
「……ッ」
間一髪のとこで、己は避ける。直後、机に右肩をぶつけ、大きな音を出してしまった。
その青い瞳から涙が零れる。擦っても擦っても、それは止まらず自然と床の染みとなる。
ナイフを握ったアスフォデルスの指から、一切の力が抜けた。柄は五指をすりぬける。
彼女は生理的嫌悪から喉を逆流する吐瀉を両手で咄嗟に押さえ込もうとするが、堪えきれずその場に吐き出す。
――返って来たのは、刃と反吐。
誰がどう見ても明らかだ。己は、もうアスフォデルスの痛みになってしまった。
「剣士殿!」
「ファン!」
その時、ユーリーフとバルレーンが血相を変えて部屋に再び入った。惨状を見た瞬間、バルレーンは思わず凍りつき、ユーリーフは血の気が引いた顔を浮かべ直ぐに己達の元に駆け寄った。
「い、今回復を……」
ユーリーフはすぐに回復魔法をかけようとする。しかし、それは――
「貴方は、知っていたんですね……最初から」
胃の中の物諸共、それまで己に抱いて来た感情全てを吐き出したかの様なアスフォデルスが冷たい声音で黙らせた。彼女は己のフードを剥がす。これ以上、少しの隠し事も許さないという暗喩の様に。
己はこくりと首肯する。一目見た時、もう解ってしまっていた。だけど言えなかった。言えばきっとこうなるから。
「アスフォデルス殿、何を……?」
状況が未だ把握出来ておらず困惑気味にユーリーフは訊ね、バルレーンは一度鼻をひくつかせるとそれで全てを察したらしい。二人とも、己の血が稀血なのは知っている。
宙に浮いたユーリーフの問いは、アスフォデルスの次の言葉で答えが与えられる。
「さっき、どうして私を助けると聞きましたが……その理由が今解りました。だから、どんな時でも私を守ってくれたのですね」
その言葉にも、己は首を縦に下ろした。そこでアスフォデルスは無表情に数秒見つめた後。
「ふへ……」
乾いた笑い声を漏らし始めた。目を皿の様にし、瞳孔まで開いてしまいそうな程見開きながら、まるで飲み込めない物を無理矢理飲み込む様な不気味な笑いだった。そしてその笑いは、徐々に勢いを増していき、最後には絶叫の様な笑いとなった。
そして、その壊れてしまったかの様な笑いが一度ピタリと止まる。そうして、不意に彼女は己に駆け寄ろうとするもバルレーンに腕を掴まれ一度止められた。
「何をする気だい?」
「離せ! 離しなさい!」
回された手に噛みつき、振り払うと――彼女は力強く己を抱き締めた。
まるでもう二度と離さないと言わんばかりに。後ろ髪を一度、あやす様に撫でる。そして自分の顔を己の左耳に寄せると――
「おぞましい……」
――囁く様に、そう言った。
「おぞましい、おぞましい、けがらわしい、けがらわしい、おぞましいおぞましいおぞましい……」
呟く様に、自分に言い聞かせる様にアスフォデルスはけして視線を己に向けずそう言う。言葉は猛毒の様に己を巡り、指一つ動かす事が出来なかった。
狂ってしまった様に、壊れてしまった様に、彼女は言葉を積み重ねる。
「落ち着くのじゃアスフォデルス殿。剣士殿はアスフォデルス殿の事を、ずっと守って――」
「……解ってますよ、そんな事」
ユーリーフの声に、アスフォデルスはぽつりとそう呟く。己の頭を抱き締める力が一層強くなる。
「殺さなくてはいけません、ファングインさん……」
噛み締める様にそう言うと、複雑な感情が香る。殺意と嫌悪、悲しみと怒り、……感情の香りはまるで間欠泉の様に止めどなく膨れ上がっていく。
「解ってるでしょう。貴方は生きてちゃいけない、貴方は人間じゃない、人間じゃない奴は生きてちゃいけないんです」
それに対し、ユーリーフは一言呻く様にも吐き捨てるようにも聞こえる声音で。
「狂っておる……なんで、そうなるんじゃ?」
きっと本人も拾われるなんて思ってなかったんだろう。ユーリーフのそれに対し、アスフォデルスはきっと振り返ると彼女は一瞬身を竦ませた。
「これが人間じゃないからです! 貴方に股座から怪物を入れられた事がありますか! 腹を開かれ、人の形をした物が取り出された事が!? 忌まわしき記憶に幾度魘された事は!? それを子供だと、どうして思えます!? ……私、お母さんになんてなれません。無理ですよ、そんなの」
最後には啜り泣く様な声に、とうとうユーリーフは言葉を失った。誰も何も彼女にかけられる言葉を持ち合わせていない。
アスフォデルスは、ずっと己の髪を撫で続けていた。それは未練を断ち切る事の暗喩だったのかもしれない。
そこでふと、まるで地下水の一滴の様に。嫌悪の中に、ある感情の香りがした。
ぼそっと、左耳に小声で囁かれる。
「………………貴方、もっと優しい人の所に生まれて来れば良かったのに」
この香り。
この匂い。
あぁ、この匂いは――慈悲だ。
今、理解した。この人は今、ファルトールを失った時より最も苦しい所にいる。
愛と嫌悪。相反するその二つの中で、苦しんでいる。
おぞましい、けがらわしいと言いながらも抱きしめるのは、それは……なんて辛い事なんだろう。
……なら己がしてあげられるのは。
一度己にほおずりをしたアスフォデルスを身体から離す。一瞬虚を突かれた彼女に対し、己は右手に落ちてたナイフを拾うと、そっと柄を彼女に差し出し。
「え?」
自分はこの人に望まれていない。じゃあ、逆にこの人を殺す事が出来るだろうか。無理だ、そんなの出来っこない。
己は、きっと生き続ければアスフォデルスを苦しませるだろう。ならここで終わりにさせるしかない。それで、彼女の苦しみが終わるなら。
それで、アスフォデルスの痛みが癒えるなら。涙が止まるのなら。
己は、それでいい。
「皆、少し頭に血が昇ってるみたいだね……冷静になろうよ」
そう言ったのはバルレーンだった。何時もと変わらない口調で、諫める様に。
「しばらくさ、アスフォデルスと距離を置いてほとぼりを冷まそう。皆、ちょっと熱くなり過ぎちゃってる」
「……バルレーンさん、貴方はこの事知っていたんですか?」
アスフォデルスの冷たい言葉と視線が、バルレーンに向いた。声音は何処か責める様だ。
「ファンの血が極楽百合で、人間じゃない事を指してるならね。……一回戦ってるし」
「………………何故、言わなかったのですか?」
「こうなるからだよ。迷宮でこれが起きれば、即命取りだ」
その問いに、アスフォデルスは苦渋の顔を浮かべて言葉を詰まらせる。しかし匂いは理性の香りがした。バルレーンの言う事はもっともだ、それが解らないアスフォデルスでは無いに違いない。
「どうするんだい、アスフォデルス?」
アスフォデルスの言葉は一拍遅れた。それは一瞬の様にも、永遠の様にも思えた。酸欠の鯉の様にゆっくりと彼女は答える。
「殺します、殺さなきゃ……殺さないと」
次いで、バルレーンは己を見ると。
「ファンは、それでいいのかい?」
その問いに、己は首を縦に振った。
これは、きっと己が何とかしなきゃいけない事だから。バルレーンやユーリーフが手を尽くしても、それはきっと一時しのぎにしかならないだろう。
バルレーンもきっとそれは解ってて、それでも彼女は一度目を瞑ると諦めた表情を浮かべた。ゴーレムを準備していたユーリーフすら止めて。
部屋の端でばあちゃんが、悲しそうな顔をしている幻影を見た。
己は、それからも――ありとあらゆる全ての過去から目を逸らす。
そうして、己はアスフォデルスを抱き締めた。
つぷり、と皮膚を裂いて血が一筋が流れた。刃の感触は冷たく、鋭い。
刃が、少しずつ己の喉を裂き始めた。
刃渡り幾らもないナイフの上に、命が載り始める。
血が、命が、零れ落ちていく。溺れてしまいそうな程百合の香りが満たしていく。
アスフォデルスは呼吸を止めていた。多分、自分の中の有りっ丈の悪魔を駆り立ててるのだろう。
「……見ておれぬ」
ユーリーフのか細い声が響く。ふと見ると、アスフォデルスの顔は酷く強張っていた。
己は、いつかの時と同じ様にその背中に手を回した。あの時、死脳喰らいに襲われた時の様に。刃が更に深く突き刺さる。
一度咳をしてしまったが、笑いかける。血飛沫が数滴、アスフォデルスの顔を汚してしまった。
嫌われたっていい、貴方が好きにならなくたっていい。
振り返らずに、それで前に進んでくれるのなら構わない。
――愛してる、ずっと。ずっと。
そして、彼女は血に染まった刃を突き立てて――そのまま凍った様に動きを止めた。
その時愛も嫌悪も、慈悲すら飛んだ。
青い瞳が皿の様に大きく見開いた後、くしゃくしゃになる様に歪み。
「笑うな!」
震え、懇願する様な声音。代わりに香っていくのは正気の爽やかな匂い。
「笑うな! 嫌がれ、憎め! こんなの、無茶苦茶でしょう。貴方が何をしたって言うのですか……拒みなさい」
見てるこっちが辛くなりそうな程泣きそうな顔で、淡々とそう言う。
「なんてこと、こんなのただの我儘じゃ……いや違う、私は――私は――」
いまや、アスフォデルスは狂気と正気の狭間にいるのだろう。そこで刃は引き抜かれた。
ぺたり、とアスフォデルスもその場に座り込む。まるで糸が切れた人形かの様に。代わりに鼻をくすぐる悲しみの香りに仄かな愛情と、憐憫の複雑な匂いが混じる。
「何で、何でこんな事に……」
嗚咽と共に、青い瞳から涙は止めどなく零れ落ちる。刃は引き抜かれ、己の手からアスフォデルスが離れる。その後、アスフォデルスの青い目が見開かれると。
「これは一体何!? なんでこんな事になってるんですか!? ファングインが私の娘って、一体どういう事なんです!?」
その言葉は怒りと困惑に満ちていた、その小さな身体が壊れかねない程。怖かった。ユーリーフは目を大きく見開き、バルレーンも呆気に取られていた。
「あの日、あの時全て殺したと貴方は言った筈です! 一体全体どういう事なんですか、師匠!? 何で今になって悍ましいホムンクルスが、ファングインになって私の前に現れたのですか!?」
そう叫んだ直後。アスフォデルスは自分の言葉に一度噎せ、荒い咳込みを何度かした。そして少しばかり息を整えた後、まるで啜り泣くかの様に――
「いや、違う師匠の所為じゃない、ファングインさんの所為でもない――私は我欲に満ちてなんて」
そこで彼女の青い瞳と目が合った。
「なに、この化物……?」
目線は、己の中のアスフォデルス自身に合っていたと思う。
「おぞましい、けがらわしいのは私じゃないですか……醜かったのは顔でも身体でもなく心……」
あれだけ愛してたファルトールを気付けば責めていた。その事を正気に戻った事で、アスフォデルスは自分の醜さを直視してしまった。
ふらふらと、覚束ない足取りで彼女はその場から離れる。長机が両脇に並んで道となった先、地面から生えた機械類のある所へ。所々にある機械に体を、自ら傷つける様にぶつけ、まるで風に拐われる木の葉の様に。脊髄反射で思わず右手を伸ばすが――
「――やめなさい!」
アストロラーベを弄ると、途端その一画に立ち込めた闇がそれを阻む。
トラウマが、身を竦ませ咄嗟に手を離させた。
闇の帳の中から、アスフォデルスの声がした。
「あの時から、闇に弱くなってしまったんでしょう? そんなの、やめなさい」
どうやら見抜かれていたらしい。己は指を伸ばすが、炎より熱い闇に触れる度に手を放してしまう。そうして、彼女は続け様。
「怪物は消えなきゃいけないんです……こんな、こんな醜い物許しちゃいけない」
直後、握り締めたナイフに再びの力が籠るのが音で分かった。刃が明かりに照らされ鈍い光沢を放ち、切っ先は再びアスフォデルスの喉に向く。
「私、いつの間にか化物に変わってしまったみたいですね……」
そう言って、アスフォデルスは涙を流しながら下腹部を一度摩る。そこに刻まれた十字の傷は、今も尚彼女に残っていた。全てを失って残ったのは、痛みの記憶だけである。
「こんな奴、誰も愛してくれる訳ないじゃないですか……愛されちゃいけない……アルンプトラ、ごめん」
滔々と流れる涙を前に、誰も何も言える事は無かった。
そんな事ない、そんな事ないよ。だけどアスフォデルスはまるで謝罪する様に己を見つめ、そして目を背けた。
「私が……私が間違ってた」
ここに来て、アスフォデルスは何もかも失った。
魔術も、財産も、美しさも。親友であるアルンプトラも、そして生きる望みであったファルトールすらも――その心の拠り所すらも。後に残ったのは、忌まわしい記憶の根源である無力な少女の姿。そして、痛みと悲しみと恥辱の化身である己だけ。
「師匠、だから消えちゃったんですね。でもどうして、病気の事言ってくれなかったんですか? どうして、名も知らない土地で一生を終えたんですか? わ、私の事が嫌いだったんですね……私から逃れたかったんですね?」
一息置いて。
「でも、ならどうしてアルンプトラに義眼を預けたんですか? ――あなたは一体、何を考えていたんですか?」
あなたは、一体何を考えていたんですか? ……アスフォデルスのこの二百年は、つまりそれ尽きるんじゃないだろうか。しかし、それが答えられる事は無い。
「…………答えられる訳ないか」
そうして、彼女は自分の白い喉に刃を突き立てようとした。
やめてと己が思ったその時、バルレーンが動く。アスフォデルスの手の中にあるナイフを取り上げようとしたのだろう。
その時、鮮血が香る。口から血反吐を溢れさせ、バルレーンは思わず転げかけた。ユーリーフは……。
「アスフォデルス殿……」
「なんです、ユーリーフさん」
「この負け犬」
「安い挑発ですね……」
「……っく」
それは多分、彼女なりの引き留めだったんだろう。しかし、それで止まる事は無かった。
……彼女は再び刃を突き立てた。
その時。アスフォデルスの右目が不意に、淡い光を放つ。光の中から現れたのは金色の髪に、淡褐色の瞳。それが誰なのかは皆直ぐに分かった。
《アスフォデルス……》
「師匠……」
魔術師ファルトールがそこにいる。あのアスフォデルスと同じその姿で、気まずそうに後髪を搔きながら。
《あー、これを見てるって事は……死を望む精神に呼応し現れる仕組みにしたし、恐らくお前の事だ。どん底の泥沼に落ちて死のうとしてるんじゃないかなって思う》
そう言った幻影のファルトールに対し、アスフォデルスはその濁った青い瞳で亡者の様に縋る。
「……師匠」
《まぁ、そういう前提でこれを残しとくよ。まず最初に言っとく、――死ぬな》
「無理ですよ……私が嫌いだから消えたんでしょう」
死を止める師匠に、数拍遅れてアスフォデルスは振り絞る様にこう答えた。
一度鼻を啜り。
「なんで、病気の事言ってくれなかったんですか。私、師匠の為なら何でも差し出せた……肺でも肝臓でも命でも……」
《アスフォデルス、私はお前に技術を教えた。魔術を教え、目を与え、友を与えた……けれどな、ただ一つだけ教えきれなかった物がある。お前自身の生き方だ》
そこで、アスフォデルスの動きが止まる。直後、背後にいたバルレーンが何処か納得した様な素振りを見せた。
《お前は、徹頭徹尾自分を嫌っていた。その姿を嫌悪し、鏡を見る事を極端に嫌がってた……最初は化粧の仕方でも教えてやればなんとかなると思ってたが、お前はずっと自分以外の誰かになりたかったんだよな。私がそれをようやく知ったのは、お前が私になった時だったよ》
幻影のファルトールの目が細まる。何かを、後悔する物を思い返す様に。
「だ、だって……こんな奴誰も好きになれないじゃないですか。私……私、師匠みたいになりたかったんです……師匠みたいに、師匠になれば」
師匠みたいになれば、という言葉の続きが出る事は無かった。多分、理由が絶えてしまったんだろう。その時、幻影のファルトールは視線を逸らす。奇しくも、現実のアスフォデルスからも目を背ける様に。
《私は……育て方を間違えてしまった》
育て方を間違えてしまった、そう言った時アスフォデルスの目が大きく見開かれ。あらゆる匂いが消し飛んだ、その位今のは強い言葉だった。
《一人の人間として、お前を育てる事が出来なかった》
「し、師匠?」
《そして、それを正す時間は私にはもうない。だから、一計を案じる事にした。理由なく姿を消せば、きっとお前は私を探し続けるだろう。あらゆる痕跡を消し、死後は無名墓地に入れば特定は困難だ。……私の帰りを待つ事、それがお前の生きる理由にした》
恐らく、『機帥の迷宮』のアストロラーベが無ければ完璧だったろう。実際アスフォデルスはアレなしでは探し出す事は出来なかった。
《そして、アルンプトラには全てを話した後に言葉を詰めたこの義眼を預けた。奴の事だ、私と意が反する事はないだろう……アレもまたお前の事を案じている。
後は、お前がこれを見ている時。傍らに、誰かいる事を願うだけだ。お前が私の後を追わない様に、道を間違えない様に支えてくれる誰かが》
ファルトールの姿が徐々に消えていく。姿は霞み、声は遠くなっていく。
《……憎んでくれていい、恨んでくれていい、お前が自らの人生を愛して、生きてさえいてくれればそれで構わない。お前の事を心から愛してる》
そこで、徐々にファルトールの姿は消え数瞬後には何も残らなくなっていた。死を望む事に感応する仕組みであるなら、幻影が消えた事は生の渇望を意味する。それぐらい己にだって解った。
再び立ち込める闇の中で、アスフォデルスが重たい口を開いた。深い悲しみの匂いが香り始める。
「そっか、師匠は……そんな事を考えてたのですか」
突如与えられた答えに対し、アスフォデルスはまるで何かを喉に詰まらせたかの様に重々しくゆっくりと話し始める。
「蓋を開けてみれば、なんて事のない事でしたね……皆さん」
そのまま、不器用な笑みを浮かべるが誰も何も答える事はない。ただただ、アスフォデルスのその姿が痛ましかった。そうして、悲しみは怒りの匂いに変わる。
「……育て方を間違えた……って何?」
あざ笑うかの様に一度そう言う。そして続く声音は静かであった。
「なんです、聞いていれば……私の人生が全部まるごと失敗作だったみたいな言い方をして、それで愛してるですって?」
一人の人間として、ここまで言われてどうして怒らずに言えよう。それは彼女の今までの人生そのものへの侮辱である。……そして再度己を振り返ると、申し訳なさそうな顔をした。彼女は頭の良い人だ、自分がこの言葉を続ける矛盾に気付いたのだろう。その矛盾を自覚して尚、言葉は止められない。
「嘘を言うなっ!」
鼻を啜り、息を呑み。
「愛してるなら、離れない筈だ! あのガノンダールだって、息子に会いたいが為動いたんだぞ!?」
涙を拭って、喉を震わせ。
「一言言ってくれば、それで済む話だったでしょう……病気の事とか、私の事とか、一言言ってくれれば……信じてくれれば」
壊れてしまう程、彼女は叫ぶ。
「憎んでくれていい、恨んでくれていいだって? ……今更、今更そんな綺麗事言うな!」
アスフォデルスにとっては、その言葉は欺瞞に過ぎないのだろう。自分を信じなかったのに、お前の為という体裁を取り繕って自分を綺麗に見せようとする様にしか見えなかったに違いない。
いや、違う。仄かに鼻をくすぐるそれは理性だ。これは感情のままの言葉じゃない。
「貴方がやったのは……都合で拾って、都合で捨てただけじゃないですか! 本当に生きてほしいなら言ってよ! 自分の人生を愛せだって!? 違うでしょ、貴方になっていく私が悍ましかったんでしょう!?」
ならこれの意味は、もう二度とファルトールを頼らない為の決意表明だ。ファルトールへの依存を断ち切り、自分の人生が……そしてファルトールの人生すら失敗だと言わせない為の。
「貴方は何もかも嘘ばっかりだ、その証拠にファングインさんが生きている!」
多分、己が直接手を下されなかったのは、アスフォデルスがファルトールに拾われたのと同じ慈悲からだろう。
己はあの後、エルフの里に流れ着き、そこで拾われ育てられた。……きっと、ファルトールは思ってしまったのだろう。せめて、もしかしたら他に生きる可能性という物を。
それを裏切りというのはこじつけが過ぎている。だから、多分アスフォデルスはファルトールを嫌いになろうとしているんだと思う。
心から愛してくれた師ファルトールのいなくなった世界で一人で生きて行かなくてはならない。だから、それはどうしても言わなくてはならない事なんだ。
例え師に届く事が無かったとしても。
「“アスフォデルス、私の歩みが止まっても、お前の歩みは止まるな。お前が進んでいる限り、私は生き続ける。”……」
死脳喰らいと面して心が折れかけた時と同じ様に、その言葉が呟かれる。もうけして放たれる事はない言葉を、噛み締める様に。
「私は……」
その瞳に滲むのは、人工羊水か涙か。一度声が詰まる。それを無理矢理飲み込んで、もう一度最初から言葉を紡ぐ。
「私は、けして死なない。貴方みたいな人の後なんて死んでも追ってやるもんですか。だけど……」
ありったけの意地を振り絞って、アスフォデルスは結びの言葉を紡ぐ。
「……貴方は私に沢山の物をくれた、その恩だけは永遠に変わらない。今まで大変お世話になりました師匠。……でも貴方とは、もう、これまでです……」
からん、とアスフォデルスの右手からナイフが零れ落ちる。そうして、よろよろと机に向かうと魔法銃の中からある物を取り出した。
それは道具の核となっていた天球儀のイヤリング。彼女は宝物だと言ったそれを机の上に置くと、逆手に持った魔法銃の持ち手で粉々に砕いた。
「さよなら、師匠」
そこにはもう死の影は微塵も残っていなかった。師匠への未練も、あの体を満たしていた業想念の様なエネルギーも。……何処かほっとけば今にも消え去ってしまいそうな儚さがあった。これが本当に明日を生きれる人間なのだろうか、この場にいる全員がそう思ってしまう程に。
「本当に、何もかもなくなってしまいましたね」
言葉はただ空虚だ。見ていられない程に。
己は――一度左手を見つめる。
誰かが、言ってあげなければならない。愛してると。
何を守りたいのなら、無傷でいられない。己は常に代償を支払わなくてはならない。
その怯えも、竦みもいらない。今はただ体の動くままに――
「え?」
素っ頓狂な声が上がったのは、きっと入る筈のない己が闇の中に入ったからだろう。
「ファン!」
「剣士殿!?」
闇は変わらず熱い。闇が己を焦がす。
でも、構わない。
ここにいる。己はずっとここにいる。
――己は背後から力一杯アスフォデルスを抱き締めた。右手の傷が痛むが、構うものか。アスフォデルスは、その様に思わず虚を突かれ目を丸くする。
彼女は一瞬、言葉を詰まらせる。憎まれて当然の面罵をしたのにも関わらないのに。その香りは、今と振り返っても名前を付ける事は出来ない。ただ柔らかく、儚げな淡い香りだった。
「何で……」
理解できないという感じで、顔を青ざめさせて言葉が一つ。
「……放しなさい! 早く光の元に!」
己は言葉を持たない。それへの返答は、締める力を強くする事だけだ。それを見てアスフォデルスは一度泣きそうな顔をした。
「私は……貴方に抱きしめられる資格なんてない」
そんなの知らない!
ずっと、ずっと一緒にいる!
……どうやら思いが伝わったらしい。そこで彼女は一言。
「あれだけの事があって……」
そこで、言葉が詰まる。
「光の下に行きますよ、ファングイン。一緒に……まずはそれを何とかしないと」
そう漏らすと、彼女は己の右手の傷を塞ぐ様に両手で覆う。
ようやく、終わったのだと思う。彼女と己に纏わる長い輪廻が、これでようやく。
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