第22話:「アスフォデルスの取り扱い説明書22・溶ける」


 ――アスフォデルスの身体が溶ける。しゅうしゅうと音と白い煙を立て、しばらくしない内に黒いタールの様になった。

 首に己(おれ)の噛み痕がなかった。それが剣を振るった理由だ。


「斬り伏せたか……」


 彼女がその死骸から視線を前方に向けると、深い闇から浮かび上がる様に白い衣を着て右手に錫杖を持った老人が現れる。どろりとした嫌な気配、そこはかとない魔の気配を感じた。


「奴の知恵を引いて臓器や骨格まで精巧に――皇帝の肉体そのものを再現したのだが、看破するとは……今後の課題であるな」


 嫌な人だ。生理的に好きじゃない。


「ここに人が来たのは初めてでな。儂の名はガノンダールという、しがない魔術師である。お客人さて、何用かな?」


 この人が、ガノンダール。その問いに対し、己は気付くと自然と剣の切っ先を突きつけていた。ガノンダールからは腐臭がした、淀んだ魔力の匂いが。


「どうやら黙って帰る気はないようだな、よかろう……我が悲願成就の為に受けて立つ――出よ」


 目の前の地面。そこから尽きない泉の様に物質化した闇が溢れ、床を浸していく。それはさっきアスフォデルスを拐った物と同じ奴だ。

 何だ、これは……。

 そうして歌が、知り得てはいけない事を啓蒙する旋律が、…………囁き声の様に細く小さい声音で聞こえてきた。



 ――Val,Et'val.



 それは魔術師が唱える古代語とも、バルレーン達が使う公用語とも違う聞いた事のない言葉だ。ただそれが唱えられる事に全身の毛が逆立つ。



 ――Zwe'Ghea Nhat-Widzata.Gularfem dwel Zularfem na Ehat.Et'Culufoo na twan Baquylgar.



 怒り、嘆き、苦しみ、狂気。意味は解らずとも、剣を構えさせるのには十分だ。刃の先にいるガノンダールは何もしない、ただその余裕ぶった顔は何かがあるらしい。



 ――Et'Alm dwel Mauv-zwar Ehat dwel cawn.Camna Camna Camna,Quamza faw.Pangweia dwel Zasts am dwet.



 歌が、そこで終わる。そうしてその影の沼からは、まるでシャボン玉の様に黒い影で出来た玉が数個ふわふわと浮かび上がる。


 殺気を辿る――

 己は背後に跳躍。瞬間先程までいた所には何かが衝撃と共に地面を抉った。

 蹲ったそれが背を伸ばす。

 掌で象った二対の羽に、ほっそりとした女の裸身の様な胴、下腹部には黒い血が膿んだ十字傷。足はない。まるで植物の様に影の沼から胴体と触手が生えていた。

 顔もない。首から上はまるで切り落とされた様になく、切り口からは止まらない涙の様にタールを垂れ流している。ただ、周囲をぷかぷか浮かぶ玉の群れには時折青い目玉が入り交じってる。


 ……それは、四本ある人の腕と無数の細い触手で……一対は鬼灯の様に赤く輝く十字魔法銃を、もう一対は自分自身を抱き締めていた。

 まるで愛した人を失った者が、その墓標にすがり付く様に。


「奴を殺せ、影喰い沼」


 魔族の名前は影喰い沼というらしい。

 ガノンダールがその錫杖の石突を叩くと、魔族は抱き締めていた十字魔法銃を抜き放ち己に向けて乱射する。同時に触手を縦横無尽に広げて舞う様に薙ぎ払っていく。

 己は生存本能が告げるままに動いて、なんとか間一髪避けた。

 一体アレはなんなのかとか。何故アスフォデルスが持っていた十字魔法銃を持っているのだとか。そう言った疑問は全部爆音が散らす。


 考えたくない。

 今は戦いに集中しないと。少し工夫が必要だ。

 乱射の合間を縫い、足に魔力を通し自重を零にすると、突き刺してきた触手の肉の上に乗る。エルフの身体操術の一つ、これを極めた戦士は崩れ落ちてゆく岩の上でも地上と同じ様に駆ける事が出来る。


「――」


 狙うのは、その胸部。薙いでくる触手の上を飛び続け、距離を詰めるとそれを突く。


「――」


 押し殺した様な影喰い沼の悲鳴が漏れる。貫いたというより叩いたという方が正しいかもしれない。どうやら心臓への一打ちは効いてるらしい、十字魔法銃を支える腕や触手が減り、影喰い沼はえずく様に胸を押さえる。

 一拍遅れて怒りと共に、まるで鈍器の様に振り回された十字魔法銃が鼻先を掠めた。


 ただ奇妙な事に柄には嫌な感触がした。吐き気にも似た何かが。

 死脳喰らいと同じ、でもそれは……いやまさか。


 嫌な想像は徐々に膨らんでいく。…………魔法銃の乱射を掻い潜る中。表情を変えなかったのが気に食わなかったのか、ガノンダールの舌打ちの音がした後。


「そなた、何故涼しい顔をしてられる? 今ここにいるのはアスフォデルスなのだぞ?」


 一瞬、その声に思わず剣を取りこぼしそうになった。そのまま剣を手の中で回し、肉の蔦を払う。

 嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!

 けれど生臭い腐臭の奥に香る一筋の甘い百合の匂い。そして何より胎の十字傷から覗く赤い輝き。それは血の赤――賢者の石の赤だ。

 ……ガノンダールが言う通り、この魔族はアスフォデルスだ。

 動揺が生じさせた隙を突かれ、思わず魔弾が頬を掠める。


「ッ」


 ダメージは大した事ないが、恐怖と焦りで動悸が止まらなかった。

 駄目、さっき神様にお願いして扉を開けてもらったのに。怯えちゃ駄目、恐れちゃ駄目って解ってるのに……どうしてもアスフォデルスだと思うと躊躇ってしまう。

 今のこの状況で、それは非常にまずい……。


「今のを防ぐだと? そこに生じる影を喰らい我が物とする魔族だぞ……だがよい、どうせ四方は影。影喰い沼相手に、いつまで持つかな?」


 ガノンダールの言う通りこのミスリルの淡い光以外、四方は闇。右の頭上と左の腹横に水音が同時にしたと思うと、そこから触手が生じる。

 ――背後からの殺気を辿り、左に一回転し剣で払う。……そこには地面に生じた黒い泥の様な所から触手が八本、鋭い爪を尖らせ狙っていた。


 同時に剣の柄に走る衝撃をあえて殺さず、伝わる振動で相手を見た。不定形の怪物と言えども人間一人を内包すれば、必ず筋肉は淀み――動きを阻害する瘤が出来る。しかし今の一撃にそれはない。どうやらアスフォデルスの身体は溶けきってるらしい。


 大振りの触手の一撃が右横から放たれる。回避はしたがその切っ先の鋭さに一瞬、呼吸が乱れた。


「……」


 半拍、妙に人間臭い間が空いた。直後、全ての触手の切っ先が研がれ鋭い物に変わった。見抜かれたのだと、直感が告げていた。

 途端、触手の攻め方は斬撃に変化。対し、己の剣には怯えが宿り始めていた。怯えちゃ駄目なのは解ってるけど、それが徐々に手元を狂わせる。その時右手に浅い痙攣が走った。


 左から横薙ぎの一撃が来るのが見えた。

 回避が……間に合わない!

 だから、己は――背中のそれを解放した。

 それが、地面を足より強く叩く。


「何!?」


 ガノンダールの驚く声が響く。緑のローブの下から生えるのは、まるで飛蝗の様な足。

 一叩きは十メートルの距離を稼ぐ。そのまま後方へ土煙を立て着地した。調息で呼吸を整え、右手の痺れを抑える。

 同時に着地を狩る為に十字魔法銃が掃射されるが、咄嗟に庇った左腕で防ぐ。ローブは無事だが、手甲が壊れた。露になるのは鱗で覆われた鋭い爪の五指。

 左腕は一番硬い。魔力を奪う鱗で覆われてた。

 そうだ、己は人間じゃない。


「――」


 影喰い沼が来る。

 音より早く、それは一気に距離を詰め十字魔法銃を。そして遠心力をたっぷり乗せた触手を振るう。


 己は花の剣と左腕で払う。右手は人間、左手は獣。両方とも人間でいたかった。

 赤で彩られた隕鉄が横薙ぎに振るわれる。上半身を逸らして躱す、――と同時に沼から生える触手が一突きが生まれる。

 刃と左で逆十字を作り受けようとした。

 そうして息を止めた瞬間。その先端が何故か己の顔の前で止まる。


「――ッ」


 考えるより先に生存本能が最適解を出し、即座に逆十字を崩して左の爪で一閃をした。それで怯みを生ませたまま、背中の足を駆使して速度を増し、奴の左に回転しながら滑り込む。

 同時に背後を狙った触手の対策も忘れない。右の刃を後ろに向けて、背後から来た斬撃を防いだ。そのまま飛蝗の跳躍力で奴の死角に潜る。

 荒れる呼吸を整えた後理性は告げる。間違いない、あれは死脳喰らいと同じ痙攣癖だ。

 あぁ、まさかそんな……。 


「儂は正義ではない。だが、解るか下女――愛する者を蘇らせる為なら、人は何でも出来るのだ」


 愛。そういうと、ガノンダールは己から目を逸しその奥にある巨大なフラスコを見つめる。


「フロウィス、お前の為なら何も惜しくはない……誇りも名誉もお前の為なら捨てよう、生きてさえくれればそれで……」


 そこで己が弾いた触手の一本がそのフラスコに向かうと、その真横へ轟音と共に落ちた。そこでガノンダールの顔に初めて血相が浮かぶ。


「貴様ッ、殺せ! 奴をさっさと取って喰らえ!」


 そうして彼は癇癪を起こした様に石突を何度も叩く。それに呼応し、刻一刻と触手の死線は密度と速度を増した。


「喰らえ、そいつを生きて帰すな!」


 今、この時だけは血が流れる恐怖を忘れる。飢え渇く、その姿がただただ痛ましかった。

 哀れだった。哀れで、あまりにも悲しかった。

 ……一閃と共にその未練を斬ろうとする。しかし、分厚い霊肉は斬れず弾くのが精々。未練もまた同じ。


「こうなってはもう救われん。諦め絶望せよ、そなたに成す術はもうない」


 花の剣で触手を払うと周囲の魔導書や実験器具にぶつかり、幾つもの破片が散らばった。

 成す術、ゼロから五十%の賭けに持ち込む手段はある。あるが、それは己の意思で使う事はできない。それに使うまでの間、己は影喰い沼と戦って一滴の血も流さず倒す事が出来るだろうか。


 触手は縦横無尽に壁を切り刻む。そのガノンダールの背後、二メートルの巨大なフラスコは淡く輝き始めていった。

 瞬間、避けそこなった触手の一撃が己の身体を吹き飛ばす。背中の足で受け身を取るが、殺し切れず壁にぶつかると、思わず息が止まりかけた。

 即座に影喰い沼が肉の槍で刺してくる。……何とか右手の剣を縦に向けて防ぎ、形はそう鍔迫り合いの様になった。趣味の悪い事に一本また一本と剣を押す触手が増えていく、更には十字魔法銃を零距離で放ち始めた。


 左腕の鱗は魔力を吸うから弾け飛びはしないが、それでも衝撃が骨を震わせる。圧し潰されない様に背中の足で壁を押すが、膂力は徐々に向こうが上回りつつあった。

 その後ろでガノンダールは満足げな表情を浮かべ。


「見よ、奴の力が徐々に儂に流れてゆく――」


 ガノンダールはそう告げると、闇の中周囲の魔力が徐々に変化していく。周囲一帯の魔力量が爆発的に膨れ上がり、それは一挙に彼に流れ込んだかと思うと、身体は徐々に老いから若きに変化していった。感覚で察する。それはアスフォデルスの賢者の石の効果であると。


「この勝負、見飽きた――程ほどにしろ影喰い沼……後は儂が片付けよう」


 錫杖がりんと鳴る。そして若返っていく最中のガノンダールは呪文の詠唱を始める。


「《それの生死は流転する。命は焔が如く燃え盛り、羽ばたく物である》」


 闇に古代語が響く。

 感覚で、その呪文は最後まで唱えさせてはいけない物だと思った。

 しかし、この触手は跳ね退けれそうにない。ゆっくりと真綿で首を絞める様に重ねられた触手は、もう百本目に届こうとしていた。まずい、非常にまずい。

 丁度その時だ。


 ――右の目が薄っすらと見え始め、刃がその位相を狂わせ始める。

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