第10話:「アスフォデルスの取り扱い説明書10・泣き虫で傷つきやすい」


「ファングインさん……」


 薄暗い焚き火の中、茶色い髪の少女がそっと己(おれ)を揺さぶる。

 迷宮の静寂を破るように、か細い声が響く。


「ごめんなさい、ファングインさん……トイレに行きたくて」


 己は一瞬ためらったが、最終的に立ち上がる。

 未だ燃え続けてる焚き火に附木――硫黄を縫った木っ端――で移した火をランタンに入れると、己は涙目になったアスフォデルスを連れてトイレに連れていく事にした。


 ローブの裾を掴んで付いてくる彼女は、先程と同じ人物とは思えない程気弱でか弱く見える。この小さな背、余りにも取るに足らないその存在……いや何も思うまい。別れはあの時告げた筈だ、今はただそれが延びただけに過ぎない。

 迷宮のトイレは、入り口以外は完全な閉鎖空間。壁に赤く光る目玉の印が、唯一の目印だった。


「ファングインさん、ここで待っててくださいね」


 アスフォデルスはそう言い残し、闇の奥へと消えた。己は壁にもたれ、ぼんやりと薬草の煙をくゆらせる。

 赤ちゃんの頃からのお供――ツギハギだらけのぬいぐるみのガンプだけが、煙遊びにいつも付き合ってくれる。


 ふと右手の指先に、鋭く尖った何かが触れた。

 瞬間、脊髄を駆け抜ける悪寒。即座に指を引っ込める。危なかった、こんな所で怪我をしたらまずい……回復が使えるユーリーフは眠ってる真っ最中だ。

 血が出るのはまずい。右手は人間だから。


『ファングイン……貴方は、ほんの少しばかり普通の人と違うみたい』


 育ての親の、ばあちゃんの声を思い出す。己はそっと指を握ると、右手をしまった。


「……ぁ、ちゃ」


 ぽつり、ばあちゃんと呟いてしまったのは痛む胸を堪え切れなかったから。昔は話せたが、今は喉から意味ある言葉になる事はない。これが精いっぱいだ。

 直ぐに喉が疼いたので左手で摩る。この疼きがあるから、この歪んだ声帯は己が声を持つのを許さない。

 ――刹那、心臓を鷲掴みにされる様な痛みが走った。


 呪いの警告痛。

 考えるより早く、己はトイレの中へと駆け込む。

 そして、そこで目にしたのは逆さ吊りにされたアスフォデルスの姿。

 肉の蔓が、彼女の細い体を締め上げていた。部屋の左隅の大きな亀裂の中には、七つの異なる色の瞳。


「あっあっあっ、助け、あっあっあっ、殺し、あっあっあっ、苦し、あっあっあっ」


 重なり合う声。

 男と女、老いも若きも混ざり合った喘ぎ声。

 理性が削がれる感覚。理解するこれは――この世ならざる魔の者。

 彼女の目が己を捉えた。瞬間、肉の蔓に絡め取られた魔法銃が投擲され、壁にめり込む。


 同時に、触手の締め付けが強まる。

 アスフォデルスは声にならない悲鳴を上げる。涙と混じった尿が頬を伝い、地面へと滴る。

 じわり、と彼女の右半分にインクが染みる様に酷い火傷が浮かび上がってくる。……そこで足音、それと車輪が高速回転する重たい音。


「あっ」


 その怯み、貰った。

 狙いはアスフォデルスに絡み付く触手――その根本。

 両手持ちに切り替え、込める力を螺旋に。切り落とす事が出来ないのならばこうする。……突き立てた刃から流し込まれた力は速やかに流動し、先端に到達。絡み付くのと逆方向の螺旋が、触手の締め付けを緩ませる。

 心に、何か嫌な感触が走ったのはその時だ。何か、してはいけない禁忌を犯した様な感触。

これは、一体何だ?


「どうしたの、ファン!?」

「……一体何の冗談じゃ?」


 血相を変えたバルレーンと人間の頭に蜘蛛の様な足の生えた化物を見たかの様なユーリーフの声が響く。


「ふぁ、ファングインさん……」


 何とか間に合った。触手が緩んだ瞬間、剣を放って体を後ろに一回転。両腕に抱き締めて着地……腕の中にアスフォデルスがいる。

 潤んだ瞳が一拍突き刺さり、その後力強く彼女から抱き締め返された。一瞬嬉しさが心に滲む。……体を回す直後に右足で鍔を蹴り上げた剣が遅れて足元に。


「あっ、あ、ああ、逃がさない、あっあっあ、愛して、あ、ああぁぁああ」

「させるかのう!」


 再び触手が襲いかかるも、それに割り込んだのはユーリーフのゴーレムだった。鉄の騎士人形は盾を構えながらカバーリングし、鋭く尖ったそれを弾く。

 空気の炸裂音と、装甲が弾ける音が闇に木霊した。


「アスフォデルス、大丈夫!? ……あれは!?」


 バルレーンが驚いた声でそう尋ねる。間一髪助けられたものの、未だ身体に残る恐怖感からアスフォデルスの言葉は一拍遅れる。喉に何かが絡まったかの様に数度えずくと、恐る恐る彼女は口にした。


「あ、あれは……魔族です。天地開闢の後に生まれた穢れ、人を苛む悪魔です……何で、どうして自然に出て来る物じゃないのに」


 アスフォデルスが震える声でそう言うと、バルレーンは赤瑪瑙の瞳で一度対敵を睨む。


「ユーリーフ、とりあえずゴーレム! ファンはあれ取って!」


 あれというのは触手にまだ絡め取られた魔法銃。己は触手の根本を再度見極め……さっきより細い。ならば使うのはこれだ。

 懐から鉄球を取り出す。魔力を込めた分だけ回転する仕組みが施されているそれを根本に投げると、回転は肉を巻き込み触手を捻じ曲げ、丁度宙に魔法銃を差し出す形となる。


 そこをバルレーンが髪より細い針を一撃ちすると肉が爆ぜ、放り出されたそれを掴み取った。……その隙を狙って別の触手の一突きが肩を掠める。


「あ痛!」


 バルレーンの二の腕から血が滲むのと、思わず悲鳴を漏らしたアスフォデルスに彼女が魔法銃を差し出すのは同時。その中で魔族の猛攻は続き、己とユーリーフは否が応でも防戦を強いられる事となった。


「奴について知ってる事、全部教えて!」

「な、何をするつもりですか……?」

「アレが会話で何とかなるタイプの奴に見える!? 肉体言語に翻訳しないと無理でしょ、追っ払うにしてもぶっ殺すにしてもね!」


 その怯えを見抜いた上で、バルレーンは短くそう言う。その裏ではユーリーフが作った人程の大きさのゴーレムが、触手を食い止め続けていた。


「今日はとっつきじゃなくて、回転鋸にすればよかったのじゃ……アブラソコムツを三十切れ食べた後、トイレが見つからなかった時の事を思い出すのうッ」


 ユーリーフが汚い思い出の泣き言を漏らしながら、懸命にカバーリングする中。バルレーンはなんとかアスフォデルスから情報を引き出そうとする。


「まさか、戦うつもりですか? 正気ですか……に、逃げましょう!」


 そこでバルレーンは手にした針を地面に突き刺す。針の先から魔力を通し、音の反響で地面の状態を見る……彼女お得意の技だ。


「……壁からこんにちはしてるのは氷山の一角だ。内側はミントを植えた金持ち奥様の庭より酷い事になってる、逃げても無駄だよ!」


 震えるアスフォデルスの手を掴むと、魔法銃を両手で無理矢理握らせる。声を引き攣らせた音が上がったのはその後だった。

 先程の恐怖が未だ抜けきってないらしい、堰を切ったかの様にアスフォデルスは嫌悪と恐怖を叫ぶ。ただただ恐ろしいに違いない。正直、己ですらあの魔族を直視するのすら厳しい。


「わ、私がいる必要あるんですか!? 魔法の矢なんて、ユーリーフさんだって撃てるでしょう!?」


 あの鉄兜の男の様にゴーレムに守られ、その背後から魔術を撃つのがゴーレム遣いの通常の戦い方だ。言い終えたそこでアスフォデルスはふと気付いたらしい。今まさにゴーレムを操ってるユーリーフは、一向に呪文を唱える様子を見せない事に。


「ユーリーフはゴーレムの数が普通より多い、分析のゴーレムにあの車椅子もゴーレム。その上で魔術なんて撃ったら魔力切れでぶっ倒れるよ」

「なら、バルレーンさんが戦えばいいじゃないですか!」


 その言葉を受けて、バルレーンは一度傷ついた様な……苦虫を潰した顔を浮かべ。


「……戦えるなら、とっくの昔に戦ってるよ」


 直後、ユーリーフが防ぎきれなかった触手が一本明後日に走る。それはアスフォデルス達の方へ。……バルレーンが彼女を押し倒す形で間一髪直撃を免れたものの、そこでアスフォデルスは再び魔族を見た。

 見てしまった。

 ぼんやりと慣れてく夜目に映るのは、まるで浸食するカビ。崩れ落ちた壁の隙間から、ぬめつく黒いタールの様な粘液を部屋中に這わせ、そこから脈動する何かを壁中に流し込んでいく。……ほんのり淡く輝くそれは、人間の脳髄であった。


 ぼこり、と一際大きく泡立つ音がする。壁の隙間から吹き上がった霊肉は、徐々に人型を取り、やがて上半身を形成。その顔は乱杭歯を剥き出しにした口以外は、腫瘍で全て埋め尽くされた様な物。それ以上は暗くて分からない。……しかし再び心を折るには十分だったらしい。股座から漏れる小便が、再び下着を濡らし始めていた。


「無理、無理ですよ……あんなの!」


 アスフォデルスはその場に崩れ落ち、涙を流し続ける。鼻水すら飛び出ていた。


「折れるな! 前を向いて、魔法銃を撃てよ!」


 しかし、再びその青い瞳が死脳喰らいを見て……吐かれるのはひきつった悲鳴。


「……あれと戦うなら、あれに相対するなら、私は……私師匠に会えな……」

「やめろー! それは絶対言うな! 君、二度と立てなくなるぞ!」


 すすり泣く声が後ろから聞こえて来る。


「ぬわあああああああん、酷いんじゃもおおおおおう! こいつら人間じゃねぇなのじゃ!」


 騎士像は、まるで荒れ狂う様に戦い続けた。彼女の指に呼応し、騎士人形は左手のシールドを前に掲げた。重たい音を立て、空気が圧搾し――その杭が装填される。

 更にユーリーフが右手の糸を繰ると、騎士人形の右手に握ったメイス。その槌頭が回転し、威力の上がったそれが魔族の触手を払う。


「うぉん! 妾は魔術師兵器じゃぞ!」


 左の杭が触手を穿つ。

 十字魔法銃の掃射にも耐えられる程の強度を誇るその刃金は、それでようやく魔族の腹に深く突き刺さる。……しかし、そこで悪意が一抹香った。

 多分、魔族に顔があれば笑っていたと思う。触手がとっつきを中心に、黒の鉄人形の体中に絡みつく。……肉を食わせて切らせて骨を断つという事か。


「のじゃ、マ、マジか!? あー、妾のゴーレムがネットネトのグッチョグチョに!?」


 まずい。そう思って刃を走らせるが、鉄人形に絡んだ肉の蔦は離れない。そうこうしてる間に他の触手が己達に襲い掛かる。……その内の一本がアスフォデルスの元に向かった。


「ひっ!」


 短い悲鳴。己は、背後に振り向き様に手の中の柄を滑らせて一本を打ち落とす。

 だが直後、腹から一気に空気が抜ける。……太いまるで木の幹の様な触手が、胴に絡みつつあった。その後に右腕にも腕が絡み着き、握る剣を取り零させようと締め上げる。


「ふぁ、ファングインさん……」


 我ながら……愚かな事をしたと思う。でも、しょうがない。



 せめて少しでも逃げて欲しい。そう思って、首で「行って」と指示する。……後ろ、その篝火の仄かな光が指す方向に。



 首元に触手が這い、荒縄の様に締め上げる。……見納めに、その青い瞳と目が合った。


「――」


 ――その時、アスフォデルスから全ての感情の匂いが消えた。

 同時に甲高い音と赤い光が一度、迷宮に迸る。放たれた矢の魔術は、魔族の顔面を貫いて白い憤血を流した魔族が怒りの雄叫びを響かせる。

 弾みで、鉄人形と己の拘束が緩む。調息一回分の空気が戻った。己はその隙を突いて体運びをし、それで拘束を抜ける。生存本能から切っ先を改めて対敵に向けた。


「ユーリーフ!」


 バルレーンが一度そう呼びかけると、返答は声ではなく糸を繰る事だ。鉄人形の足元の車輪が高速回転し、そのまま己達の陣地へ戻る。

 再度背後を見ると、そこには両手で震えながら銃を構えるアスフォデルスが。銃口から霊薬の煙を漂わせてる。


「“アスフォデルス、私の歩みが止まっても、お前の歩みは止まるな。お前が進んでいる限り、私は生き続ける。”……」


 匂いは淀んだ物から徐々に変わりつつあった。右手を離すと、彼女はじっとりと汗の滲んだ手を見つめその感触を確かめる。……生存本能の発露から芽生えた闘争心は、まるで氷点下に置かれた水が氷になる様に急速に覚悟を固めつつあった。


「……死にたくない、死んでも死にたくない……」


 一度、目から零れ落ちる涙を右手で拭う。しゃっくりを上げながら、悍ましい化け物から目を逸らさず目を合わせ。


「でも、そうだ、私は会うんです、私は……もう一度師匠に……それを、それを阻むなら」


 ほのかな、冴えた匂いがする。冷たい、その香りは決意と闘志。


「戦う、私はお前と……ッ! 戦って、戦って……生きて生きて、生き残ってやる!」


 魔法銃を突きつける。ピタリ、と今まで震えの走っていた銃身が止まる。彼女の意思を反映したかの様に。それを見てバルレーンは足早に近寄ると。

アスフォデルスは震えながら、死脳喰らいを見据えた。


「アスフォデルス! あいつの弱点を教えて!」


 彼女は息を整え、分析を始める。


「恐らく、これは東方の伝承にある死脳喰らいです! 脳を喰らい、知識や技能を吸収する不定形の魔族! 壁に埋まった脳は、全部犠牲者のもの……!」

「こいつに弱点はあるの!?」

「魔法は効きます! 普通の武器でも魔力が通れば! ただ、神官の奇跡でもなければ即死させるのは難しいです!」


 その瞬間――

 壁の脳髄が赤く輝く。死脳喰らいの身体が泡立ち、無数の口が現れた。

《力は矢、意思は弓》

 無数の矢の魔術が放たれる。何もかもを壊し尽す勢いで数十発もの赤い熱量の矢は、狭いトイレに並んだ瓶や壺を次々砕く。己は刃圏に入った物を打ち落とし防ぐが、圧倒的な物量差に徐々に押され始めていた。


「くそっ、これが厄介なところか……!」

「もっと厄介なのは、こいつに魔力切れなんてないです!」

「なんで!?」

「土地から直に吸い上げてるから! 一度現れたら、干からびるまで吸い尽くすんです!」


 そう叫び合う中、ぐらりと迷宮が揺れる。パラパラと天井からは砂埃が落ち始めた。……迷宮は魔力で構成されている、土地が干上がれば構造が脆くなるのは当然の事だ。


「……質が悪いな本当に。悪意の塊みたいな奴だ」


 そこでぽつり、とアスフォデルスが呻く様に。


「あれさえあれば……」

「あれって!?」

「師匠の……十字魔法銃なら、あの超火力による連射なら……仕留められるかと。アレは宇宙由来の隕鉄、一発の威力も私のより遥かに上です」

「……それ今手に入らない奴じゃん!」


 十字魔法銃。あのゴーレムが使っていた、破壊と殺戮の伝道師ファルトールの魔法銃。恐ろしい程の連射速度で矢の魔術を吐き出されれば、確かにこの魔族も倒す事は出来るだろう。

 正直に言えば、ユーリーフのゴーレムとこの魔族は相性が悪い。彼女のとっつきは、確かにダメージを与えられるが。


「あーもう、傷が塞がり始めてるのじゃ!」


 先程付けた傷は既に癒え始めていた。まるで粘土をこねる様にその肉がアンオブタニウムの杭が着けた傷を埋めてく。

 そこで理性と分析の涼しい香りが鼻を擽る。同時に赤の魔弾が三発、死脳喰らいに向けて放たれ……肝臓と頭へは触手で防がれ、最後の一発は胸の丁度鳩尾の部分に直撃。

 刹那、死脳喰らいが苦しんだ。様子としてはまるで息が出来なくなったかの様に。それを見て、アスフォデルスは――ぐっと拳を握りしめた。


「追い払うことなら、なんとかなるかもしれません……!」


 魔族が苦悶の呻き声を上げる中、アスフォデルスは続けて分析を話続ける。


「壁に生えてる人型ですが、アレは人間の体を模したあまり構造上人と同じ弱点を持ってます! 鳩尾に当たった一発が良い証拠……」


 彼女が指を指すと、そこには死脳喰らいが未だにえづいている姿。


「あの通り横隔膜が一瞬止まった結果息が出来なくなってます! 人の体を模した以上は人の弱点も引き継ぐ事になる、ゴーレムや人魚と同じ様に! これを利用すれば、一旦追い払う事は出きるかと……!」

「具体的にどうするの!?」


 そこでアスフォデルスは腰に吊り下げたアストロラーべが付いた銃のストックを出すと。


「一先ず傷を着けた後、スライム弾に切り替えて再生中に混ぜ込ませる事で奴の強度を下げます! その後に、ユーリーフさんのとっつきで心臓か頭か肝臓を狙えば……ある程度行動不能に!」


 彼女がそれを持ち手に取り付けた時である。


「あぁああああっ、あっあっあっ、行かせない、あっあっあっ、喰う、あぁあああぁぁっ、還る帰る孵る!」


 触手の猛攻が再開する。アスフォデルスが魔法銃を放つが、敵も学習していた。数本の触手を盾にし、先程の顔面への一撃を警戒している――これはまずい。


「剣士殿! 何をッ!」


 己はあえて前に出る。狙いは、右の上腕骨の隙間――肩と腕の付け根。


「あぁぁあああっ!」


 一突き。死脳喰らいの触手が、腕のような動きを停止する。人間ならば、神経を断たれた状態だ。効果は抜群だった。

 まだだ……! そう思って己は壁を蹴り、次の標的を左へ――

 だが、その時。

 先程杭が散らした白い血液の中に、百合の香りが混ざってる事に気づく。

 瞬間、手元が狂った。


「剣士殿! ど、どうされたのですか!?」


 ユーリーフの声が遠い。喉が急に乾き、言葉が詰まる。

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!

 でも、理解してしまった。この魔族は――まさしく禁忌なのだと。


「ファン、さっきの話聞いてたでしょ! アスフォデルスが弱点を作る!」


 バルレーンの声が耳に刺さる。嘘だと言って……バルレーン!


「アスフォデルスが狙い易い様に、隙をこじ開けて!」


 嫌だ……無理だよ、そんなの……!


「君なら出来るでしょ!?」


 バルレーンが奮起させようとする。だが、己の視線は無意識にアスフォデルスを求めてしまう。

 どうやら彼女は気づいていない……でも、こんな残酷なこと、させられない!

 瞬間、赤く爛れた鬼灯の魔弾に紛れ空を薙ぐのは一振りの触手。……ユーリーフ諸共狙ったそれを己は剣の峰で受け、そのまま体ごと吹き飛ばされ、石の壁に叩きつけられた。


「ファン!」


 一瞬息が止まる。その間、追撃する様に矢の魔術の呪文が二十。

 体中が痺れ、今は指一本動きそうにない。ふとみるとバルレーンは自分の両手を見ていた。直後その筋肉の隙間を縫って出るのは、髪よりも細い鉄の針。

 ――まずい。それは、それを使うとバルレーン! バルレーンは!

 バルレーンが両手に針束を握ると、その赤い瞳が揺らぐ。

 右の瞳が時を見る。赤方偏移する世界の中、鉄の針が同じく二十……彼女の手からゆっくりと放たれる。


 そこで時が、左の視力と共に戻った。


 ほんの一刹那。たった一瞬間である。あれだけ吹き荒れていた矢の魔術が、ぴたりと消滅していた。


「ここが、命の賭け時ってね」

「ああ唖々あぁぁAAAAAAA!」


 途端苦悶を刻まれる、老若男女が入り乱れる複雑な声音の悲鳴が響いた。見ると壁の脳達には無数の針が刺さり、白煙を燻らせていた。更に驚くべき事に、針は未だ回転しながら脳を穿つ。……死脳喰らいには触れる事も、ましてや引き抜く事も出来ないだろう。

 ――代償は重い。それは若葉が枯葉になる香りが示している。


「こふっ!」


 バルレーンの身体から血が溢れる。両腕は爆ぜ、顔には深い皺が刻まれ、赤い髪に白いものが混じる。


「バルレーンさん!」


 アスフォデルスが駆け寄る。


「使いたくなかったんだけどなぁ、これ……」


 彼女は氷のように冷え、血が止まらない。

 時を止める代償は必要以上に老いていく事……これ以上、戦わせてはいけない筈だった。


「ごめん、ボクちゃん一回休み……」


 そう呟き、バルレーンは意識を失った。

 意識を手放したバルレーンを前に一度渋面を浮かべた後、アスフォデルスは即座に切り替えて両手の魔法銃を放ち続ける。

 だけど、触手の蔦の壁は分厚い。狙いをつけた心臓に届く前に魔弾は防がれる。更には――


「《空にいまし鳥の御霊に希う。風よ、壁となれ》」


 瞬間、地下迷宮に風が息吹く。風は彼女等の髪も服も強く靡かせると、そのまま死脳喰らいの元に集まり分厚い空気の壁となる。

 丁度その時放った魔法銃の弾丸は、風の壁に絡め取れると霊薬の燃焼は鎮火し、ただの鉄玉となって地面を転がった。

 聞き覚えがある。この呪文はウインド・プロテクション、風を壁にする魔術。そうして作った暴風圏の中、


《力は矢、意思は弓》

《理は雷を模る。光芒を招いて募り、満ち足りる其は貪婪たる破壊》

《傷を癒すは我が手なれば》


 ……改めて唱えられる呪文は矢の魔術が八、高威力の雷の物が一、治癒が一。

 恐らく奴は風の障壁の中に籠り、相手に攻めを許さない為絶えず攻撃を仕掛けつつ傷を癒し、その隙に大技の準備をする。……流石にユーリーフのゴーレムでも、これは防げないだろう。

 何とか、よろめく体を起こし立ち上がる。治れ、治れ治れ! 今行かないと大変な事になる! ……萎える心を奮い立たせ、掠れる目を擦り、精一杯の駆け足で滑り込む様に陣に戻る。


「ファングインさん!」


 後ろから聞こえる声が迷いを掻き立てる。

 けれど戦うしかない。ここまで来た以上は……無理をさせたバルレーンに一度目を向けた後、真実から目を背けて己は何とか魔族に剣を向けた。手の中で震える刃を正して。


「雷は、まずいです……」


 背後にぽつりと、かき消される程の小声。焦りが滲んだ呟きがアスフォデルスが漏れた。

 ――体中の魔族の目が一度大きく見開き、そこに分析と推測の目が浮かんだ様な気がした。闇の中、何かが蠢く影も。


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