第3話:「アスフォデルスの取り扱い説明書3・魔術師は借りを返す」
ファングインに救われたアスフォデルスは、彼らの馬車に乗せられ、簡単な手当てを受けた。
「という事があったんです……」
全てを失った彼女は、昨日の出来事を語り終える。
対する赤髪の女盗賊・バルレーンの反応は、粉薬を飲みながらの一言だった。
「いや、それ信じる方がどうかしてるでしょ」
「信じてください! 私は本人なんです!」
アスフォデルスは必死に訴えるが、バルレーンは困ったように肩を竦める。
「可哀想に、飛竜に喰われかけて心が……としか言えないよ、ボクちゃん達」
思い立ったように、アスフォデルスは服をずらし、胸元の賢者の石をバルレーンに見せる。
「み、見てください!」
「わぁ、洗濯板。こりゃ十年後も絶望的ですな」
「違います! これ、賢者の石です!」
「賢者の石って言う割に、……ビックリするくらい何の魔力も感じないんだけど?」
「それは、ちょっと色々あって壊れたんです!」
「じゃあ魔法使ってみて?」
「……使えません」
アスフォデルスは歯噛みするが、バルレーンの目がわずかに鋭くなったのを見逃さなかった。
「……昨日、何もかもを失ったんです……」
彼女がそう呟くと、金髪の女魔術師・ユーリーフが白いローブが揺れる。そこで彼女は信じられない物を見た。
ベルトに吊り下げられたそれは、金色のランタン。その中に入っている朱色の石――賢者の石。
「そ、それはどこで!? 賢者の石ですよね、それ!?」
アスフォデルスの声が震える。
「ひぁ!? ふぁ!? え、あ、これですか。その、迷宮で……」
しどろもどろになるユーリーフに代わり、バルレーンが答えた。
「迷宮都市イシュバーンの外れ、東の山にある『機帥の迷宮』で見つけた」
アスフォデルスの心が跳ね上がる。
「『機帥の迷宮』は大昔、魔術師ファルトールが工房を構えていた場所らしい。でも、最奥の扉は今も開けられてない。何せあれは、ファルトールお手製の錠前で封じられてる」
「ファルトールの……工房……?」
「あぁ。しかも扉は宇宙から来る隕石でしか取れない隕鉄で出来ている……隕鉄は大量の魔力を含んで魔法を弾くから、正攻法のピッキングでやるしかない」
そこで思い出したのは、かつての師匠の言葉。
『昔は賢者の石の研究の傍ら、副業で冒険者をしててな。結構稼いでいたんだが、生憎膝に矢を受けてしまってな』
『膝に矢って、僕の事を言ってるんですか師匠?』
記憶は徐々に鮮明になっていく。そうだ、確か師匠は『遺跡荒らしのファルトール』と呼ばれた冒険者で、かつては自作の武器である魔法銃を使いイシュバーンを拠点に活躍していた。そこで工房を構えられる程稼いでいたらしい。
賢者の石、そして『哲学者の卵』を手に入れるための唯一の手がかりがそこに浮かび上がる。
行動は早かった。ただ無我夢中で、アスフォデルスは身を乗り出す。
「お願いします! 私を、その迷宮に連れて行ってください!」
しかし、バルレーンはあっけらかんと。
「え、普通に嫌だけど?」
それからは流れる様な速さだった。迷宮への同行を拒否されたアスフォデルスは、冒険者ギルドに子供の捜索願を出された後数ある孤児院に預けた。
「じゃ、そういう事でお元気でねー」
「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてですか!?」
必死に食い下がる彼女に、バルレーンは溜息をつく。
「まず、君を連れて行ったところで何にもなんない。ウチは金にならない仕事はしない主義なの」
「ま、魔術と工学の知識があります! 必ずお役に立てます!」
「いや、ウチはもうユーリーフがいるし……」
「私はファルトールの直系です! 師匠から叩き込まれたんですよ! 凡百の魔術師とは訳が違う!」
「おや? 出会ったばっかりなのに妾の事を侮辱しておる?」
「そ、そういうつもりじゃ……! ただ、事実を言っただけで……」
「妾、この方嫌い!」
その緑色の目に涙が浮かび上がった直後、バルレーンが呆れたように言葉を挟む。
「はっきりと言います、ボク達にはお役立たずを養う余裕などありません。君ってば迷宮の冒険、チョロいと思ってないかい?」
「だって行って帰ってくるだけですよね!? 送り届けてさえくれれば――」
「お嬢様は、おふざけになられてらっしゃる? 言っとくけど、道中は罠と魔物が盛り沢山、お行儀の良くない冒険者だっている」
迷宮。土地が魔力を吸い、異界と化した地下世界。核となる物を取得しない限り、罠と魔物は無限に湧いてくる現象。また核となった物の特徴を反映する。
「ファルトールの特徴を反映しちゃったもんだから、機帥の迷宮は嫌なビックリドッキリ機械の宝庫だ! 極めつけにはラスボスのゴーレムは――ユーリーフ、残念ながら君の出番だ」
まるでお気に入りの遊戯道具を語る時の異世界帰りの中年男性の様な粘っこい笑みを浮かべ、金髪の女魔術師はチェス盤の上に一つ像を作り上げる。それは自分の背丈程もある、十字架を両手に持った武骨なゴーレムであった。
「十字魔法銃のゴーレムです。ファルトール殿の愛銃を操り、一秒で百発の矢の魔術を放ってきます……というのが前提条件でして」
次にユーリーフが右手を操ると、砂がもう一体……剣と盾を持った騎士のゴーレムの姿を作り出す。そしてそれは、十字魔法銃のゴーレムとの戦闘となった。魔法銃を乱射し騎士の鉄人形を粉微塵に吹き飛ばし、相手は剣で斬りかかるも当たった瞬間刃が砕ける。結局敵は十字魔法銃の前に砕け散った。
次いで、敵を操っていた魔術師の像が塑像される。苦し紛れに放たれた矢の魔術も効かず、隕鉄の神秘に攪拌した。
「材料は扉と同じ隕鉄。同じく魔法は効かず、更に普通の鉄では歯が立たん程に頑健。極めつけはこいつを移動させる為の機構が迷宮中に張り巡らされておりまして……昇降機と秘密通路を使って突如そこらの曲がり角からヌッと現れるのですよ。ヌッと!」
「オーケー、ユーリーフ。もういいよ」
「も、もうちょっと……もうちょっとだけ。どうやってこれを凌いで中の賢者の石を手にいれたとか……せめて妾のアンオブタニウムのゴーレムが、奴の左手を奪った活躍を……」
右手で制してから、バルレーンはアスフォデルスに向き直る。
「ご覧の通り、こいつは強敵だ。こんなのを相手にしなくちゃいけない……正直誰も君を守ってる余裕なんてない。それに君の装備はどうするの? 食料や水、武器と鎧、鍵開け道具は?」
「それは……その」
「まさか、こっちが出せとは言わないよね……そういうのは迷宮に浪漫とか感動とか求めてる慈善系青春自分探し冒険者に頼みなさい。ウチは残念ながら違う」
「じゃ、じゃあ何を求めてるんですか」
「お金一択! じゃなかったら冒険者なんてやってないよ!」
「妾は……お金もそうじゃが、魔術師縁の代物とかも普通に欲しいぞ……妾魔術師として大成したいし。何よりファルトール殿の作品は、成長期の欲しがる知識の穴にすっぽりはまる……」
そこで一息置いて。
「順風満帆な魔術師が冒険者になるんじゃぞ? 両足の動かない魔術師が……浪漫以上の理由があるか?」
「お黙り、金食い虫のおバカさん……金銭感覚を身につけてから会話に入りなさい」
「無慈悲ッ!?」
「確かに鍵開け道具は新調して良いって言ったけど、でもだからと言ってドワーフの店で特注しろなんて言ってない! お陰で三食食うのも困った挙句ボク等田舎の農場で、馬と牛のご機嫌を取る仕事をしなきゃいけなくなったんだからね!」
バルレーンはそこで一息置いて。
「まとめるとだ。戦えない、装備もない、金もない……ボクちゃん、他人を当てにする事前提の人苦手なのよね。それに……」
そう言うと、バルレーンは背後を振り返る。彼女達の奥では銀髪の大女のファン――ファングインがやはり兎のぬいぐるみの奥からアスフォデルスをじっと見ていた。街道で出会ってから、今に至るまでずっとこの調子である。
「君、ウチの無敵の姫様と相性悪そうだし」
「そ、それは私関係ないですよ!」
涙が零れ落ちそうになる。それを右手の甲で拭うと、彼女は縋りつく様に――
「私は師匠を……魔術師ファルトール――私の全てを教えてくれた人。その人の帰りを待つのが、私の生きる全てなんです。まずは魔術を使える様にしてお金を稼がないと……だからどうしても『機帥の迷宮』に行かなくちゃいけないんです! お願いします、連れてって下さい!」
それに対し、バルレーンは一度口元に手を当て考える素振りを見せる。
「……君、もう死神に肩を掴まれてるぜ」
「え?」
「言葉通りの意味さ。君にはもう時間がない、臓器は全部損傷。骨は軋みを上げ、経絡を流れる魔力はか細く、生命は陰りを見せている……その特殊な体質と血で今はなんとかなってるが、無理なんてしよう物なら死ぬぜ君」
「そ、そんな……嘘です」
「――ほんじゃ。ほら、これが証拠だ」
バルレーンは髪よりも細い針をアスフォデルスの頭に軽く刺した。
瞬間、身体を燃やすような痛みが走る。内臓が凍り付くような感覚。心臓が早鐘のように打ち、息が止まる。
――これが、死?
そこでアスフォデルスはごくりと息を呑む。考えが、死の恐怖の所為でまとまらない。
死ぬ、私が――いや、まずは身体の何が悪いか分析しろ――でも私は死ぬ、死ぬんだ――心臓に負荷がかかる事から察するに――まだ師匠に会えていない。師匠に会いたい。死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ――肉体を分析しろ――死にたくない死にたくない死にたくない、師匠師匠師匠助けて師匠。
冷静に分析するんだ! 助けて師匠!
「ボクちゃん、前職はちょっと色々あってね。針一本あれば、一通りの事が解るのよね」
死の恐怖に余裕が無くなってる中、バルレーンは淡々と告げる。
「今のが、君の身体の特殊効果抜きの死の感触。一月後には、また味わうよ。でも、まぁこれだけじゃ後味が悪いからね……」
彼女は最後に、安らかに死ねるよう苦痛を和らげる針を打つ。直後走るのは、妙な身体の安らぎの感覚であった。
「君の身体を死の恐怖と感覚を遠ざけた。呼吸と脈、鼓動を調整して……来る死の際は、そのまま眠りに落ちる様にしたよ。これが精一杯だ」
刹那、よろよろとファングインがアスフォデルスに近寄る。何か言えない事を勇気を決して言う様な躊躇いを見せたかと思うと、銀髪の大女はその場で跪いたかと思うと……彼女を抱き締めた。
「え?」
またしてもアスフォデルスは困惑の声を上げる。この女は一体何故唐突に自分を抱き締めたのか、まったく理解出来なかった。
ただ、その手はあまりにも不器用で、どこか怯えていた。巨体の割に震えるその身体は、何か分かち難い物と別れる様である。
「そういう訳だ。安らかに死にたければ、間違っても迷宮に潜らない事だ。それじゃあね」
言いたい事は全て言ったと言わんばかりに、アスフォデルスの返答を待たず彼女達はその場を去る。最後のその一瞬、抱擁を離したファングインの瞳には涙が浮かんでいたが、終ぞ彼女の行動の理由をアスフォデルスは理解し得なかった。そして、それに心惹かれる事も……。
「私、死ぬの……全部、失って……次は命なの」
彼女の中にあったのは、自分が死にゆくさだめにあるという直視しがたい事実だった。
昨日全て失った。容姿も、財産も、魔術も、何もかも。挙句の果てには、一ヵ月後には命すらも失う。
そこで、ふと孤児院の扉を見る。ここに入れば凍える事も、飢える事も無いだろう。死ぬには……良い場所なのかもしれない。あんなゴーレムがいるのだ、魔術の使えない今の自分になにが出来るというのだ。……甘い絶望の誘惑から、そっと足を半歩扉へ……。
「駄目!」
振り払いの言葉は即座に出た。頭をガリガリとかきむしるのは、現実の痛みで絶望から目を背ける為。
「駄目、駄目駄目。私は師匠を待たなくちゃいけないの、だって師匠はまだ生きてるんだから!」
心の思いを言葉にするのは、崩れかけた部品を必死に繋ぎ止める為。それでも、まだ誘惑から扉を目で追ってしまう。そんな自らを説き伏せる様に彼女は言葉を続ける。
「冗談じゃない、死ぬなんて……冗談じゃない! 今更墓に入るのが終わりだなんて、なら今までの人生は一体何だったの!?」
柔らかい腹を拳で叩く。気付け薬代わりの自傷で、絶望を希望に矯正していく。
何度も、己を奮い立たせる様に。
「師匠は、まだ生きてる。師匠は生きてるんだ、生きてなくちゃいけない! だから、私は生きなくちゃいけないんだ! だって、だって私は師匠にもう一度会うんだもん……」
それは呪いだった。彼女は立ち上がり、より栄えた街へと向かう。そこにある救いを背にし、妄念の炎に身を焦がしながら。
――――。
――。
「冒険者登録でしたら銀貨一枚になりますが……お持ちでしょうか?」
「……ありません」
イシュバーン中央区、白亜の冒険者ギルド。十万を超える冒険者が登録する組合のその一端、受付の職員は困惑した笑みを浮かべた。
銀貨一枚。子供には大金だが、大人なら日雇いで稼げる額。だが、今のアスフォデルスには、それすらない。
登録だけではない。市場で見た革鎧は銀貨十枚、剣と盾が三枚、さらに背負い袋、ランタン、服、ブーツ――金は幾らあっても足りなかった。
アスフォデルスは、ギルドの巨大な掲示板を見上げた。自分にはもう、こういう世界しか残っていないのだと、否こういう世界にすら居場所がないのだと突きつけられる様な気分だった。
魔術を使える人は山程いる。けれど、それだけで食べていけるのは、ほんの一部だ。
優秀な者は研究機関に入ったり、軍人や役人に就職する。だがそこで落とされた者、規律に馴染めなかった者、金も伝手もない者、あるいはただ単に自由を選んだ者、更には罪を犯した囚人──そういった奴等が冒険者になる。
冒険者ギルドに集まる魔術師達は、そういう“こぼれ落ちた者達”の集まりだ。……そして今彼女は“こぼれ落ちた者達”以下である。
「どけチビスケ!」
突如、身体が吹き飛ばされた。床を転がり、背中に走る痛みに耐えながら仰ぎ見る。そこには鉄の鎧と杖を持つ男がいた。鉄兜の男は尊大な口調で。
「物乞いなら他所に行け、目障りである!」
怒りが込み上げる。だが、ぶつける術がない。魔術さえ使えれば、こんな男どうにでもできるのに――
「畜生……」
苦々しさを噛み殺し、よろめきながらその場を後にした。今は骨が折れていないことだけが、唯一の救いだった。
街の片隅に腰を下ろし、人々の往来を眺める。落ち着くと、頭が冷静になっていった。
あんな男にも、今の自分では勝てない。
剣と盾を持てばどうか? 答えは――否。ましてや、十字魔法銃のゴーレム相手など論外だった。
胸が苦しくなる。
「生きる前に死ぬしかないじゃない……」
自分が扱えるものは杖と魔法銃だけ。だが、今の状態では魔法銃など手に入るはずがない。材料があれば組み立てられるが、それには剣や盾以上の金がかかる。
金がいる。考えれば考えるほど、それしか浮かばない。
だが、手元にあるのはボロ切れ同然のドレスと天球儀のイヤリングだけ。どちらも手放せない。特にイヤリングは――絶対に嫌だ。
「……どうしよう、師匠……」
ふと、もたれかかった壁の右上を見る。
手紙配達の仕事募集の張り紙。報酬は銅貨三枚。……子供の小遣いにもならない。
思わず顔を覆う。心が折れそうだった。
その時――駒を動かす音が、耳に入る。
「あー! また負けちまったよ!」
「負ける奴はいつだって賭けに出る……ほら、この前のと合わせてさっさとよこしな」
道路を挟んだ先。酒場の前で二人の魔術師がチェスを指していた。勝者は膨らんだ革袋と竜の牙を手にしている。
「お金と魔術の素材……?」
脳裏に浮かぶのは、師匠の言葉。
『筋がいいな。魔術師向きの打ち方だ。博打に走らず、計算と予測に生きている』
そうだ。自分にはチェスがある。
生きるために、金がいる。ここで諦めるわけにはいかない。
「……金策の当てが見つかった」
賭けチェスを視界に入れ、まず行ったのは人選だった。物乞いの、それも人当たりが良さそうでかつ歴が長そうなのを探した。
「お、おで知っでるよ……東大通り二丁目の梟の止まり木亭と西の影走り横丁の薬樽亭に、魔術師さん達がいーっぱい集まっでるよ」
三丁目の裏通りにいたのは、オークとの混血児と思わしき男。帽子には銅貨が一枚だけ。……右腕を無くしており、それが物乞いに落ちた理由だと思われる。
「ありがとうございます……お礼をしたいのですが、生憎今手持ちが……」
「いやぁ、いいよ。おで、自分より年下からは貰わねぇ主義だ……むしろ、持ってきな」
彼は帽子に入った銅貨を一枚渡す。男の瞳は愚鈍だが、優しかった。
「そんな、いただけません」
「せめて、最期に暖かい物でも飲むといいよ。おで、鼻が利くんだ……ちょっと前まで冒険者だったんだ」
思わず息を飲んだ。
それは、今日一番優しさの籠った言葉だった。恐らくこの一枚は彼の大切な今日の稼ぎだろうに。……それを見ず知らずの自分の様な人間に、とアスフォデルスは思わず涙ぐむと。
「…………貴方へのご恩は、必ずお返しします」
そう言って別れた直後、彼女は東大通り二丁目の梟の止まり木亭にやって来た。外からでも騒々しい喧騒が耳に入る、昼でもそれなり賑わってるらしい。
『博打に出るのかい?』
幻影のアルンプトラが問いかける。
「冗談。魔術師は賭けに出ない。いつだって計算と予測に生きるんだ」
彼女は立ち上がる。生きる気力が再び体に流れていた。
『死ぬかもしれないよ』
思い返すのは、飛竜の鋭い牙、十字魔法銃のゴーレムの破壊力、鎧の魔術師の攻撃。
全てを振り払うように、右腕を噛み、荒れかけた呼吸を整える。
――全ては、分かたれた師に会うために。
「……………………だから行くの」
頭はしっかりしている。何をすればいいのか、その為には何を作ればいいのか、仕組み含めて設計図はもう出来上がっていた。
自分は、迷宮に潜らなくてはならない。
歩きながら唯一残ったボロのドレスの切れ端から、数本の糸状の物を取り出す。それは繊維状に鍛造されたオリハルコン、ミスリル、アダマンタイトだ。
魔術師は博打はしない。計算と予測に生きるのだ。だが、勝ちに行く勝負でも賭け金はいる。
――――。
――。
イシュバーンの酒場。ここには冒険者の魔術師や錬金術師といった頭を使う連中が集まる。……その一つ、梟の止まり木亭では獣人の楽団が陽気な音楽を奏で、中央のリングではゴーレム遣いが岩のゴーレムを殴り合わせていた。テーブルの端々では、宿屋の人間が賭けチェスやポーカーに興じている。
「このクソゴーレム遣い! ホム食いなんてイカサマしやがって、何が正々堂々だ!」
「俺、この前工房を丸ごと新調したんだけどさ、実験器具が変わると生活がまるっと変わるな」
そんな雑多な会話が飛び交う中――
扉が開くと、店内の空気が一変した。
ボロを纏った茶髪の少女が立っていた。青い三白眼に宿るのは、怯えと竦みを押し殺した光。
「お嬢ちゃん、何をしに来たんだい?」
陶器の酒杯を磨きながら、店主が不愛想に尋ねる。少女は、一度深く息を吸い、短く答えた。
「賭けチェスを」
瞬間、店内に酒を吹き出す音や堪えた嘲笑が響く。
「……賭け金はあるのかい?」
少女は握っていた右手を開いた。そこには三本の金属の糸が、一巻きずつ載っている。
「これは純度九十九%のオリハルコン、ミスリル、アダマンタイトです。換金すれば十人家族を一ヵ月養える額になりますし、魔術や錬金術の素材にも使えます。これを賭けたい」
「……確認してもいいか」
まだ小馬鹿にする嘲笑が漏れる中、店主は酒杯を置き、少女の小さな手の平から糸を手に取る。
こういう場所では、店主が賭け金を見分するのが定番だ。しばらく調べた後、店主は低く言った。
「好きな所に座りな。ただし、最低でも飲み物か食い物の一つは注文してくれ」
そこで彼女は銅貨を一枚差し出す。
「お酒は飲めませんので、適当な温かいものを一つ。……あと、紙とペンも。お金は後で」
店主の許しが出た瞬間、店内の嘲笑はぴたりと止まった。
少女はチェス盤を置いてある魔術師の卓に座る。テーブルの上には小さな小箱。一度賭け金を入れれば、勝者しか開けられない仕組みになっている。
彼女は、希少金属の糸を三巻きすべて投入した。
――途端に、店内の空気が変わる。緩い嘲笑は消え、鋭い戦慄へと変わった。
「全部。私は、これから得る物を全部賭けます。これが欲しい方はどうぞ」
黒の駒を取った少女――アスフォデルスは知っている。
魔術師という人種は、総じて臆病で、勝てる勝負しかしない。彼らは知力を鼻に掛け、いけ好かない連中だ。
そして今、目の前の魔術師もまた、彼女を侮った。
金貨三枚、賭け金の最低額を賭けた彼は、Fのポーンを一マス動かす悪手を取る……かに見えたが。
アスフォデルスが仕掛けようとした最短の詰みに至る愚者のメイトに対し、相手は動揺も見せずに次の駒を跳ねた。
それで盤面が僅かに狂う。
……愚者の手を利用し、罠にかけたらしい。
「舐めてると思ったかな? ここにいる奴等は全員、そこまで愚かじゃない……博打なんてしないでさっさと帰りな」
剣で喩えるなら、木の棒を持った子供を舐めてかかった……と思わせてその実返す刃を仕掛けたといった所か。
三手目で相手の白は意図的にキングを解放。次いでビショップで攻めの形を取ると、アスフォデルスの内心に初めて焦りが走る。
だが彼女は深呼吸を一つ、それで改めて盤面を睨んだ。
「七手」
「なに?」
「貴方はあと七手。この勝負は計十手で終わらせます」
思わず彼はアスフォデルスはせせら笑った。周囲の冒険者もまた同じ。
しかし、相手は棒を持った子供ではない。彼より老獪な剣士であった。
アスフォデルスはそれに対し無理に守らず、冷静にキングを退避。そして角道と中央支配を確保。……対敵が罠にかけたと思いほくそ笑む中、五手目の時点で盤面は彼女の物になりつつある。
変幻の六、幻惑の七、そしていつの間にか手玉に取られた白は焦りから攻めに出るがそれを彼女は余裕で対処。
八手目――全ての攻め駒が消え、がら空きになった陣。白は詰み筋をずらそうとするがもう遅い。相手が冷や汗を一つ。せせら笑いはもう消えた。
「なっ」
驚愕の声と共に彼女の黒のナイトが置かれる……ナイトが守りを弾き、そしてルークという刃が躍り出て。
「チェックメイト」
――宣告通り七手後、計十手で静かにチェックメイトが決まる。
魔術師は頭に自信がある連中が多い。射幸心を煽り、プライドをくすぐれば、馬鹿だからすぐに冷静さを失う――金を稼ぐには持ってこいの場所だ。
「博打なんてしませんよ。魔術師とは常に計算と予測に生きる種族なんですから……」
アスフォデルスは拳を握り、囁いた。
「お待ちどうさま、温かい苺のミルクだよ」
ウェイトレスが薄桃色のミルクを差し出す。アスフォデルスは、それを勝利の美酒代わりに一口啜る。が、即座に陶器製の白いコップを置いた。
「どうかしたかい?」
「お、思ったより熱くて……飲めません」
アスフォデルスは、猫舌だった。涙目になりながら、左手に持った羽ペンを羊皮紙に走らせる。
『チェスの後やる事』
「――それじゃ、次の方どうぞ」
さらに、『工房の確保』と付け加えた。……視線の先には、工房を新調したという魔術師の姿がしっかりと映っている。
同時に、金貨を二枚箱から取り出すとその場に残っていたウェイトレスに対し差し出し。
「これを三丁目の裏通りにいる、ハーフオークの殿方に一枚渡していただけないでしょうか? もうそろそろ場所を変えられるかもしれませんが、今ここを離れる訳にも行きませんので」
もう一枚はチップである。これだけの金額を渡せば嫌とは言うまいだろう。
……魔術師は借りを、必ず返す。
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