破戒
鍵崎佐吉
破戒
あのお方にとって美しさとは美徳であり、信念であり、自らの存在そのものでもあった。美しくあることはあの方の使命であり、それを完璧に全うしたからこそ、あの方はこの国で一番偉大な女性になったのだ。そして誰よりも美しいあの方にお仕えすることが、私の至上の喜びでもあった。
ただの下働きでしかなかった私をお側においてくれた理由を尋ねると、あの方はしばらく私の顔を見つめてからこう言った。
「あなたの髪が気に入ったの。初夏の朝焼けの色みたいで、見ていて飽きないわ。でも、それ以外はてんで駄目ね」
その時はどう応じるべきかわからなかったが、今ならそれがあの方に許された最大級の賛辞であったとわかる。あの方は決して狭量であったのではなく、自身より美しいものを認めることなど許されていなかったのだ。
あの方がおかしくなり始めたのはあの怪しげな鏡を手に入れてからだった。その鏡には魔法がかかっているらしく、どんな問いかけに対しても真実を示してくれるという。あの方は最初に、鏡にこう問うた。
「鏡よ鏡、この世で一番美しい者は誰か」
その答えはあの方にしか聞こえないようだった。表情を変えぬあの方を見て、私は思わず息を飲む。確かにあの方はこの国で一番美しい。しかしどこか違う国にはもっと美しい人もいるのではないか。
「あの、どうかなさいましたか?」
恐る恐るそう尋ねると、あの方は退屈そうにこう言った。
「この世で最も美しいのは私だと、そう言われたわ」
「それは、おめでとうございます」
「めでたくはないわ。当たり前のことだもの」
けれどそれ以来、あの方は一日に一度は必ず鏡に向かってその問いかけを繰り返した。あの方にとって、自分よりも美しいものは何より恐ろしいものだった。だからわざと暗い洞窟の中を覗き込む幼子のように、何度もそこに怪物が潜んでいないことを確かめなければならなかったのだろう。
けれどその怪物はある日突然やってきた。
鏡に向かっていつもと同じように問いかけたあの方は、半瞬の後に気絶するように床に崩れ落ちた。私は急いで駆け寄り、あの方を抱え起こしてベッドへ横たえる。すぐに医師を呼ぼうと部屋から出ようとしたその時、私の服の裾をあの方が強く引っ張った。
「お願い、すぐに人を呼んで。医者じゃなくて、もっと下劣な、金のためなら何でもするような欲深い人間を」
「ですが……」
「いいから、早く!」
私はついにその言葉に逆らうことができなかった。そして庭師のいとこが猟師をやっていて金に困っていると聞いたので、その男をこっそりあの方の元へと連れて行った。
その後、あの方が何を話し、あの猟師が何をしたのかは私は知らない。きっと知らない方がいいと思ったのだ。けれどあの方の継子であった白雪姫様が、どこかへ姿を消してしまったのは確かだった。
あの方は一度は安心した様子を見せたが、すぐにまた殺気立った暗いお顔に戻ってしまった。何が起こったのか私は悟らざるを得なかったが、それでもただ沈黙を保ち続けることにした。しかし私は思うのだ。確かに白雪姫は美しいが、あの方には遠く及ばない。あんな鏡の戯言より、貴女を慕う者の言葉を信じてほしかった、と。
今となってはもう、どれだけ願っても私の言葉は届かない。
白雪姫が隣国の王子と結ばれたその翌日、あの方は自ら毒林檎をかじって息絶えた。その亡骸は生前と少しも変わらず、死してなおあの方は誰より美しかった。
遺品はそのほとんどが持ち去られてしまったが、あの鏡だけは皆不気味がって手を出そうとしない。一人残された私は鏡にかけられた布を取り払う。あの方が褒めて下さったくすんだ金髪がそこに映っている。私は鏡に向かって問いかけた。
「鏡よ鏡、この世で一番罪深い者は誰か」
深い井戸の底から響いてくるような声が、私に偽りのない真実を示す。
『それは白雪姫でございます』
それは私にとって、抗いようのない真実だった。だから私はポケットに忍ばせていた鋏を取り出し、その先端を思い切り鏡に叩きつける。
「お前なんかが、勝手に決めつけるな!」
鋭い悲鳴のような音と共に鏡は粉々に砕け散る。確かに私は白雪姫が憎い。だけどお前の言いなりになんてなってやらない。自分は誰よりも正しいから、何を言っても許されるなんて大間違いだ。私にとっての真実は、あの日あの方がくれた言葉だけで十分だった。
窓から差し込んだ夕陽が床に散らばった鏡の破片に反射して煌めいている。けれど私は、少しもそれを美しいとは思えなかった。
破戒 鍵崎佐吉 @gizagiza
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