サイダーの味
霜月遠一
第1話
僕は、炭酸飲料が嫌いだ。何故嫌いなのかと問われたのなら、炭酸の刺すような痛みが不愉快だからとしか言いようがない。
特にサイダーなんてやつは最低だ。炭酸を入れるなどと余計なことをしてくれるなとすら思ってしまう。
甘いものは嫌いじゃない。むしろ好きだ。コーヒーを飲む時だって、コーヒーという概念に冒涜的なくらいに砂糖とミルクをたっぷりと入れるし、男子高校生がたったひとりで、などという精神的ハードルの高ささえ越えられたのなら、一度ケーキバイキングなんてものを体験したいと思うことだってある。まあ、端的に言うのであれば僕は世間一般でいうところの甘党ってやつなんだろう。
だからこそ、僕は炭酸飲料というものの意義が理解出来ないのだ。炭酸の刺激ってのは要するに痛みじゃないか。そしてよく聞く話ではあるが、辛さというのは正確には味蕾の感じ取れる味の一種ではなく単なる刺激、すなわち痛みに過ぎないのだと。
つまるところサイダーとは甘さという快楽を楽しむものでありながら、同時に辛さという痛みを楽しむものでもあるということだ。
僕に言わせてみれば、痛みを楽しめる人種なんてのはおしなべてマゾヒストめいた連中だ。なのに炭酸飲料を好む人たちは鞭で叩かれることを悦びながら、同時に飴を求めてもいる。矛盾甚だしいとは思わないだろうか。当人にとっては矛盾でなくとも両方欲しいなんてのは強欲が過ぎる。潔さがない。あまりに中途半端だ。少なくとも僕はそう考えている。
とまあ、そんな訳で僕はそういう曖昧で中途半端な物事が好きじゃない。世の中は黒と白ではっきり二分されるべきだと思っているし、料理本によく書かれている調味料は適量なんて訳の分からない文言はくそったれだ。
そして今最も僕が思う唾棄されるべき曖昧なもの。それは季節の変わり目の気温の乱高下に他ならない。
もう10月だぞ?暦の上では立派な秋だ。そして事実昨日までは涼しくて快適な気温と湿度だった。衣替えも済み、制服も春夏の白から秋冬の黒へと変わったばかりだ。
だというのに、一体全体この暑さはなんだというのだろうか。まるで真夏日じゃあないか。ようやく鳴りを潜めた筈の夏の残滓が最後の力を振り絞って僕らを苦しませようとでもしているのだろうか。だとしたら夏という季節はきっと自らの死の間際でさえも他者の苦しむ様を見ては腹を抱えて大笑いするような人格破綻者に違いない。お前の天下はもう終わったんだ。いい加減蝉時雨に起こされるのもうんざりだ。大人しく秋の新涼に四季の玉座を禅譲するべきではなかろうか。昨日まではあんなに過ごしやすく落ち着いた空気だったんだ。なら恐らく秋は民を第一に考える賢王に違いない。抵抗するのならいっそ簒奪してくれたって構わない。
……なんて、憎たらしい程に濁りのない青空を、教室の窓越しに睨みつけた所で、差し込む西日が瞳を刺して余計に憂鬱な気持ちになるだけだった。
まあ、それはそうだ。わざわざそこに何故と理由を求めるまでもない。たかが人ひとりの嫌厭で天気を思い通りに操れるのなら、空模様は瞬きする間に次々移り変わって今頃世界は滅茶苦茶になってしまうだろう。僕がこの季節外れの茹だる暑さを嫌うように、何処か物悲しさ漂う秋の薄ら寒さを、あるいは少し前までの紅葉を一様に枯れ色へと染めてしまう冬の酷寒を、そして春の草花を芽吹かせる麗らかな陽気ですらも嫌う人だって、当然それぞれ理由は違えど大勢いるに違いない。けれども誰かが厭う雨は、場合によっては農業関係者には恵の雨であるかもしれないのだし、冬の寒さだってその時期に獲れる魚は脂肪を蓄えていて美味しいものが多い。漁業関係者にとっては稼ぎ時に他ならない。
それら立場の違う人々が同時に自分達の利益の為に天候を操ろうとしたのなら。やはり世界は瞬く間に混沌が支配し、人類皆共倒れの未来は確約されるだろう。
とどのつまり、自然が民主的である必要なんて何処にもない。天候を操れる存在がいるとしたらきっとそれは神様だけだ。そんな神様が絶対君主で天候を決めてくれるから僕らの秩序は保たれているんだろう。
まあ、どちらにせよこんな季節外れに真夏日を置くような神様を、僕は決して信仰したくはないのだけれど。
「喉、乾いたなあ……」
長々天気に対して思いを巡らせ、心の中で散々皮肉をぶつけ、哲学じみた答えに至ったところで、結局のところ僕が言いたいことはそれだけだった。
喉が渇いた。からからだ。こんな暑い日の6限に外で体育なんてやるからだ。案の定、僕を含めて夏日の対策をしていなかった生徒達の一部は日射病や脱水症状を訴え、何人かは保健室へと連れていかれていた。僕はなんとか堪えて終わりのHRに出席はしたものの、一刻も早く何か水分を摂取しなくちゃ倒れてしまいかねない。いつも行動がのんびりで着替えるのもゆっくりなのが仇となってその間に水を飲む時間がなかったんだ。軽く頭も痛む。カリキュラムって奴の融通の利かなさは如何にもお国のやることだよ、全く。
「キミ、喉乾いてるの?」
溜息と共に立ち上がろうとし、ぬるくてカルキ臭い水道水を飲むか、一階まで疲れきった身体を引きずって校内唯一の自販機まで足を運ぶか。その二択の狭間で揺れていたところ、僕のさっきの独り言が聞こえてしまっていたのだろうか。誰かが僕に問いを向けていた。女子の声だった。僕は社交性に富んだ人間ではないから、友達もいなければ増してクラスの異性と会話をすることなんてまずないと言っていい。だから彼女の問いが僕に向けられたものであると理解するまで、少し時間がかかってしまった。
「おーい、キミ大丈夫?さっきの体育、しんどそうだったし、もしかして体調やばい?保健室行く?」
その間を、彼女は僕が酷く体調が悪いのではないかと解釈したらしい。慌ててもたげた頭を持ち上げ、視線を声の主へと向ける。
「いや……軽い脱水症状くらいはあるかもだけど、多分水飲めば平気。大したことないよ」
声の主はクラスメイトの鎖是詩音その人であった。僕は人の名前を覚えるのが得意じゃない。とはいえ2年に上がってから半年も経てばクラスメイトの名前を覚えるくらいは流石に出来る。
けど彼女は別だ。もっと早い段階で、それこそクラスすら違った1年の頃から、僕は彼女のことを一方的に知っている。
なんたって彼女は有名人だから。陸上の特待生として入学し、1年の頃から陸上部で輝かしい成績を次々納め、2年の今じゃ将来オリンピックでの活躍すら期待されてる我が校陸上部のエース。それが鎖是詩音。
毎月ある全校集会の度に名前を呼ばれ、校長から大きな大会の表彰状を貰っていたら半分聞いていなくたって嫌でも顔と名前くらいは刻まれる。要するに、彼女は僕とは住む世界の違う存在っていうやつだ。スクールカーストなんてものに当てはめるなら彼女は最上位層。僕は……理不尽ないじめを受けていたり、周りから笑いものにされることはないから、きっと最底辺ではないのだろうけど、全く目立つことはなく、僕自身目立ちたくはないし多くの人間から認知されていたいとも思わない。誰が言ったかは知らないが、好意の反対は嫌悪ではなく無関心であるという言葉もあるように、そういう意味ではクラスメイトに対して相互に無関心を貫く僕は、スクールカーストの一番下よりもっと下、制度の枠組みにすら属さないアウトカーストの人間であるのかもしれない。
そんな対極といってもいい位置の彼女から声をかけられたのだ。驚き、というよりは戸惑いに近い感情を抱いてしまうのも無理からぬことだろう。
「そう?じゃあこれあげる。飲みかけだけど勘弁ね」
その言葉と共にかたん、と音を鳴らして何かが僕の机に置かれた。
サイダーだ。プルトップの開かれた160mlのサイダー。確か同じものが下の自販機で売っていた。もちろん僕は苦手なので一度も買ったことはないけども。
「それじゃあたし、部活行かなきゃだから。それ飲んでも体調悪かったらちゃんと保健室行くんだよ!」
そう言い残して彼女は嵐のように教室を飛び出して行った。残されたのは僕と飲みかけのサイダー。そして読みかけの本。まだ教室に残る数人の生徒もあと数分もすれば帰るか、それぞれの部活に向かうだろう。
さて、どうしたものか。僕は炭酸飲料が、とりわけサイダーが好きじゃない。しかも飲みかけだ。もしこれが家族から渡されたものだったらすぐにいらないよと言って返すだろう。
けど、これは彼女からの善意だ。殆ど言葉を交わしたこともない、言ってみれば同じ空間で授業を受けているだけのただの他人。そんな他人の体調を慮って譲ってくれたものだ。
それをいらないから捨てるなんてことが出来るほど、僕は倫理や道徳の欠如した恥知らずだとは思っていないし思いたくもない。そして何より、好き嫌いを言っていられないほど喉が渇いて仕方がなかったんだ。
だから僕は、飲んだ。彼女の手の温もりの残滓が微かに残る缶を手に取り、我ながらただ飲料を飲むだけだというのにまさしく恐る恐るといった様子で、震える唇に缶の飲み口を当てる。
瞬間、口内に流れ込んできたのはサイダーだ。疑う余地もない。すぐさま甘味料の甘さが口の中に広がり、遅れて弾けるような炭酸の刺激が喉奥を刺す。
そう、僕が嫌いな、痛くて、曖昧で、矛盾を孕んだサイダーそのものの味。
「……やっぱり、苦手だな」
けれどやっぱり渇きには勝てない。貰ったサイダーをすぐさま飲み干し、ふうと溜息をついてから、視線を缶へと戻して僕はごちる。
貰っておいてその感想はなんなんだと思わなくもないが、しかし苦手なものは苦手なのだ。こればかりはどうしようもないだろう。
さて、なんとか渇きは満たされた。とはいえ体調はあまり良くないままではある。でも、だからといってまだまだ日差しの降り注ぐ炎天下の中を帰る気にもなれなかった。
だから結局、僕は何時もと同じことをする。本だ。放課後、誰もいなくなった教室の隅で本を読むのが日課なんだ。内容は小説だったり何かしらのちょっと専門的な新書だったり、はたまた哲学書であったりと、内容に一貫性はない。たまたまタイトルに惹かれて買ったり、なんとなく興味が湧いたものを手に取っては放課後の教室でのんびりと読む。僕に趣味と呼べるものがあるとするなら、きっとこれだけだろう。
そうして再び読みかけの本を手に取り、栞の挟んだ位置から続きを読み始めようとした瞬間、僕はあることに気づいてしまう。今更もいいところだ。今度こそ誰もいなくなった教室の中、僕は困ったような顔でサイダーの空き缶を見て、またもひとりごちる。
「……間接キスじゃんか、これ」
僕は斜に構えた人間だ。少し嫌な人間だという自覚もある。だから友達もいないしSNSの類もやらないような人間だ。
けれど、それでも。やっぱりそういうことが気になってしまう辺り、所詮は僕も思春期のしがらみの中にいるひとりの高校生でしかないらしい。
サイダーが苦手な理由が、またひとつ増えた気がした。
◇
真夏のような暑さから一転、週が明けた月曜の気候は過ごしやすい秋そのもの。吹く風からは人を苦しませてやろうなどという悪意めいた熱気は何処にもなく、かといって制服以上の特別な防寒着が必要になるほど、冬の刺々しい寒波に見舞われるということもなく。
ああ、なんて澄み渡った心地の良い秋の放課後なのだろうか。時折何処からか漂ってきては鼻腔をくすぐるオーガニックな甘い香りは、きっと秋のそよ風に靡く木犀の香りだろう。
全く疑いようもないほど、万人が思い描く通りの秋そのものだ。毎年毎年温暖化の影響なのかは知らないしあまりその手のことには興味もないが、秋という季節を分かりやすく体感できる期間は短くなっているような気がして仕方がない。
思うに、夏と冬というふたつの季節の主張が激しすぎるんだ。例えるなら、電車の席を足を広げて座り、我が物顔でひとり分以上を占有するような厚顔無恥な行為を、当然の権利が如く出来てしまう連中。多分それが近年の夏と冬で、彼らが詰めて座らないせいで、秋という季節は身を縮こまらせて窮屈な思いを強いられている。全く、良識があって控えめな人ほど損をする現代社会となんら変わらないじゃないか。
もう少しくらい、はっきりと自己主張すればいいのに。なんて、そういうことがとりわけ苦手な僕にそう思われたところで、秋だってきっとお互い様だろ?と僕に向かって肩を竦めてみせるに違いない。
やれやれ。ふと我に返り、無意味な妄想もここまで来ると立派なものだと、我ながら苦笑せざるを得なかった。季節に感情なんてものはない。ある筈もない。季節の移り変わりに理由はあれど目的はないのだ。地軸の僅かな傾きと、地球の公転運動のもたらすただの結果に過ぎないのだから。
それがたまたま、この広い宇宙の中、幾千と存在するであろう銀河系で、太陽を中心とした太陽系の中の地球という星にだけ僕ら生命が存在し、それら季節の移り変わりの恩恵と厳しさを同時に享受し乗り越えなければならない、確率論的に奇跡といって差し支えのない立場だからこそ、きっとそこに目的を求めてしまうんだろう。宇宙を思索し、そのシステム全てを赤裸々にするには、僕ら人間はあまりにちっぽけだ。だから神様なんて実態のない便利な概念を夢想し、その見えざる手によって世界は創造され、僕らヒトだけが知恵を持つのも、遠い祖先が蛇に唆されて禁じられた果実を口にしてしまったから、なんて分かりやすいエピソードに落とし込まなきゃ、僕らの矮小さに対してあまりに広大な世界はとてもじゃないが受け入れ難い事実であったんだろう。
けれどやっぱり、僕は日本人らしく神様の実在をあまり信じてはいないし、ヒトはヒトで自然は自然でしかなく、その存在と成り立ちに何か特別な意味もなければ目的もないと、そんな風に考えている。ただそこにあるだけだ。万物は流転する。そう説いた哲学者の名はなんだったか。
ともかく、自然とは全く、それだけのことなんだろう。
僕がこうして秋に特有のなんとも表現の難しい、ある種の寂しさのような雰囲気に浸りながら、教室の片隅、後ろから二番目の窓際の席で、時たまぼんやりとくだらない思考に興じつつ、のんびりと本を読み進めているのも、多分大した意味はないし、何かしらここで本を読まねばならぬという使命感に駆られてのことじゃあない。
本を読むなら図書室に行けばいいと思うかもしれない。けれど僕は、図書室特有の、なんて表現するのが正しいのかは分からないけど、あの張り詰めた生真面目さがあんまり好きじゃないんだ。集中して本を読め、もしくは勉強に打ち込め、そうでなければここに貴様の居場所はない。まるでそんな風に誰かから言われてるような気がして、それがなんだか嫌なんだ。
じゃあ自宅はどうなんだと聞かれたら、それもまた少し本を読む場所としてはなんだかどうにも適さない。思うに、生まれた時から今日に至るまでを過ごした生家は、あまりに僕にとっては居心地が良く、それが理由で逆に本を読むのには集中し切れないのだろう。
僕は本を読むことは好きだ。けれど、あくまで趣味の範疇に収まる程度の好きであって、これがなくちゃ生きていけないだとか、僕は本を読む為に産まれてきただとか、そこまでの情熱や信念に基づいた行いでは決してない。
まあ、言ってみれば、ただの暇潰しなんだろう。他の人が特にこれといった目的もなくスマートフォンを弄り、動画サイトやゲームアプリを楽しむことと大差はない。
或いは、それよりももっと薄っぺらな動機に支えられた暇潰しでしかないのかもしれない。もしも明日、法律で本を読むことが禁じられたとして、僕はきっとそれならそれでと禁を犯してまで本を読みたいとは思わないだろう。多分、興味の対象が何か別のものに移るだけで、そしてそれに興じる理由も何となく楽しいから、などという薄っぺらな動機で有限の時間を無為に貪ってゆくのだろうな。
我ながらつまんない人生だ。けれど、そう思う反面、ならば有意義で充実した人生とは果たして一体どんなものなのだろうと、少し本を読み進める手を止め、考えてみる。
……結局、暫く考えあぐねたところで答えらしい答えは出なかった。
例えば、芸能人。人より何か優れた部分を武器にし、人より多くお金を稼いで、人より遥かに贅沢な暮らしを享受する。まあそんな生活に全くこれっぽっちも憧れがないかと問われれば、そこまで欲がない霞だけ食べて生きる仙人のような人間でもないので、ほんの少しくらいは憧れることもある。けれど本当に、小指の爪の先っぽ程度の、ちょびっとだけ。
とはいえ彼ら、いわゆる世間一般でいうところの成功者だって、その成功がただただ僕のように漠然と生きている中で、急に天から降ってきた訳じゃないはずだ。華やかな活躍の裏では、きっと血の滲む様な努力を何かしら重ねてはいるのだろうし、それと同じくらいの悔しさや失敗だって積み重ねた上の成功なんだろう。
言い換えるのなら、彼らは痛みを受け入れ、成功出来なかった数々の人の夥しい屍の上で輝いているんだ。自分もその屍のひとつになるのかもしれないという恐怖心と戦いながら、それでも成功を掴み取る力があった。だからこそ、人より華やかな生活を享受する権利があるんだろう。
要するに、僕にはそんな彼らを羨む土台にすら立っていないのだ。努力を重ね、屍のひとつとなりて、彼らを羨むのなら筋は通っている。でもその痛みを受け入れることすらせず、ただのうのうと生きている癖して、そんな成功を羨むのは、なんだかちょっと、誠実さに欠けるというか、どうにもズルいような気がして憚られるんだ。
だからこそ、別に僕はそんな人生を歩みたいとは思わない。出来る限り痛みはなく、深い苦しみもない代わりに、喜びだって最小限のものでいい。例えば好物の大福もちが美味しいだとか、朝の混雑時の満員電車の中でたまたま今日だけは何故か席に座れただとか。僕にとっての幸せとはその程度で構わないし、それ以上を望むつもりも、少なくとも今はない。
痛みなんて、感じなくて済むのなら、それに越したことはないんだから。
そんな思春期らしい人生哲学に思いを馳せ、やっぱり僕はなんてつまらない人間なのだろうと自分で結論を出しておきながら思わず苦笑を漏らしてしまう。
これ以上考え込んだところで、僕が夢のない凡夫だという事実からはどうやら逃げも隠れも出来ないらしい。だから僕は、なんとなく気分を変えたくなって、その役割を秋の夕暮れの景色に託すことにした。
こういう時、僕が窓際の席なのは得だなと思う。ぼんやりと教室の窓越しに広がる世界を眺めていると、僕の悩みや思考がどれだけ小さなもので、そんなものに固執する必要はないのだと諭されているような気持ちにすらなれる。
そんな折だった。何を見ている訳でもなく、夕暮れ空を映していた視界の端が、偶然彼女の姿を捉えてしまう。
鎖是、詩音。別に彼女に対して何か特別な思い入れがある訳じゃない。ただ、そういえば先日サイダーを貰ったお礼を―そのサイダーが僕自身の好みと合致したものかどうかは置いておくとして―まだ言えていなかったなということを思い出しただけだ。
けれどもどうしてか、彼女から目を離すことが出来なくて、僕はそのまま彼女の背中を追うように、その堂々とした細身の姿を瞳に捉え続けてしまう。
眼下に広がる橙色のグラウンドの上で、彼女は一際目立っていた。目立っているように、僕の目には映った。
僕には陸上のことは分からない。彼ら陸上部の面々には少し悪い気がしなくもないが、陸上の何が楽しいのかもよく分からない。
特に走るだけの種目、それこそ鎖是詩音がその名を全国に轟かしている100メートル走なんてのは特に。
走るなんて行為をどれだけ極めたところで、僕ら一般人より数秒程度速くゴールに辿り着けるだけじゃないか。今よりももっと昔、例えば飛脚がその両足で長い距離を走り抜け、目的地まで手紙を運んでいた時代であれば、人より速く、人より長く走り続けられる能力は重宝されるものだっただろう。けれど現代は自転車がある。免許があれば車や原付にだって乗れる。
それらが存在し、普及した現代の世において、人より少し速く走れるなんてのは、そんなにも凄い能力足り得るのだろうか。ゴールまでにかかる時間の、小数点以下の差を競うことに、それだけの価値があるのだろうか。
走るなんて行為、出来ることなら僕はしたくはない。走ると息があがって苦しいし、否応にも流れ出る汗だって肌着を濡らして不快極まりない。
ああ、そうだ。走るとは、少なくとも僕にとっては、痛みに分類される行為に他ならないんだ。その痛みを自ら進んで受け入れて、あまつさえその痛みをまるで快感であるかのように繰り返し続ける彼女のことが、僕はどうしたって分からない。
けど、けれど。そんな風に思っている癖して、僕はこうも感じてしまうんだ。
走っている時の彼女の姿が、そして走り終えた後の彼女の無邪気なまでの純粋な笑顔が、ただただひたすらに、どうしようもないくらいに。
美しいな、と。
◇
いつもと殆ど変わらない日常。だけども日に日に秋は深まり、教室の窓から遠く映える雑木林の葉っぱは点々と色付き、銀杏は黄色に、紅葉は赤く、それぞれ装いを秋色に変えて季節の移り変わりを言葉なく告げる。それも、一方的に。
僕らが毎日のように受ける授業だってそうだ。同じことを繰り返しているようでいて、内容は教科書の巻末に向けて着々と進み、全く同じ授業は当然一度たりとてない。
僕個人に限った話だってそうさ。僕は同じ本を二度読むことはあまりない。よほど気に入った文章であれば例外もあるが、それでも基本は部分的にで、丸々一冊を最初と同じ気持ちで一文一文噛み砕いて読み直すなんてことはしない。いや、中身を知ってしまった以上、出来ないというのが正しいだろうか。
つまるところ、この退屈で同じことを繰り返しているだけに思える毎日でも、さりとて本当に同じ一日は一度たりとてありはせず、僅かに違った間違え探しのような日常を、僕らは一方通行の時間の流れに沿って歩んでいる。
きっとそれを大人はしたり顔で、あるいは何処か懐かしむような顔で、二度とない学生生活を後悔しないように過ごしなさいと語るのだ。
後悔。後悔、か。そんなもの、先になってみないと分かるはずもないじゃないか。後悔先に立たずとはよく言ったもので、結局自分に何が足りなかったのか、何をしていればよかったのか、なんてことは一方通行の先に辿り着いてみないと誰にだって分からない。
僕もいずれ、嘆く日が来るのだろうか。今この時、毎日を大した目的意識もなく、ただぼんやりと教室で本を読みながら黄昏れることに費やしていたことを。
僕も、斜に構えてその「青春」というやつを進行形で謳歌しているであろう同級生をいちいち自分の中の価値に照らし合わせて懐疑的に見るばかりじゃなく、この日常を青春と呼べる程の思い出に昇華出来るくらい、脇目も振らず何かに熱中していればよかったな、と。
そんな風に、いつもと比べて一段と自虐が進んでしまうのは、夕暮れの橙と夜の黒が混じり合い、水平線を何処かおどろおどろしく歪ませ、何か得体の知れない不気味さを孕んだ夕闇が、僕を遠く静かに見つめているからなのだろうか。
……多分、そんな抽象的で感傷めいた理由じゃない。
教室の窓より眼下、広がるグラウンドで練習に励む彼女に。僕には何の魅力も分からない100mを駆けるだけの行為に、己の人生全てが詰まっているとでも言いたげな姿勢で臨む鎖是詩音の後ろ姿に、どうしてかほんの少しだけ、心揺れ動かされてしまっている僕がいるんだ。認めよう。ここでその事実を否定してしまったら、尚更この気持ちはしこりになって居心地が悪い気がしたから。
彼女は今日も、グラウンドを駆けている。
本を読むだけの僕とは、いやその唯一の趣味らしい趣味であるはずの読書すら上の空の僕とは対照的に、彼女はひたすらに前を、前だけを見つめて駆けている。
サイダーだ。彼女からサイダーを貰って口にしたあの日から、僕はどうしてか、こうして時たまふと気が付くと本から視線を外し、陸上部の面々から彼女を探して、半分無意識でその後ろ姿を追っているのだ。
我ながら気持ちが悪いなと思う。これじゃやっていることがストーカーと大差がない。勘弁してくれよ。僕はそんな妄執的で反社会的な行為に興奮を覚える異常者なんかじゃない。
ならば、一体なんだと言うのか。まさかあの間接キスにときめきを覚えて抱いた恋心だなんて言うつもりじゃないだろう?
それは断じて否である。少なくとも恋であるのなら、今部活に打ち込んでいる彼女のことだけではなく、同じ空間で同じ授業を受けている時の彼女のことだって気になっているはず。あるいはそれ以外の場所で彼女が何をしているのかとか、既に恋人がいるのかどうかとか。そういう阿呆みたいなことが気になって仕方がないはずだ。少なくとも僕は放課後のこの時間以外で、彼女を何かしら意識した覚えはない。
だから恐らく、僕がついついふと視線を向けてしまうのは、あくまで走っている彼女であって、鎖是詩音という一個人の全てに興味を持っている訳じゃない。
ただひとつ、彼女のことを知りたいと思っているのなら。それは何故あんなにも苦しいはずの反復練習を、あんなにも楽しそうに笑顔でやり遂げてみせるのか。
普通の感性を持っているのなら、苦しくて仕方がないはずの痛みを、どうしてあんなにも肯定的に愛することが出来るのか。
それが僕には、どうしても分からない。理解ができない。
だというのに、それが気になって仕方がないんだ。
――いっそ、彼女にその理由を問いただしてみようか?
馬鹿を言え。そんな己の疑問ひとつを解消する為に殆ど面識のない女子に話し掛けられるようなコミュニケーション能力、僕にあるはずなんてないだろう。
……自分の事ながら、なんだか少し虚しくなってきた。
止めよう。これはきっと、何かの気の迷いだ。彼女は彼女で、僕は僕だ。かたや将来を期待された韋駄天の少女。かたや教室の暗がりで読書に耽る根暗な男。そんな住む世界の違うふたりの道が交わることなんてなくていい。この前のサイダーの1件は10月の異常気象がもたらした悪戯みたいなもの。
こうして気候も暦通りに秋らしさを深めた今、僕と彼女を繋ぐ接点なんて、もうひとつもありはしないのだから。
ぱたん。読みかけの本を閉じ、雑念を追い払うように数回軽く頭を振り、僕は帰ることにする。
昏い、宵闇。夜の端っこで仄かに夕焼けの紅が、未だ闇には飲まれまいと足掻いてみせていた。僕にはそんな風に思えて仕方がなかった。
◇
今日も、鎖是詩音は学校に来なかった。学校に来ていないのだから部活に来ているはずもない。いつもの放課後、窓際から覗く眼下にも、当然彼女の姿は何処にもない。
彼女が何の前触れもなく高校を休み始めてから3日が過ぎた。
3日も連続で学校を休むとなると何か小さくはない理由があるのだろう。季節外れのインフルエンザにでも罹ってしまったのか、はたまた身内に不幸でもあったのか。
そこまで考え、僕は小さく溜息を吐く。いくらなんでも邪推が過ぎる。彼女がどんな理由で学校を休もうが彼女の自由だろう。一体彼女に何があったのか、などと心配するのは僕の役目じゃない。教員や彼女の友人、部活のチームメイトがすべきことだ。独りよがりな心配をする程、僕と彼女に接点はないのだから。
それに、今日は読んでいる本に集中出来る。大して難しい内容でもない文庫本数百ページを読むのに一週間も費やしたのは始めてだ。それ程までに僕は本を読む手を止め、窓から覗く彼女の姿に気を取られていたということなのだろう。
情けない、とは少し違うが、似たような自虐の念が溜息となって吐き出される。
僕がこんなところから一方的に彼女の姿を眺めていたと鎖是詩音が知れば、彼女は果たしてどういう反応を見せるだろうか。少なくとも良い気はしないだろう。気持ち悪い、とそう思われるかもしれない。むしろ、その可能性の方が高いとすら。もし逆の立場だったとしたら、僕だって僕の行為は気味が悪いと思うんだから。
……よし、いい機会だ。今日限りで終わりにしよう、こんなこと。別に法に触れたり倫理に触れることをしている訳じゃなくったって、あたかも覗きのような行為はなんだかフェアではないし、何より僕らしくない。こんなにも一方的に、そしてさしたる理由もなく他人に興味を持つなんて、そんなものは人付き合いが上手い連中のやることだ。僕は違う。静けさに身を委ね、本と共にひとりの時間を愛し、変わり映えのない日常のほんの些細な違いを見つけては物思いに耽る。僕は、僕という人間は、それで充分だ。
きっとこの数週間、鎖是詩音の走る姿に興味を抱いてしまったこの数週間は、あのサイダーがもたらした幻想で、そしてその幻想は、炭酸の泡が弾けるように、今ここで終わるんだ。
まるで熱が冷めるように。
まるで夢から目覚めるように。
◇
鎖是詩音は、もう走れない――らしい。
今日、鎖是詩音は遅れて学校へやってきた。らしい、というのは勿論この情報は本人から直接聞いた訳ではなく、クラスメイト中で噂になっていたのを耳にしたからだ。一応断っておくと盗み聞きした訳じゃない。聞こうともしていないのに噂話を人に聞こえる声量で喋る節度のない連中がクラスに何人もいたからだ。僕はそういう根拠のない噂話や、何が情報ソースなのかも曖昧なゴシップめいた話題は好きじゃないし、基本的には信じない。
けど、けれど。久々に登校してきた鎖是詩音の姿には、その噂話を否応にも真実だと思わせる説得力が伴っていた。
右脚をギプスで固定し、首から下と同じくらいの長さの松葉杖に体重を預け、打撲か擦過傷か、全身を包帯や絆創膏だらけにして。
少なくとも、ただの怪我で収まる範疇でない大きな傷を負ってしまっているのは誰の目にも明らかだった。
担任曰く、彼女は先日帰宅途中で車に跳ねられ事故にあってしまったのだという。だから配慮してやってくれ、と。それ以上のことは何も言わなかった。というよりも個人情報やコンプライアンスに厳しい世の中だ。怪我の程度がどれくらいで、彼女の陸上にどんな影響を及ぼすのかなんていうのは、教員という立場からは言えないことも多いのだろう。
けれども余計にそれがクラス中の好奇心を掻き立てた側面もあるんだろう。休み時間には皆が彼女の元に集まり、大丈夫かとか、どれくらいの怪我なのかだとか、彼女を心配する言葉を口々に捲し立てていた。
でも多分、穿った見方をするなら彼らの抱く感情の中で純粋に彼女自身を心配する気持ちはたったひと握り。
皆、満たしたがってるんだ。変わり映えのない日常の中、急に現れた非日常。その非日常に触れ、鎖是詩音の身に降り掛かった悲劇を知り、すぐ側の物語として咀嚼することで、彼らは自分たちの心に空いた隙間のような退屈を無責任に満たそうとしているんだ。そんな目的意識があるにも関わらず、彼らはまるで彼女のことが心配で堪らないとでも言いたげに、労りの言葉を口にしては自分が善人であると疑いもしないんだ。
少なくとも、僕にはそう思えた。そして、そんな彼らに……少しだけ、ほんの少しだけ、怒りと嫌悪を覚えてしまった。
勿論、中には本気で彼女を心配している人だっているだろうし、全員心の内の何割かはそういう感情だってあるだろう。でも本気で彼女のことを心配してるのなら、あんな秘密を暴くのが楽しいとでも言わんばかりに、彼女の容態を噂話の種にするなんてあまりに倫理に反してるじゃないか。
結局、人間とはそういうものなんだろう。自分が安全圏にいると知れば、他人の不幸なんてエンターテイメントとして楽しめてしまう。それがこの世のマジョリティなんだ。
じゃあ、僕が純粋に彼女を心配するマイノリティに属しているかと問われたのなら――多分、違う。何か声をかける訳でもなければ、そんな野次馬めいた連中を一喝する訳でもなく。無責任で無遠慮な連中を脳内で皮肉る割りには、心のどこかでは彼女の容態がどれくらい深刻で、どれくらいに酷い怪我なのかを知りたがっている気持ちだってないとは言い切れない。
――或いは、この教室の中で一番最低なのは僕なのかもしれないな。
所詮、僕も本質的には彼らと変わらないのか。自分のことながら虫唾が走るよ、全く。
はあ、と誰にも聞こえない溜息を吐き、自分が世の中の一部でしかないことに辟易していると、僕はあることに気付いてしまう。それも、ふたつ。
ひとつは彼女が周りから矢継ぎ早に飛んでくる問いに対して、決して嫌な顔を見せず、時には笑顔すら浮かべて正直に返答しているということ。
強く知りたいとまでは思っていなかったが、そのお陰で彼女の身に何が起きたのか大体のことは知ることが出来た。
曰く、遅くまで練習していたところ、帰り道の暗がりで無灯火の車に轢かれてしまい、右足の骨折と倒れ込んだ際に数カ所の打撲と擦過傷を負ってしまったということ。彼女自身に落ち度はなく、運転手に全ての非があるということ。こうして登校できている以上、当然といえば当然だが命に別状はないとのこと。そして流石に次の大会は難しい、とのことだった。
あと少し轢かれ方が悪かったらもっと大変なことになってたかも、なんて冗談めかしてすら彼女が語るおかげか、次第に野次馬たちは見た目ほど大した怪我ではないのだと悟り、一瞬で熱を失ったようにそれぞれの日常へ戻ってゆく。
でも、僕には分かった。多分、彼女のそれは演技に違いないと。
それがふたつめの気付き。どれくらいの骨折なのかと聞かれた時だけ、彼女の笑顔が僅かに歪み、一瞬の間を置いてから元の笑顔で分からないとだけ彼女は答えていたから。
でも、それだけだ。それだけで、彼女の笑顔がある種の虚勢で演技であるのかが分かるのか。それも、自信を持ってそうだと思えるのか。
だって、彼女の笑顔が、違ったから。
あの窓際から暫く毎日のように眺めていた、本当に楽しそうな彼女の笑顔とは、あまりにかけ離れていたから。
今の笑顔に、感情はない。見ているだけで心惹かれるような、歓喜と熱意がこれでもかと込められた、天真爛漫を絵に描いたようなあの笑顔の面影が、何処にもないんだ。
虚ろだ。もしも彼女の顔が仮面だとして、取り外して感情を覗くことが出来るのなら、その下にはきっと深くて広い虚ろだけを湛えているに違いない。
だからきっと――いや、絶対に。彼女は何かを隠している。そしてその何かは彼女にとって恐ろしいまでにクリティカルな現実なんだろう。
それが果たして何なのか。僕には聞く勇気も、聞く権利も、ひとつも持ち合わせてはいなかったんだ。
僕の胸の内でざわめく感情は、一体なんなんだろうか。彼女の悲劇をエンターテイメントとして扱う大衆に向けた憤りか。それとも決して仮面を外そうともしない鎖是詩音自身に対するもどかしさなのか。或いは、その仮面に触れる勇気すらなく、ただ自ら蚊帳の外でいることを選ぶ僕の、僕自身への苛立ちなのか。
……多分、きっと。それら全てに対する、やるせなさ。
結局、この世に神様なんてものはいないんだろう。いるとして、やっぱりそいつは、酷く性格の捻じ曲がった支配者気取りの最低野郎に違いないんだ。
◇
雨音の連続。ざあざあと教室の静けさをより際立たせるような寒々しい秋霖。
僕は確かに、昨日でグラウンドを眺めることを、窓を通して遠い世界の鎖是詩音の背中を追うことを止めると、そう決めた。
けれどそれはあくまで僕の自由意思によって選んだ筈の歩みであって、誰かに強制された選択などではなかった筈だ。
だというのに、現実はどうだろう。そんな些細なことですら、結局僕は好きに決めることすら許されなかった。教室の片隅で、思春期の少年ひとりがどんなことを考え、悩み、自分との対話を繰り返したところで、鎖是詩音の後ろ姿を放課後の窓から俯瞰することなど、仮に願ったところで叶わぬ夢となってしまったのだから。
ならば何故、僕は未だにぼう、と外を眺めているのだろう。もはや本を開くことすらなく、ただひたすらに、何を見ているのか自分自身ですら分からずに。
もし鎖是詩音の身に不幸が訪れなかったとしても、この雨の下では屋外を使った部活なんて出来るはずもない。
なのに――いや、だからこそ、なのか。僕は雨粒の隙間に、あの鎖是詩音の走る姿を、嘘偽りのない純然たる笑顔を、まるで故人を悼むかのように幻視してしまうのは。
全く、我ながら失礼にも程がある。少なくとも彼女は生きている。酷い事故だったようだけど、勝手に、それも殆ど面識のない男の思い出にされちゃ溜まったものではないだろうに。
はあ、と誰に向けて、そして何の為に放たれたのかも分からない溜息が宙を揺蕩う。
――僕はどうして、彼女の走る姿を眺めるようになったんだっけ。
また無意味な疑問が頭の中で湧き上がる。
――ああ、くそ。わかったよ。どうせやることも、やりたいこともありゃしないんだ。だったらとことん、付き合ってやるさ。
きっかけはあのサイダーだった。脱水症状を起こしかけていた僕に、彼女はなんということもないかのように飲みかけのサイダーを分けてくれたんだった。
そしてその日の放課後、たまたま外を眺めていたら彼女の走る姿を見て、それがなんだか気になったんだ。
明確に彼女のことが気になり始めたのはその時からだろう。彼女の走る姿が、その後ろ姿が、そして息を切らせながらも心底楽しそうに笑う姿が、あまりに遠く理解の出来ない存在だったから。
でも、きっとそれだけじゃない。僕は研究者魂のようなものは生憎持ち合わせてはいないから、理解が及ばないというだけならすぐに興味をなくして本の虫へと戻っていただろう。
ならば何故、僕の興味は彼女から離れなかったのか。健康的に汗を掻き、風を切り、地面を韋駄天が如く駆ける彼女を凄いと思ったから?
それは違う。だって僕は別に、今でさえも陸上のことになんか興味はないし、人より少し速く走れるという能力を特別凄いものだとも思わない。現に鎖是詩音以外の陸上部員の走る姿やハードルを越える姿、あるいは原始的なまでに砲弾を遠くに飛ばそうとしている姿なんてこれっぽっちも魅力的だとは思わなかったのだから。
そこまで考え、どうしてか僕は少しだけほっとした。このひねくれ具合は相変わらずだ。僕はおかしくなった訳ではないらしい。
しかしながら、だったら尚更僕はどうして彼女のことだけが、それも彼女の走っている姿だけが、あんなにも僕を惹き付けたのだろう。
確かに走っている時の彼女の姿は美しいとさえ思ったよ。走り終わった瞬間の、場違いなくらいの満面の笑みだって、素敵だなと感じたことはあった。
でも、だからって、それだけでこんなにも執着することなど有り得るんだろうか。この感情を恋と呼ぶなら納得はできる。けど僕の思う恋心の感覚が間違っていなければ、少なくともこれは恋なんかでは決してないんだ。
そうだ、例えるなら……川端康成の雪国の冒頭を読んだ時だとか、美術館で初めてモネの絵を見た時だとか、そんな美しいものを前にして目が離せなくなる感覚だ。彼女の笑顔はそれに近い。雪国を読んで川端康成に恋をするか?睡蓮を見てクロード・モネを伴侶にしたいなんて考えるか?
それと同じだ。だからこそ、僕が彼女のことが気になって仕方がない理由が、あと少しで手が届きそうになっているのに、どうしたって分からないんだ。
一体鎖是詩音の何が僕を惹き付けるというんだ。
一体鎖是詩音の走る姿だけがこんなにも美しく思えてしまうんだ。
分からない。分からない。 曖昧で不明瞭なもやが思考を滲ませてゆく。
興味なんて抱く筈もなかったのに。自分に関わらない他者の存在なんてどうでもいいとすら思っていた筈なのに。
鎖是詩音……君は、一体、なんなんだよ。
けれどもう、その答えに至ることは、ないんだろうな――。
「ああ、もう!」
自分でも驚くくらいの大きな声をあげ、それと同時に僕は勢いよく立ち上がる。ほんの少し間を置いて、周りには誰も居ないというのになんだか居心地が悪くて咳払いをひとつ。
とまあ、このまま答えの見つからない思索に明け暮れていたら頭がどうにかなってしまいそうだったんだ。そんな思考を無理やり引き剥がすようにして立ち上がり、教科書の類を乱雑に鞄の中に仕舞い込み、手早く帰り支度を済ませて教室を出る。
今日は雨で少しだけ頭も痛むし、とてもではないが本なんて読んでいられる気分でもなかった。だから僕はいつものルーティンを崩し、そそくさと帰宅することに決めたのだ。
ああ、そうだ。脳をこれだけ酷使したのだからついでに甘い飲み物でも買っていこうかな。学校の1階には1台だけ自販機が置いてある。その中でも僕はコーヒーとは名ばかりの、砂糖と練乳がこれでもかと入った黄色いパッケージのコーヒー飲料が大好きだ。
甘すぎて忌避されているのか、あまり校内でそれを飲んでいる人を見かけることはないが、僕に言わせるのなら格好付けているのか知らないが、さして美味しくもない自販機の無糖コーヒーなんて飲むやつの方がどうかしているよ。美味しいコーヒーが飲みたいのならそれなりのお金を払ってカフェにでも行くべきだ。脳の疲れには糖分が1番効くんだからさ。
◇
……僕は多分、馬鹿だ。それも熱いと分かりきっている火中の栗をわざわざ素手で拾いにいくが如き大馬鹿者だ。
何故そんなことをしてしまったのだろうと、たった今自販機から取り出し、左手で握った160mlのサイダー缶を睨み付けながら、今しがたの己の行いに対しての深い後悔を禁じ得なかった。
僕が飲みたかったのは甘いコーヒー飲料だ。なのにどうしてこんなものを買ってしまったのか。
僕は炭酸飲料が嫌いだ。こんなサイダーなんてやつは、特に。
機械が誤作動を起こしてしまったのなら諦めもつく。補充の際にひと缶誤って違うものがコーヒーの欄に混入してしまっていたのなら、まあ所詮は人のやることである以上、多少の文句はあれど仕方がない。
けれども僕は、少なくともさっきまでの僕は、紛れもなく自分の意思でこのサイダーのボタンを押し、貴重な学生の小遣いをわざわざ自分の嫌いなものへとつぎ込んだのだ。間違って買った訳じゃない。僕はあろうことかサイダーを買おうとしてサイダーのボタンを押してしまったのである。
であるのなら当然、自販機が吐き出したるはそれ以上でもそれ以下でもない冷えた160mlサイダーひと缶となる。
なるほど、自明の理だ。朝になれば陽は昇り、夜の訪れと共に水平線の向こうへと去りぬ。そんなことと同じくらいに当然の帰結だとも。
そうなることなんて考えずとも明白だというのに、ならばどうして僕は飲みたかった甘いコーヒーではなくこんなものを買ってしまったというのだろう。
――どうしてか、実際のところ気が付いてはいる。自販機に小銭を入れてボタンを押そうとした瞬間、脳裏をあの日貰ったサイダーと、鎖是詩音の笑顔が風のように駆けていったんだ。でも、僕はそのことに気が付かない振りに徹することにした。
そういえば、ここで売ってたサイダーだったな、なんて思考に辿り着いた時には、もう勝手に指がこのサイダーのボタンへと伸びていたんだ。
売切れ。僕の買った後のサイダーのランプにはその3文字が赤く表示されていた。これが最後の1本だったらしい。どうせならあとひとりこれを僕より早く買ってさえいてくれたのなら、こんな気の迷いに振り回されることもなかったというのに。
はあ、どうしたものか。実際のところ、あの時のように嫌いなものにわざわざ手を伸ばすほど、酷く喉が渇いている訳じゃない。だったら、とりあえず鞄の中にしまって、家に帰ったら妹か両親辺りに押し付けてしまおうか。特に妹は僕と違ってサイダーとかコーラだとかも好んでいたはず。なら、少なくとも嫌がられることはないだろう。
今月は少し本に小遣いを使いすぎた。悲しいかな、学生にとって月末の財布とはいつも軽いものだ。間違えたからってもう1本分の小銭を入れるのは少し憚られる。
……諦めるか。今日はどうにも、そういう日らしい。早く帰って、早めに寝よう。そしたらきっと、全てを忘れてまた明日が来る。この鈍痛のような頭の中のもやもやも、止まない雨がないように、いずれはきっと晴れることだろう。
そうして僕は外履きへ履き替え、鞄の中から取り出した折り畳み傘を広げ、そのまま空と同じ鼠色のアスファルトを俯きがちに歩み始める。
そんな時だった。何気なく、まるで何かを惜しむように、一瞬だけグラウンドへと続く階段へと視線を向けた時、僕は目の当たりにしてしまう。
階段の中腹で、傘もささずに独り佇む、鎖是詩音の横顔を。
髪は濡れて額に張り付き、制服の裾からは絶え間なく水滴が滴り落ちて、手すりに立てかけられた松葉杖は雨に濡れてらてらと鈍く光っている。
霜月を間近に控え、寒さがより明瞭になった晩秋の夕暮れ時に、あれでは身体に堪えるだろうに。まして彼女は怪我人だ。余計に寒さは敵であるはずだ。
なのに彼女はそんなことは意に介さないとでも言いたげに、僕の存在にも気付かずひたすらにただ一点だけを見つめていた。
もはや言うまでもない。グラウンドだ。雨に晒されぐちゃぐちゃになったグラウンドを、彼女はそのくっきりとした二重の瞳に映し、それでいて彼女の双眸はまるで何も見えていないかのように酷く虚ろで、がらんどうだった。
いつも笑顔を絶やさず、グラウンドを駆ける時には真剣に前だけを見つめ続けていた、あの鎖是詩音の面影は、僕の目の前の傷だらけの少女からは、もはや微塵も感じられはしなかったんだ。
その光景が、何故だか僕にとって酷く動揺を与えるものとして映り、気が付けば震えるような情けない声で、僕は言葉を発していた。
「鎖是、さん」
思えば、彼女の名を口にしたのも、自分から彼女に話しかけたのも、この時が初めてだった。
まさか近くに人がいるなどと考えもしていなかったのだろうか。僕の声が届くや否や、彼女はびくりと両肩を震わせ、視線をグラウンドから僕の方へと移した。
「キミは……クラスメイトの……」
僕の存在に気付いた彼女は、笑顔だった。さっきの無感情が見間違いではないかと疑ってしまうくらいに、彼女はいつも通りの人懐っこい笑顔で僕を見ている。
でも、ぎこちのない笑顔だった。
「なに、してるの?風邪、ひくよ」
彼女の立つ段と同じ高さまで降りてから、僕は彼女へと話しかける。なんて当たり障りのない問いなんだろうか。本当にそんな答えの分かりきったようなことが聞きたくて、僕は彼女へ話しかけたとでも言うのだろうか?
「あはは……ちょっと傘忘れちゃってさ……」
返答として、彼女の言葉はあまりにズレている。それが嘘か本当かなんて、大した意味は持たない。本当だとして、すぐそこに雨を凌げる校舎があるというのに、わざわざこんなところでずぶ濡れになる必要なんてある筈もないのだから。
多分、そんなことは彼女だって分かり切った上で、こんな的外れな言葉を返しているんだ。
見られたくないものを、見られてしまった。彼女のぎこちのない、貼り付けたような仮面の笑顔が、なによりそんな風に語っていたから。
「見てたんだよね、グラウンド」
「……………………」
やっぱり図星だったらしい。彼女は困ったような笑みを浮かべたまま、僕の言葉に答えることなく沈黙を貫いていた。でも、沈黙は時にどんな言葉よりも肯定を示すんだ。
「ねえ、鎖是さん、さ。……聞いても、いいかな」
「……なに?」
「鎖是さんの、怪我のこと。どれくらい、酷い怪我なのかなって」
気まずさを埋める雑談としては、あまりにデリカシーに欠ける最低の問いだ。そんなことは僕だって分かってる。だからもう、覚悟を決めた。もう嫌だったから。彼女の、あんな嘘っぱちな笑顔しか見ることが出来ないのは。
「……意外だね。キミもそういうの、気になるんだ」
そして遂に、彼女はその嘘の笑顔すらをも、取り払った。僕の問いが、やはり気に食わなかったのだろう。
虚ろが再び、顔を覗かせた。無表情だ。彼女は心底つまらなそうな無の感情を顕にさせて、僕の瞳を覗き込む。その双眸には、軽蔑の色すら浮かんでいるように思えた。
「……いいよ、もう。なんか、騒がれるの嫌だから隠してたけど、面倒になってきちゃったし。教えてあげる」
そして彼女は僕から視線を外し、またもグラウンドに向き直ってから、晩秋の夕暮れの肌寒さよりもずっと冷たい声色で、何処か諦めたように語り始める。
「一生だよ、もう。脚の神経がさ、ダメになっちゃったんだって。お医者さんが言うにはさ、どれだけリハビリ頑張っても、歩けるようになるくらいで、前みたいに走ることは難しいんだって」
――心の何処かで、覚悟はしていた。なんとなく、もう二度と彼女の走る姿を見ることは出来ないのだと、どことなくそんな気はしていた。でもこうして、本人から直接その事実を聞かされると、自分のことでもないというのに、胸を抉られたような、そんな感覚に襲われる。
「酷い話だよね。あたし、なんも悪いことしてないのにさ。無灯火で信号無視のバカ運転者のせいで、もう二度と走れなくなっちゃった」
どことなく他人事であるかのように、彼女は声色ひとつ変えずに話し続ける。
「でももう、いいかなって」
「……え?」
「ホントのこと言うとさ、あたしももう、疲れちゃってたんだ。タイムをさ、たった0.1秒縮めるだけの為に、何度も何度もおんなじグラウンド往復して、栄養管理だとかの為にあんまり美味しくないムネ肉とかブロッコリーとか、お米とかパンとか練習直後にあんないっぱい食べさせられるの、拷問かよって感じだったし」
「……そう、なんだ」
「そーそー。だからさ、あたしちょっと、せいせいした。もうあんなキツイ思いして、走らなくていいんだって」
……そう、か。走ることを苦しいことだと思っていたのは、何も傍観者の僕だけじゃなかったんだ。考えてみれば、当然のことだろう。心肺機能とか、骨格とか、性別とか。多少の違いはあっても、彼女だって僕と同じ人間だ。全力で走れば息が上がって苦しいだろうし、彼女の言うように食事だとか僕らの知らない部分で辛く苦しい思いをしていたってなんら不思議なことじゃない。むしろ、それが自然だろう。
「将来オリンピック出場間違いなしとか、10年に1度の逸材とか、なーんかそんな調子良いこと言って周りは勝手に盛り上がったり、そう思えば大会でイマイチいい結果が出なかった時は期待ハズレだとかお前ならもっとやれるだろとか、正直鬱陶しかったしさ。……陸上なんて、ホントは大嫌い」
優秀であるが故の苦悩、ということだろうか。それは凡人である僕には本当の意味で理解することは出来ないことなんだろう。でも、そういう周りの無責任さは想像出来る。大人はいつだって無責任だ。いや、大人だけじゃない。人はみんな無責任で、他人に勝手に理想を押し付けたがる生き物だ。そしてそんな理想が崩れたと知ると、どいつもこいつもさっきの教室で彼女に野次馬みたく群がるクラスメイト達みたいに、訳知り顔で好き勝手に言葉を投げかけ、上っ面だけの心配をして善人ぶる。それがなんだか嫌で、その一部にはなりたくなくて、せめて僕は僕なりに無関心でいようと思っていた。
それがどうだ。結局こうして好奇心に抗えず、僕も彼らと同じように彼女の内を暴こうとしている。
勿論、そんなつもりじゃない。でも、否定も出来ない。少なくともあの問いを向けた時に、彼女にとっては僕もその一部にカテゴライズされたんだろう。あの軽蔑は、きっとそういう落胆混じりの軽蔑なんだ。
「失望したでしょ?あたしの本性がこんな性悪で。……勝手に、しとけばいいよ」
ぽそりと、蚊の鳴くような小さな声で、彼女はそう言って口を閉ざしてしまう。
……僕は、僕も。結局はそうなんだろうか。彼女の走る姿を一方的に眺めて、美しいとかなんとか勝手に彼女のことを評価して。僕も周りの人間となんら変わりない、自分の理想を自分勝手に人に押し付けるだけの、無責任な大衆でしかないのだろうか。僕は人とは違うと斜に構えた態度で生きていても、本質は誰とも違わないのだろうか。
「……それじゃ、あたしはもう帰るね」
永遠にも思える長い沈黙の後、そうして彼女は振り返ることもなく、再び松葉杖を手に取り、ゆっくりと階段を登り始める。彼女の背中が、遠ざかってゆく。僕から、そしてあのグラウンドから。
「……違うよ」
そんな彼女の背中に向かって、僕は振り絞るように声をぶつける。
ぴたり、と彼女の動きが止まる。
――勇気を、出せ。ちゃんと、伝えるんだ。
例え僕がそんな大衆のひとりだとしても、彼女の言う無責任な人間のひとりだとしても。
これだけは、これだけは伝えなくちゃいけないって、そう思ったから。
「鎖是さんは、嘘を吐いてる。嘘吐きだよ」
「……嘘吐き?あたしのこと、何にも知らない癖に」
「そうだよ……僕は鎖是さんのこと、なんにも知らない」
彼女が勢いよく振り向く。きっと僕を睨み付け、その表情を怒りに染めて。
「だったら――」
――好き勝手言わないで。
きっと彼女はそんなことを僕に叫ぼうとしていたんだろう。でも僕は、それを遮るように、彼女よりも早く、今までの人生で1、2を争うくらいに声を大きく張り上げて。
僕の好き勝手を、彼女にぶつけることを、選んだんだ。
「ならどうして君はあんなにも楽しそうに笑ってたんだよ!!僕は鎖是さんのことは殆ど知らないけどさ!!見てたんだよ、ずっとさ!!」
「見てたって……なにを」
「君の走る姿だよ!!僕はずっと、放課後教室の窓から君のことを眺めてた!!最初は君にサイダーを貰ってさ!それでほんの興味本意で覗いてみただけだった!!」
「サイダー……そっか、キミは熱中症になりかけてた……」
そこで、彼女はようやく思い出したのだろう。あの時、僕に飲みかけのサイダーを渡したことを。確信した。やっぱり彼女は、性悪なんかじゃない。本当に性格の悪いやつが、人に見返りのない善意を与えるはずもない。そしてそれをすぐに忘れるくらいだ。きっと彼女にとってはその善意は特別な事じゃなく、極々普通の、当たり前のことなんだ。
――そんな人間が、こんな悲しいまま笑顔を置き去りにして嘘吐きで居なくちゃならないだなんて、あんまりじゃないか。
「その日からずっとだよ!毎日放課後、僕は部活に打ち込む君をずっと見てた!!ああ、分かってるよ!気持ち悪いだろ?!僕だって気持ち悪いと思うよ!でも目が離せなかったんだよ!君があんまりにも楽しそうに笑うから!!走ることが好きで好きで堪らないんだって、そんな風に笑うからさ!!だから僕はそんな君が――」
ああ、やっと分かった気がする。僕自身、彼女の笑顔に何故あんなにも惹かれていたのか。どうして彼女の笑顔だけがあんなにも美しく思えたのか。その答えは、自分でも驚くくらいに単純で、だからこそ最初から気が付かないフリをしてたんだ、僕。
「――羨ましかった。羨ましかったんだよ……」
僕は、何もない人間だ。何にもなれない、何の背景もない、ただ斜に構えて世の中を皮肉ることしか出来ない、何にも熱中することが出来ないつまらない人間だ。
だから、本当は心の何処かで、そういうものをずっと探していた。人生を捧げてもいいと思えるくらいの、僕にとって大切でかけがえのない何かを。
それを持っている彼女が、持っていないと浮かべられない笑顔を湛えた彼女のことが、羨ましくて仕方がなかったんだ。
「羨ましいって……そんなこと……」
彼女は明らかに動揺していた。そりゃそうだ。殆ど初対面の、ただのクラスメイトでしかないこんな男に、そんなことを言われたのなら誰だって動揺する。
でも彼女の動揺は、多分それだけが理由じゃない。もっと深いところ、心の芯の部分を揺さぶられていて、けれどそれを認め出しまえば、余計に目の前の現実を受け入れる痛みが増してしまうから。だから彼女は、自分に嘘を吐いている。それを分かった上で、僕はある種彼女にとって一番残酷であろう言葉を紡ぐんだ。でもそうしなくちゃ、本当の意味で彼女が心から笑えることが、もう二度となくなるような気がしたから。
「君には、否定して欲しくないんだよ……。走ることそのものが、心の底から好きだって気持ちをさ……」
「やめてよ!あたしは……っ!」
ぎり、と彼女の奥歯が鳴った。鳴ったような、気がした。それでも否定する言葉を続けることはなかった。彼女は何かを叫ぼうとして、でも言葉が出てこないのか息を詰まらせ悲痛に顔を歪ませていたんだ。
それが多分、彼女の本当の気持ち。誰にも見せることはなく、自分自身ですら見ないフリをして心の奥底にしまい込んだまま鍵をかけようとしていた本音。
だから僕は、そんな本当の彼女に向かって、1番伝えたかった言葉を、伝えなくちゃいけない言葉を紡ぐんだ。
「泣いたって……いいじゃんか。辛いなら、泣いたって、さ」
瞬間、まるでダムの堤防が決壊するように、彼女の双眸から感情が奔流となって溢れ出す。その場にうずくまり、左の膝を抱えて、そのまま彼女は背中を丸めて言葉にならない嗚咽を漏らす。
僕はそんな彼女の隣に少しの間を空けて、服が濡れるのも厭わずに座り込み、彼女の身体がこれ以上少しでも雨ざらしにならないように傘を差し出し、ただただ無言の時を過ごす。
不思議と、この時間に気まずさはなかった。雨足は少し、弱まっていた。
◇
「……あたしさ、走ること、大好きだった」
どれだけの時間が流れただろうか。彼女もようやく感情の昂りが収まってきたのだろう。うずくまったまま、彼女は途切れ途切れに僕へと語り始める。口を挟むのは、もう野暮だろう。黙ったまま、僕は彼女の言葉を受け入れる。
「小学校の頃さ、あたしのママ、病気で死んじゃったんだ。あたしの身体、こんなに丈夫なのにさ、ママはいっつも病気がちで……パパも忙しかったしママのこともあるから、運動会とか授業参観とか、いっつも来てくれなくてさ……。でも1回、2年生の頃だったかな……1回だけ、運動会見にきてくれたんだ」
母親の死、か。それも幼い頃にそんなことを経験しなければならないなんて、その壮絶さは僕には想像するしか出来ないことだ。
「言っとくけど、ただの昔話。同情とか、そういうのは大丈夫。とっくに乗り越えたことだからさ」
「……分かったよ」
そんな僕の心を見透かしたように彼女は言う。僕は短く返事を返して再び彼女の言葉に耳を傾ける。
「それでさ、それがすっごく嬉しくて。あたし、元々足速かったからさ、張り切って短距離走で1位取って喜んでもらいたくて。でもね、張り切りすぎちゃったのかな。あと少しでゴールってとこでコケてビリなっちゃってさ。擦りむいた膝が痛いとかよりすっごく悔しくて、人目も憚らずにわんわん泣いちゃった。……でもママはよく頑張ったね、詩音ちゃん、とっても速かったよって、そう言ってくれたの。そこからかなぁ、あたしが走ること、すごく好きになったの」
「……優しい、お母さんだったんだね」
「うん、大好きだった、ママのこと。……それでさ、6年の頃に病気でママ死んじゃって。しばらく、受け入れられなかった。でも、走ってる時だけは、その辛いことも忘れられたし、なんだかママが詩音ちゃん頑張れって、2年の運動会の時に応援してくれてたの思い出せて、ずっと傍で応援してくれてるような気がして。だから中学に上がってからも陸上部入ってさ」
部活か。中学の頃、僕は何部に入ってたっけ。確か、ただ誰にも邪魔されずに本を読んでいたいという理由だけで、文芸部に入ってたことがあった。……まあ、僕以外全員女子で、部室が事実上の女子の雑談部屋と化していたから、すぐに幽霊部員になってしまったんだけど。高校からはずっと帰宅部だ。
「そしたらさ、どうにもあたし陸上の才能あったみたいで。なんかさ、気が付いたら県の代表とかそういうのに選ばれたり、全国大会で優勝したりして」
「気が付いたらで優勝までしちゃうの、なんていうか……すごいね」
「最初の方はね、そういうのも嬉しかったよ。……でも、段々あたしが速く走れるようになればなるほど、周りがどんどんやかましくなってさ。やれ食事に気を使えだの、やれ代表選手としての自覚を持って品行方正に学校生活を送れだの。息苦しくてやってらんないっての」
才能があるというのも、良い側面ばかりではないんだなと思う。僕が何者かになりたがっていつつも、同時に何者でもない自分でいたかったのも、多分そういう責任がついて回ることが嫌だったからっていうのもあるんだろう。本は読むだけなら何の責任もついて回らないから。
「最初は、ただ好きでやってただけのことなのにね。いつの間にか義務感みたいなのに支配されるようになって、面倒くさいしがらみばっかり増えるようになって。……それでも、走ることそのものだけは、嫌いになれなかったみたい」
「……そっか」
「さっき話したみたいに、もう走れないって聞かされて、少しほっとしたのはホント。……でも、同じくらいやっぱりショックだった。だからあたし、走ることが辛くてしんどくて苦しくて痛いだけだって必死に思い込もうとしてたのかな。……ごめんね、八つ当たりに付き合わせて」
「僕の方こそ、鎖是さんのことよく知りもしないのに、好き勝手言ってごめん」
今思い返すと、我ながらよくもあんな言葉がすらすら出てきたものだ。でも、恥ずかしいとか後悔とか、そういう感情は微塵もない。胸を張って言えるかどうかまでは自信はないけど、あそこで思いを伝えていなければ、きっと彼女の虚ろな横顔が、僕の胸の中にしこりとなって、ずっと後悔していたと思うから。
「ううん、驚いたけど、嬉しかった。スポーツの世界だとさ、引退試合でもなければ終わって泣くなんてみっともない、みたいに思う人多いもん。だから泣いてもいいんだって、初めて言われた。それに、あたしがどれだけ良いスコアを出せるのかみたいな、そういう選手としてのあたしじゃなくて、走ること自体が大好きなあたしを見てくれたの、今までママとキミだけだったから、さ。……だから、ありがとうね」
そう言って彼女はゆっくりと上体を起こし、泣き腫らして真っ赤になった目で僕を真っ直ぐと見据え、何処か照れ臭そうにはにかんでみせる。
それは彼女が走っていた時の美しいまでの笑顔でもなく、勿論あの虚ろを隠す為の仮面のようなぎこちない笑顔でもない。
鎖是詩音という等身大の女の子の、ただただ純朴で年相応の笑顔だった。そんな風に、僕には映った。
僕が彼女にとってひとりの人間として認められたような気がして、それがなんだか嬉しくて、僕も釣られるように微笑んだ。
「なんか 、いっぱい泣いたら喉乾いちゃった。……ちょーっと厚かましいお願いなんだけどさ、なんだかんだまだ松葉杖使って歩くの、あんまし慣れてなくって。自販機で飲み物、買ってきて欲しいなー……なんて。ダメ?」
その程度、勿論だよと答えて立ち上がろうとした矢先、そういえばと僕はあることを思い出して若干雨に濡れて一部が深い色になってしまったカバンを開き、〈あれ〉を取り出し彼女へ差し出す。
「これさ、たまたまさっき買ったやつ。あの時のお返し……って訳じゃないんだけど、良かったら飲んでよ、サイダー」
僕が取り出したサイダーを見て、一瞬目を丸くさせてから、彼女はくすりと笑っていう。
「なんていうか、律儀だね、キミ。でもありがと。……あたしさ、部活に行く前にこのサイダー飲むのがルーティンだったんだ」
「ルーティン?」
「そ。炭酸自体は筋肉の疲労回復に効果があるんだけど、こういうのは殆ど糖分の塊だからさ。サイダーとかコーラなんて、アスリートが飲むもんじゃないってコーチがよく言ってたの。でもなんでもかんでもタイム縮める為にはいはい従うの、なんていうか癪でさー。だからあたしなりの……反抗心的な?」
「……じゃあもしかしてなんだけど、鎖是さんって別にサイダー自体はそこまで好きじゃなかったりする?」
「え?うーん……特に意識したことないけど、どっちかっていうとミルクティーとかの方が好きかも」
なんだそりゃ。じゃあ僕は彼女がさして好きでもないサイダーを通して彼女に思いを馳せ、その上僕自身は嫌いなサイダーをわざわざ買ってしまったということか。なんだかどうにも、気の抜ける話だ。
……言っておくけど、炭酸にかけた訳じゃないからな。
「でもキミ、わざわざサイダー買ってるってことは炭酸好きなんでしょ?」
「……ああ、うん。まあ、ね」
今度は僕が嘘吐きになってしまった。まさか本人を前にして、君あの時貰った飲みかけのサイダーを思い出して同じものを買ってしまっただなんて、幾らなんでもそれを告白するのはあまりにも恥ずかしい。
なんてことを思っている間に、彼女はプルトップを開けてこくり、こくりとサイダーを半分ほど飲んでいた。
「……そうだ。さっきキミの言葉のおかげでさ、自分の中で心の整理もついて、あたし新しい目標ができたんだ。聞いてくれる?」
ひと息付き、唐突に彼女は改まって僕へと問う。
こくり、と頷き、僕は彼女の言葉を促した。
「あたしね、リハビリ頑張るよ。お医者さんは走れるようになる可能性は低いって言ってたけど、あたし絶対諦めない。何年かかっても、いつか必ずまた走れるようになりたいから。もちろん選手としてはもう無理だろうし、あたしももううんざりだから、全然速くなくったっていい。10mとか20mくらいしか走れなくてもいい。だけど必ず、また走れるようになってみせるよ」
そこまでを語り、彼女はまた照れ臭そうな笑顔を浮かべて、少し恥ずかしそうに言葉を続ける。
「ここからは、キミへのお願い。もしあたしがまた走れるようになったらさ。その姿……キミに、また見て欲しいんだ」
思いもよらない言葉だった。まさか、彼女の方から走る姿をまた見て欲しいだなんて、そんな風に請われるだなんて。
でも、断る理由なんて何処にもない。あるはずもない。
「……もちろん。いつだって、待ってる。何年でも、何十年でも」
未来がどうなるのかなんて、きっと誰にも分からない。けれどこれだけは確信できる。この日の約束を決して後悔することだけは絶対にないのだと。
「ふふふ、ありがと。じゃあこれ。約束の印」
そう言って彼女は僕に何かを差し出した。反射的に受け取り、僕はそれが何かを確かめる。
――サイダーだ。プルトップの開かれた160mlのサイダー。僕がさっき自販機で買ったんだ。疑いようもない。
「え、だってこれ……」
「あたしがキミにあげたの、飲みかけのやつだもん。ならお返しに貰うのも半分が道理じゃない?」
それは少しばかり、屁理屈が過ぎるんじゃないだろうか。でも、彼女が飲みかけのサイダーをあの日のようにもう一度僕に渡してきたことの意図はわかる。
このサイダーを、この味を、ふたりで同じものを共有することで、それを誓いの印にしたいのだ。
なら、断れるはずもないじゃないか。
「……わかったよ。いつまでも、僕は君を待っている。このサイダーに誓って」
そうして僕はサイダーの缶に口を付ける。
瞬間、口内に流れ込んできたのはサイダーだ。疑う余地もない。すぐさま甘味料の甘さが口の中に広がり、遅れて弾けるような炭酸の刺激が喉奥を刺す。
あの日に飲んだものと全く同じ、僕が嫌いな、痛くて、曖昧で、矛盾を孕んだサイダーそのものの味。
やっぱり僕は、サイダーは苦手だ。
でも、悪くない。初めて、そう思えた。
サイダーの味 霜月遠一 @november11
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