第2章:空気の真実、動き出す影

クラウンゾーンの眩い光と、初めて触れた生命力のような空気は幻のように遠ざかり、レインは再びディープゾーン特有の薄暗く息詰まる日常へと引き戻されていた。上層から強引に突破した第3ゲートの周辺は、すでに警備が強化され、不穏な空気が漂っている。レインは人目を避け、監視の目を掻い潜りながら、慣れ親しんだ下層への道を急いだ。 中層、そして下層へと降りるにつれ、空気は目に見えて重くなり、再びあの鈍い鉄錆の味が舌にまとわりつき始める。上層で感じた身体の軽やかさは消え失せ、代わりに、鉛を引きずるような疲労感と、能力を使ったことによる深い倦怠感が全身を襲っていた。まるで、体内のエネルギーをごっそりと抜き取られたような、奇妙な空虚感。 (あの娘は…アリアは、大丈夫だっただろうか…) 脳裏に、彼女の苦しむ姿と、自分の息吹を受け止めた瞬間の驚きと安堵の入り混じったアクアマリンの瞳が蘇る。そして、最後に交わした強い意志の眼差し。ポケットの中で、彼女から受け取った指輪型の通信デバイスにそっと触れる。ひんやりとした感触。あれが夢ではなかった証。そして、新たな危険な道への入り口。 (長官の娘…一体、何を考えている? 利用するつもりか? それとも…あの言葉は本心だったのか…?) 警戒心は強い。だが、同時に、奇妙な高揚感と、これまで感じたことのない温かい感情が胸の奥で燻っていた。自分のこの忌まわしい力が、初めて誰かの役に立ったのかもしれない。「希望」を与えたのかもしれない。その事実は、戸惑いと共に、抗いがたい引力をもってレインの心を揺さぶっていた。 錆とカビの匂いが充満する狭い通路を抜け、ようやく自分の居住カプセルにたどり着く。最小限の居住スペース。継ぎ接ぎだらけの壁、ちらつく蛍光灯。埃っぽい寝台。プロローグで見た悪夢と変わらない、息の詰まる「日常」の風景。 レインは汚れた上着を床に叩きつけると、まず首筋に手をやった。タグブロッカーは、クラウンゾーン侵入時の酷使で完全に機能を停止している。それを取り外し、壁の小さな鏡で自分の首筋を確認する。冷たい金属プレート、『呼吸タグ』。そこに淡く表示された数字が、冷徹に現実を告げていた。 【今月の割当残量:38.72%】 上層への強行突破と、アリアへの「呼気譲渡」で、予想以上にリソースを消費していた。生きるためには、また危険な仕事を探さなければならない。それが、この階層での現実。溜め息をつき、予備の古びたタグブロッカーを装着する。気休めに過ぎないが、絶えず感じる監視の息苦しさが、ほんの少しだけ和らぐ気がした。 どさりと寝台に倒れ込む。身体が鉛のように重い。目を閉じると、七年前の記憶の断片が、ノイズのようにちらつく。青白い光、薬品の匂い、痛み、そして、冷たい目をした銀髪の男――ノックス。アリアと接触したことで、封印されていた記憶の蓋が、少しずつ開き始めているのかもしれない。 (俺は、一体…何なんだ…?) 答えの出ない問いが、重く頭に響く。力の正体、自分の過去、そしてアリアという存在。全てが霧に包まれている。 コンコン、と無遠慮なノックの音。扉の向こうから、聞き慣れた声がした。 「よぉ、坊主! 生きてるかー? 随分とご機嫌斜めじゃねえか」 ルナだ。ドアを開けると、赤い髪を無造作に束ねた彼女が、ニヤリと片方の口角を上げて立っていた。その悪戯っぽい瞳の奥が、鋭くレインの様子を探っている。 「…何の用だ」レインは低く応じ、彼女を中に入れずにドアの隙間から応対する。今の消耗した状態で、彼女の鋭い勘に何かを悟られたくなかった。 「つれないねぇ。ま、その仏頂面はいつものことか」ルナは肩をすくめ、レインの顔色をじろりと見た。「お使いは無事済んだんだろうな? 例のブツは届けただろうな? 報酬はちゃんと振り込まれてたぜ」 「ああ、問題なく」レインは頷く。「あんたの取り分は後で渡す」 「そりゃ結構。にしちゃあ、顔色がひでえぞ。それに、何だか妙な匂いがするな…。上層の香水の匂いか? まさかとは思うが、クラウンゾーンで何か厄介事に首でも突っ込んだのか? 例えば、そうだな…どっかの深窓の令嬢でも助けちまったとか?」 ルナが鎌をかけるように、しかし核心を突くような言葉を投げかける。レインは内心の動揺を悟られまいと、無表情を装った。 「…余計な世話だ。少し手間取っただけだ。警備が厳重だった」 「ふーん?」ルナは明らかに何かを疑う目を向けたが、それ以上は追求せず、懐から小さなデータチップを取り出した。「ま、いいや。それより、こっちの話だ。お前さんに、新しい仕事の話を持ってきた。今度は少し骨がありそうだぜ? ディープゾーンの更に奥…『コアゾーン』の近くまで行くことになるかもしれねえ」 「コアゾーン…?」その言葉に、レインはわずかに反応した。プロローグの悪夢の舞台となった場所だ。 「ああ。例によってヤバいブツの運搬だが、報酬はいい。どうする? …と言っても、今のあんたのその顔色じゃ、無理かもしれねえな。少し休んだ方がいいんじゃねえか?」 ルナの言葉には、からかいだけでなく、わずかな気遣いが滲んでいた。彼女なりに、レインの異常な消耗を心配しているのかもしれない。 「…考えとく」レインは短く答えた。今は休むことが最優先だった。 「ま、気が向いたら連絡しな」ルナはそう言い残し、軽く手を振って去っていった。その背中を見送りながら、レインはルナの鋭さに改めて警戒心を抱くと同時に、彼女なりの不器用な気遣いに、わずかな安堵も感じていた。 一人になり、再び寝台に横たわる。ルナが去った後の静寂の中で、疲労感がどっと押し寄せてきた。意識が朦朧とし、眠りの淵へと引きずり込まれそうになる。 その時だった。 ポケットに入れていた、あの指輪型の通信デバイスが、微かな振動と共に、淡い、穏やかな青色の光を放ち始めたのだ。 秘匿モードでの着信。アリアからだった。 レインは一瞬息を呑み、跳ね起きた。心臓が早鐘を打つ。警戒心と、期待と、そして言いようのない不安が入り混じる。彼女の声を聞けば、またあの不安定な感覚が呼び覚まされるかもしれない。だが、無視することはできなかった。 意を決して、震える指でデバイスに触れる。 『…レイン? 聞こえますか? …夜分に、申し訳ありません……アリアです』 少し緊張した、しかし以前よりも落ち着きを取り戻した、凛とした声が、静かに響いた。

デバイスから響くアリアの声は、上層での凛とした態度とは少し違い、緊張と、そしてどこか切実な響きを帯びていた。レインは一瞬ためらった後、デバイスを操作し、応答した。努めて冷静に、しかし声の奥に隠しきれない安堵を滲ませながら。 「…ああ。聞こえている。…無事だったか」 『はい! あなたも…ご無事で何よりです…! すぐに連絡できず、ごめんなさい。父の監視が厳しくて…屋敷から一歩も出られなかったのです』 電話の向こうから、ほっとしたような息遣いと、申し訳なさそうな声色が伝わってくる。彼女もまた、あの後、無事ではなかったのだろう。 『あの…まずは、お礼を言わせてください。庭園では、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は…』 「…別に、礼を言われるようなことじゃない。たまたま、気が向いただけだ」レインはぶっきらぼうに遮った。感謝の言葉を受け取ることに慣れていないし、何より、彼女と深く関わることへの警戒心がまだ解けていなかった。 『…それでも、あなたは私の命の恩人ですわ』アリアはきっぱりと言った。そして、少し間を置いて、本題に入った。『実は…あの後、約束通り、少し調べてみたのです。父のデータベースへのアクセスは非常に困難でしたが…いくつか、どうしても気になる情報を見つけました』 「情報?」レインは寝台から身を起こした。彼女の真剣な声色に、ただならぬものを感じ取っていた。 『はい。これを見ていただけますか?』 デバイスのホログラム投影機能が起動し、レインの狭いカプセルの空間に、ぼんやりとした立体映像が浮かび上がった。それは、不鮮明な古い文書の断片や、見たこともない奇妙なロゴマーク、そして明らかに現代技術とは異なる設計図のようなものだった。 『まず、これは“緑地帯再生プロジェクト”という、かなり古い計画資料の断片です。表向きはドーム周辺環境の緑化計画のようですが…関連技術ファイルの奥深くに、こんな奇妙なロゴマークが記録されていました』 画面には、複雑な螺旋と幾何学模様を組み合わせたような、どこか古代文明の紋章を思わせるロゴマークが映し出される。プロローグの悪夢で感じたような、根源的な力を感じさせるデザインだった。 『見たことがありません…。関連文書の大半が最高機密扱いで、ファイルリストも…ほとんどが黒く塗りつぶされていました』ホログラムに黒塗りのリストが表示される。『でも、そのリストの中に…これだけが、かろうじて読み取れたのです』 画面が切り替わり、一つの単語がクローズアップされた。 『“自然回帰派”…この名前だけが。父はこの組織の名を聞くだけで、とても不機嫌になります。反体制的な組織なのかもしれません…』アリアの声に、わずかな興奮と不安が混じる。『さらに、削除される直前の破損したキャッシュデータの中に、このようなものも見つけました…』 今度は、石版か何かに描かれたような、不鮮明な設計図らしきものの断片が映し出された。有機的で、流れるような複雑な線と記号で構成されている。隅には、あの奇妙なロゴマークと同じものが小さく刻まれていた。 『この設計図…断片的ですが、解析を試みたところ、異常なエネルギーパターンを示しています。まるで…生きているかのように…』アリアの声が熱を帯びる。『そして…レイン、驚かないでください。このエネルギーパターン、先日あなたから感じた、あの不思議な息吹…あなたの呼気に含まれていたエネルギーと、驚くほど似ているのです…! まるで、同じ源から発せられているかのように…』 レインは息を呑んだ。自分の持つ力の源が、こんな古代の遺物と繋がっている? 自然回帰派? 設計図? そして、彼女が言う「生きているようなエネルギー」とは? 七年前の光、マーカス医師の言葉、そして自分の肺に宿る未知のエネルギー。バラバラだった点が、少しずつ繋がり始めているような気がした。だが、それは同時に、自分がとてつもなく危険な秘密に触れてしまったことを意味していた。 『父は、管理庁は一体、何を隠しているのでしょうか…? ドームの外の世界は、本当に死の世界なのでしょうか? それとも…』アリアの声に、焦りと知的好奇心、そして切実な願いが滲む。『…先日、改めて医師から宣告されました。私の肺に残された時間は、もうあまり長くないかもしれない、と…』 彼女の声が微かに震え、痛々しいほどの切実さが伝わってきた。 『最高の空気が保証されたこの場所にいても、私の肺はいつも何かを拒絶するように苦しくて…まるで、このドームそのものが、私に息をすることを許してくれないみたいに…』 レインは、彼女の言葉に、かつて手術台の上で感じた窒息の恐怖と孤独感を、鮮明に思い出していた。いる場所は違っても、彼女もまた、見えない檻の中でもがき、本当の意味では息ができないと感じている。 『だから、知りたいのです。死ぬ前に、この世界の本当の姿を。父が隠している秘密を。そして、もし可能なら…この息苦しい運命を変えたいのです。私はもう、何も知らないまま、誰かに管理された息苦しい世界の中で、ただ緩やかに死んでいくなんて、絶対に嫌!』 彼女の声は、次第に力を増し、最後は叫びに近くなっていた。 『先日、父のデータベースで、母の名前も見つけました。母も、何かドームの秘密…この設計図や、『外』の世界と関わっていたのかもしれません。父は母の死について多くを語りませんが…それも何か関係があるのではと…。私は、母が何を追い求めていたのかも知りたいのです』 『レイン…あなたとなら、それができるかもしれない。あなたのあの不思議な力は、何か特別なものだと感じます。それに、あなたもまた、このドームに何か疑問を抱いているのではないですか? あの時、私を助けてくれたあなたの瞳には、深い悲しみと、そして現状を変えたいという強い意志が見えた気がします』 彼女の言葉、その魂からの叫びは、雷のように、レインの心の奥底に突き刺さった。 理不尽への反発。現状を壊したい衝動。管理された偽りの平和への嫌悪。彼自身が、ずっと独りで抱え続けてきたものと、全く同じ種類の熱が、そこにはあった。彼女の中に、自分と同じ魂の叫びを聞いた気がしたのだ。 危険だ、という理性の声は、もう彼の耳には届かなかった。目の前の謎と、電話の向こうから伝わる彼女の切羽詰まった声、あの諦めを知らない強い瞳が、彼の全ての躊躇いを吹き飛ばしていた。 この少女となら、何かを変えられるかもしれない。自分の過去の謎も、解き明かせるかもしれない。 (危険だと分かっている。それでも、彼女と一緒に行きたいと、俺の魂が、この肺が、強く叫んでいる…!) 「…確かめるしかない、か。俺たちが吸ってる、この作られた空気の真実を」 レインは、静かに、しかし確かな決意を込めて応えた。思わず、言葉が漏れた。彼女の魂の叫びに引きずり出されるように。 『! レイン…!』アリアの息を呑む音が聞こえた。そして、心からの感謝と、歓喜に打ち震える声が続いた。『ありがとう…! 本当にありがとう、レイン…! あなたなら、そう言ってくださると信じていました…!』 その声の響きに、レインの胸にも、これまで感じたことのない温かいものが広がっていく。 「…俺も、知りたいことがある。七年前の、俺自身のことも含めてな。その『自然回帰派』とやらが、何か手がかりを持っているかもしれん。外へのルートを探す必要があるな」 『はい! 協力して、必ず見つけましょう! 近いうちに、必ずまた連絡します。詳しい計画を立てましょう。…それまで、どうか、どうかご無事でいてください。あなたがいなければ、私が見つけたこの手掛かりも、私のこの決意も、何もかも、意味がないのですから…!』 アリアの言葉には、単なる協力者に対して以上の、強い想いが込められているように感じられた。レインは少し戸惑いながらも、その想いを真正面から受け止めた。ホログラムの光も消え、カプセルは元の薄暗い静寂に戻った。だが、レインの心の中は、もはや以前の彼ではなかった。 窓の外の鈍色に濁ったドームの天井を見上げる。 空気の真実。ドームの秘密。自然回帰派。古代の設計図。アリアの限られた時間。そして、自分の力の謎。

アリアが見つけた情報、特に古代の設計図と自分の力のエネルギーパターンが似ているという事実は、七年前の悪夢と分かち難く結びついていた。あの忌まわしい実験、自分に施された処置。その核心に触れるためには、もはや憶測だけでは足りない。

(そうだ…マーカス医師なら、何かを知っているはずだ。七年前のこと、俺の身体のこと…あの穏やかな態度の裏に隠された真実を、今度こそ聞き出さなければならない)

レインは固く拳を握りしめた。アリアと共に進むためにも、そして自分自身が何者なのかを知るためにも、全ての始まりである過去と向き合う覚悟を決めなければならない。たとえそれが、どれほど重く、知りたくない事実であったとしても。彼は疲労の残る身体を無理やり起こし、ディープゾーンの奥にある古びた診療所へと、重い足取りで向かう決意を固めた。

アリアと共に、その核心に迫れるのかもしれない。彼女となら、何かを変えられるのかもしれない。そんな、熱く、危険な予感が、彼の胸を焦がしていた。

それは、凍てついた巨大な鉄の檻の中で、密やかに生まれた、か細くも確かな、新しい時代の息吹の予兆。 だが、それは同時に、より巨大で、深淵な闇へと足を踏み入れることと同義でもあった。 その気配を察知したかのように、ドーム社会の光と影の奥深くで、いくつかの強大な意思を持つ影が、静かに、そして確実に動き始めていた。 物語の歯車は、もう誰にも止められない速度で、回り始めていたのだ。

(同時刻:呼吸管理庁、中央監視センター)

呼吸管理庁、中央監視センター。巨大なメインスクリーンにはアーク全域の膨大な監視データが絶えず流れ、冷たい機械音だけが支配する無機質な空間。上級調査官ゼノ・ブレスは、執務室の硬質な椅子に深く身を沈め、その膨大な情報の奔流を無感情を装った瞳で見つめていた。だが、その硬い仮面の下で、彼の内面は静かに揺れていた。

モニターの一角には、数日前のクラウンゾーン空中庭園で記録された映像が、繰り返し再生されている。長官の娘、アリア・スカイの突然の発作、そしてそこに現れた謎の少年――フードを目深に被り、しかし隠しきれない異質な気配を放つ、レイン。彼の生体データは異常値を示し、データベース上の凍結されていたファイル、『実験体No.7』の記録と不気味なまでに符号する。そして、今も断片的に傍受される、二人の間の極秘通信の痕跡。

「やはり…間違いなかったか」ゼノは、誰に言うともなく低く呟いた。声は抑えられていたが、そこには確信と、そして避けられない運命の歯車が動き出したことへの微かな戦慄があった。「あの惨劇の生き残り…『完全適応』を超えたイレギュラー。そして、よりにもよってスカイ長官の娘。二人の邂逅は、単なる偶然ではあるまい。運命か、それとも…ノックス、貴様の差し金か…?」

彼の視線が、デスクの隅に置かれた色褪せた写真立てへと吸い寄せられる。そこには、若き日の彼と、今は亡き妻、エリスが穏やかに微笑んでいた。聡明で、理想に燃え、そして誰よりも『外』の世界との共生を信じていた科学者。だが、彼女は『自然回帰派』の中心メンバーとして、管理庁が進めていた非人道的な『越境者実験』の闇を告発しようとし…そして、体制の、いや、理想を歪めた者たちの手によって葬られた。その真相を、ゼノは知っていた。知りながら、ドームの秩序という『大義』のために、そしてエリスを失った絶望を繰り返さないために、彼は真実に蓋をし、心を凍らせる道を選んだのだ。

(…すまない、エリス)ゼノは心の中で、写真の妻に語りかけた。(君が信じた輝かしい未来を、私は守れなかった。この息詰まる檻の中で、君の死の真相からさえ目を背け、心を殺して生き永らえている。君なら…こんな私を、どう思うだろうか…?)

再びモニターに映るレインとアリアの姿に視線を戻す。若く、脆く、しかしその瞳の奥には、かつてのエリスが宿していたのと同じ、真実を渇望する強い光がある。そして、レインの持つ異質な力――それは、エリスが最期に追い求めていた『未知のエネルギーとの共鳴』…ドームのさらに奥深く、あるいは外の世界に存在するかもしれない『コア』と呼ばれる根源的な力との接続可能性を示唆しているのかもしれない。アリアが見つけたという、あの奇妙なロゴマークも、エリスが研究資料の中に書き残していたものと酷似している。

(この二人が、もしや君が夢見た希望を…我々が諦めた未来を手繰り寄せる可能性があるというなら…私は…このまま、体制の番犬として彼らを見過ごすべきなのか…?)ゼノの握りしめた拳が、微かに震える。(いや、もし彼らを放置すれば、ノックスに利用されるだけかもしれん…! あの男…かつて理想を語り合った友でありながら、狂気に歪み、エリスをも死に追いやった元凶の一人…あの男の邪悪な野望だけは、絶対に阻止しなければならない…エリスのためにも、そして、この歪んだ世界に、これ以上の犠牲を出さないためにも!)

長年封印してきた葛藤と復讐の炎が、再び胸の奥で激しく燃え上がる。妻の遺志。現在の立場。そして、確実に動き出しているノックスという脅威。ゼノは感傷を振り払うように、鋭く息を吐いた。必要なのは冷徹な判断と行動のみ。だが、その行動は必ずしも体制に従うことだけではないはずだ。エリスなら、きっと彼らに賭けたはずだ。そして、それが結果的にノックスを討ち、真実に近づく唯一の道なのかもしれない。

意を決し、ゼノはインカムのスイッチを入れた。声は冷静さを保っていたが、その奥には確かな決意が滲んでいた。 「対象『レイン』及び『アリア・スカイ』の監視レベルをステージ3へ移行。直接介入は厳禁とする。行動パターン、接触者、通信内容の傍受を最優先。全ての情報を収集し、逐一私に報告せよ。ただし…」ゼノは一瞬だけ躊躇い、しかし迷いを振り切るように言葉を続けた。「…対象に過度の危険が迫った場合、あるいは対象が『特定の境界』を越えようとした場合に限り、限定的な状況介入を許可する。だが、細心の注意を払え。あくまで『事故』あるいは『偶然』を装うこと。我々の関与を決して悟られるな。彼らが自らの意志で真実に辿り着くのを見届ける必要がある。そして、ノックスを確実に排除するために…私自身の過去への、贖罪のためにも。…いいな?」

『…はっ! 承知いたしました!』インカムの向こうで、部下の戸惑いが声に表れていた。異例中の異例の指示だ。

「それと、極秘裏に、ノックス関連の凍結ファイルを再調査しろ。特に『プロジェクト・キメラ』の詳細データだ。私の最高アクセス権限を使用する。奴が何を求め、どこで道を違え、どう歪んでしまったのか…その根源を探る。全ての情報は私に直接送れ」

通信を切ると、執務室に再び重い静寂が戻った。ゼノは、スクリーンに映るレインとアリアの動きを示すマーカーを、複雑な想いを秘めた瞳でじっと見つめていた。レイン、アリア、ノックス、そして亡き妻エリス。過去と未来、秩序と混沌、復讐と希望。彼の内なる天秤は、今、大きく、そして静かに傾き始めていた。彼は決めていた。妻が信じた未来を、これ以上歪んだ形で汚させるわけにはいかない、と。そのためなら、自らが闇に手を染めることも厭わない。全ては、来るべき時に、正しい選択をするための、布石なのだ。彼はそう自分に言い聞かせ、心を再び硬い氷の殻で覆った。だが、その殻の下で、かつての理想の火が、復讐の炎と共に、再び微かに、しかし確実に燃え始めているのを、彼自身も気づいていたのかもしれない。

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