第3章:過去の亡霊
境界越えの仕事の疲労が、鉛のように身体にまとわりつく。数日前の任務の残滓。だが、それ以上にレインを苛むのは、アリア・スカイとの接触以来、頻度と鮮明さを増した、七年前の悪夢とフラッシュバックだった。 (あいつ、今頃どうしてるんだ…? 連絡は来るのか…? いや、来ない方がいいのかも…俺に関わると、あいつまで危険に…) 思考がまとまらない。頭の芯が重く、軽い頭痛が続く。これも、あの「呼気譲渡」の代償か? それとも、この忌まわしい力が、俺の精神を蝕み始めているのか? 強い眩暈に襲われ、壁に手をつく。一瞬、視界が白く点滅し、ノイズのように記憶が掠める。(…青白い光…消毒液…悲鳴…実験体…ナンバー…セブン…『器』…) 「…っ!」歯を食いしばり、悪夢の残滓を振り払う。この力の正体、そして俺自身の過去を知る必要がある。答えを知っているかもしれない人物――マーカス医師。彼の穏やかな態度の裏に隠された秘密を、問い質すために。レインは重い足取りで、ディープゾーンの奥まった一角にある古びた診療所へと向かった。
ディープゾーン第12区画。「マーカス総合診療所」の掠れた看板。錆びたドアを押し開けると、カラン、と古風なベルが鳴る。狭く薄暗いが清潔な待合室。消毒液の匂い。 「先生、正直に話してほしい」 レインは診察室に入るなり、ドアを背にして切り出した。瞳には迷いと、しかし後戻りできない決意が宿る。 「俺の過去に何があった? 七年前、あんたたちは俺に何をした? 『越境者実験』…『プロジェクト・キメラ』ってのは何だ? そして…あんたは、本当は何者なんだ?」 マーカスはレインの真剣な眼差しと、口にした禁断の言葉に息を呑んだ。穏やかだった表情が、驚きと、深い苦悩の色に変わる。 「…どこで、その言葉を…? いや、もう問題ではないか…」 「そんなことはどうでもいい!」レインは声を荒げた。「教えてくれ! 俺は知る権利があるはずだ! あんたたちが俺から奪ったものの代わりに!」 マーカスは深く重いため息をつくと、診察椅子に力なく腰を下ろした。 「…分かった、話そう。君には、知る権利がある。そして、私も…もうこれ以上、真実から目を背けて生きていくことに耐えられないのかもしれん」 彼の告白は衝撃的だった。彼はかつて管理庁の研究者であり、非公式に進められた『越境者実験』――コードネーム『プロジェクト・キメラ』――の主要メンバーだったというのだ。 「君は…我々が**『実験体No.7』と呼んでいた存在だ。あの非人道的な実験の中で…」 レインの脳裏に、断片的な記憶が蘇る。焦った大人たちの声。『こいつしかいないのだ! 我々の悲願…いや、復讐を…!』。冷たい処置台。皮膚を貫く器具の感触。そして、胸の中心で炸裂した激痛と、全てを飲み込むような青白い光…! 『なんだ、この光は!? 計測不能だと!?』『これは…『変容』だ! 器になるというのか!?』 マーカスは苦渋に顔を歪め、続けた。「実験の目的は…表向きは、外部環境に適応できる新たな人類の可能性を探る、というものだった。だが実態は…管理庁上層部と…ある男――ノックスの狂気に歪められ、非人道的な人体実験へと変貌していった。多くの孤児が命を落とした…。私も最初は純粋な理想を持っていた。だが、次第にその狂気に気づき、自分が犯している罪の重さに耐えきれなくなったのだよ」 「そして…君だ、レイン君。君は、唯一無二の『成功例』…いや、我々の想定を超えた、『イレギュラー』として覚醒した。君のその『完全肺』は、単に環境に適応するだけではない。それは、周囲の未知のエネルギー…おそらくは、失われた古代技術、あるいは**『コア』と呼ばれる根源的なエネルギーそのものと直接『共鳴』し、それを吸収、変換、放出することさえ可能な、とてつもない可能性を秘めていた。それは希望であると同時に、個としての存在を危うくする危険な力でもあった」 マーカスの目は遠い過去を見ている。「私は、君だけは何としても守りたかった。体制や…ノックスのような狂信者の道具にさせたくなかった。だから、私はデータを偽装し、君が事故死したことにしてコアゾーンへと逃がした。そして、負担を軽減するために記憶の一部にブロックをかけたのだ。普通の少年として生きられるように…そう願ったのだ。浅はかだったかもしれんが…」 「ノックス…やはり、あいつが…」悪夢の中の、あの冷たい目をした男。 「そうだ。ノックス・アッシュ。かつての親友だった。だが彼は、実験の過程で、そして…かけがえのない存在を失ったことで、理想を見失い、歪んだ選民思想と破壊願望に取り憑かれてしまった。彼は君の力を、世界を作り変えるための『鍵』として利用しようとしている。危険すぎる…かつての友だからこそ、分かるのだ。彼の狂気の深さが」 マーカスの告白は、新たな疑問と、彼自身への複雑な感情を生じさせた。恩人なのか? 元凶の一人なのか? 「先生…あんたは…」レインは言葉を続けられない。怒りと、感謝と、疑念が渦巻く。 「…私を憎んでもいい。軽蔑してもいい」マーカスは静かに言った。「私にはその資格がある。だが、これだけは信じてほしい。今の私は、ただの一人の医師として君の未来を案じている。そして、君がその力を正しい道に使うことを…君自身の意志で未来を選べるように、できる限りの助けになりたい。それが、私にできる唯一の償いなのだから」 二人の間に、重く複雑な空気が流れた。マーカスはまだ何かを隠している気がした。だが、今のレインには、それ以上問い詰める言葉もなかった。
*
「ラストブレス」のカウンター席で、レインは合成コーヒーの苦い液体を喉に流し込んでいた。マーカス医師の言葉が頭から離れない。『未知の可能性と危険性』『存在そのものを変質させる』。 「よぉ、また浮かない顔してんな。今度はどんな厄介ごとに首突っ込んだんだ?」ルナが呆れたように声をかけてきた。 「…別に」 「ふーん? ま、どうせロクなことじゃねえんだろ」ルナは肩をすくめた。「ところでよ、レイン。ちょっと聞きたいことがあるんだけどな」声のトーンが変わる。「お前さん、自分の過去のこと、どれくらい覚えてる? 特に…10歳くらいの頃のことだ」 「…なんだよ、藪から棒に」レインは警戒した。 「いや、ちょいと調べもんしてたら、面白いモン見つけちまってな」ルナは声を潜め、小型データパッドをレインの前に置いた。古い、破損した管理庁の内部文書らしきもの。タイトルは『非公式・被験体リスト:プロジェクト・キメラ(凍結)』。「古いアーカイブのゴミ溜めからサルベージしたデータだ。ほとんど暗号化されてるか破損してるんだが…このリストに、妙な記述があってな。『越境者実験』…外の汚染環境に適応できる人間を無理やり作り出そうとした、非道な実験だ。その過程で、コアゾーンの孤児たちが…」ルナの声が一瞬、苦々しく歪む。「…まあいい。このリストだ」 ルナはある項目を拡大表示した。 【被験体コード:Exp-007】 【通称:レイン】 【年齢(当時):10歳】 【処置内容:キメラ型肺組織移植(プロトタイプ)-未知のエネルギー触媒との強制共鳴処置】 【ステータス:異常適応(制御不能?)、監視継続】 【特記事項:『コア・シグネチャー』に類似した強烈な生体エネルギー反応。原因不明。『完全適応』を超えた『変容』の可能性? 要精密検査。最重要監視対象】 「実験体No.7…レイン…強制共鳴処置…」レインはその文字を見て息を呑んだ。全身の血が凍りつく感覚。悪夢と記録が繋がる。俺は、何かと無理やり繋げられたのか? 「おい、レイン、これ…お前のことじゃねえのか?」ルナが真剣な目で問い詰める。「『越境者実験』って噂は聞いてたが…まさか、記録が残ってたとはな。しかも、お前の処置内容…普通じゃねえ。お前、一体何者なんだ?」ルナの目には、怒りと共に、わずかな恐怖と…そして、自分自身に向けられているかのような疑念の色が浮かんでいた。 「…俺は…俺だ」レインは絞り出すように答えるのが精一杯だった。頭の中が混乱し、過去と現在が混ざり合う。俺は作られた存在なのか? 道具なのか? ルナはレインの動揺を見て、それ以上は追求しなかった。ただ、何かを深く考え込むように黙っていた。彼女自身もまた、この「実験」という言葉に、消し去ることのできない個人的な何かを感じているようだった。 「…まあ、何があったにしろ、お前さんはお前さんだろ」ルナはぶっきらぼうに、しかしどこか優しさを込めて言った。「変なこと考えんじゃねえぞ」 重い沈黙が、二人を包んだ。
*
その夜、レインは再び悪夢にうなされた。以前よりもさらに鮮明で、具体的だった。 冷たい処置台。並べられた子供たち。怯えた目、涙、諦め。白衣の大人たちが無感情に注射を打ち、器具を取り付けていく。子供たちの短い悲鳴。 (やめろ…!)声にならない叫び。 視界の隅に、銀髪の、異様に冷たい目をした男が見える。ノックスだ。若い頃の。歪んだ狂信の光。 そして、もう一人。白衣を着た、知的で、しかし悲しげな瞳をした女性。子供たちに同情的な視線を向け、何かを躊躇っている。アリアの母親、ダイアナ・スカイ。 『…No.7のバイタルは安定。だが、他は…拒絶反応が強すぎる…!』 『構わん。失敗作は処分しろ。時間がない。これは必要な犠牲だ。より大きな目的のためにな』ノックスらしき冷たい声。焦りのようなものも感じられた。 『そんな…! 彼らは物じゃない! 人間よ! 私たちが目指したのは、こんなことでは…!』ダイアナの悲痛な声。 『感傷は無用だ、ダイアナ。君も、夫であるスカイのために協力すると決めたはずだ! 彼が望む安定のためにも、我々が『進化』を管理せねばならんのだ!』 (スカイ…長官も関わっていたのか…!?) 『私は…! 私はただ、外の世界で人々が生きられる可能性を探りたかっただけ…! こんな非道なことのために、協力したわけでは…!』ダイアナの声が震える。 混乱する意識の中、胸の中心から、再び制御不能な青白い光が溢れ出す。激痛と共に、周囲のエネルギーが渦を巻くように流れ込んでくる感覚。これが『完全肺』の覚醒? 暴走? 周囲の機器が火花を散らし、大人たちが恐慌状態に陥る。 (駄目だ…! 止まれ…! 暴走する…!) 必死に意識を集中させようとした瞬間、傍らにいたダイアナが、彼に何か小さな、輝く石のようなもの(コアの欠片か、制御装置か?)をそっと押し当てたような気がした。温かく、穏やかなエネルギーが流れ込み、荒れ狂う光がわずかに鎮まる。そして、彼女が悲しげな声で囁いた。 『…ごめんなさい…あなただけでも…生きて…そして、いつか真実を…この力を、正しい道へ…。恐れないで。あなたは独りではない…この石が、あなたを導くでしょう…』 そこで、悪夢は途切れた。「うわあああああっ!」 レインは絶叫と共に跳ね起きた。全身汗びっしょりで、呼吸は激しく乱れている。 実験体No.7。ノックス。ダイアナ・スカイ。俺の過去には、一体何があった? ダイアナが託そうとした「石」とは? 彼女は、俺を助けようとしてくれたのか? 謎は深まるばかりだった。そして、自分の持つこの力の本当の意味と、それに伴う責任の重さを、レインは改めて痛感していた。これは単なる特殊能力ではない。多くの犠牲と、陰謀と、誰かの願いが絡み合った、重い宿命なのだ。
*
(同時刻:ドームの暗部、ノックスの隠れ家)
ノックスは培養カプセルの不気味な緑色の光に照らされながら、通信モニターの前に立っていた。モニターには忠実な部下の顔。 「…例の少年、『レイン』の監視状況は?」ノックスは冷たく尋ねた。顔には焦燥の色も浮かんでいる。 『はっ。依然としてディープゾーンに潜伏中。最近、医師マーカスや情報屋ルナと接触。また、管理庁のゼノも対象をマークしている動きがあります』 「ゼノか…あの裏切り者が」ノックスは忌々しげに呟いた。「奴も、あの少年の価値に気づいたか。あるいは別の目的か…エリスの亡霊にでも取り憑かれているのか…」 彼は少しの間考え込み、やがて決断したように言った。「…いいだろう。監視をさらに強化しろ。ゼノの動きにも注意を払え。そして…準備が整い次第、あの少年を『回収』する。多少強引な手段も許可する。ただし、決して殺すな。生きたまま我々の元へ連れてくる必要がある。彼は、私の計画…いや、この世界を『正しく』再生するための、最重要因子なのだからな。彼の『完全肺』は、我々が再び手にするであろう、あの失われた『コア』の力を制御するために不可欠なのだ」 『御意』 通信が切れる。ノックスはモニターに映るレインの不鮮明な監視映像を、爬虫類のような冷たい瞳で、しかしどこか歪んだ期待を込めて見つめながら、薄く歪んだ笑みを浮かべた。「待っているぞ、レイン君…私の『息子』よ。君が、自らの意志で、私の元へ来る日をな…この歪んだ世界から、君を解放してやろう…」 その言葉は、暗い拠点の中に不気味に響き渡った。過去の亡霊たちが、現在へとその触手を伸ばし始めていた。
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