呼吸域の檻
@kasumion
第1章:鉄錆の追跡者
けたたましい警告音と、駆動音。背後から迫る赤黒い光が、錆びついたパイプラインの陰影を不気味に揺らす。 「――ちっ!」 レインは舌打ちし、狭く入り組んだ足場から跳躍した。数メートル下の、さらに不安定な通路へ着地。衝撃で軋む金属音。肺が酸素を渇望するが、吸い込む空気はいつものように鈍く、不快な鉄錆の味がした。カビと湿気の匂い。ドームシティ「アーク」の最底辺、ディープゾーン。澱んだ空気と鉛色の閉塞感だけが、彼の現実だった。
『警告! 対象捕捉! 攻撃モードへ移行!』 無機質な合成音声。警備ドローンだ。執拗な追跡。なぜ俺を? いや、理由は分かっている。この『肺』のせいか。それとも、七年前の悪夢が、今も俺を追いかけてくるのか。
(…眩暈がする。あの日の、焼けるような青白い光。消毒液と濃密な血の匂い。骨がきしむ音。実験体、ナンバーセブン、器――!) 一瞬、脳裏を灼く鮮烈な記憶(フラッシュバック)に思考が掻き乱され、足がもつれる。今は考えるな! ドローンのパルス弾がすぐ脇の壁を掠め、火花を散らした。
「――!」 声にならない叫びを飲み込み、再び身を翻す。異常な効率で酸素を取り込むこの肺は、常人離れした身体能力をもたらす。だが、それは祝福ではない。制御しきれない力は、常に暴走の危険と、鉛のような疲労感を伴う呪いだ。 首筋のプレートに意識を向ける。『呼吸タグ』。脳内に投影される冷徹な数字。 【今月の割当残量:45.15%】 逃げるだけで、生きるためのリソースが削られていく。このドームでは、息をすること自体に許しがいるのだ。
壁を蹴り、垂直に近いパイプを駆け上がる。ドローンが追従してくる。見上げるのは、継ぎ接ぎだらけの、どこまでも続く鉛色の天井だけ。壁一枚隔てた先にあるという『本当の空』など、神話の風景画だ。
(…いつか必ず…この息苦しい檻も、歪んだシステムも、全部…!) 込み上げる衝動。だが、今はただ、生き延びる。それだけだ。
死角となる通路へ飛び込み、急減速。ドローンが突っ込んでくる瞬間、足元の緩んだ鉄板を蹴り上げ、目くらましにする。その隙に、さらに複雑な構造物の影へと滑り込んだ。気配を殺し、呼吸を最小限に抑える。頼む、通り過ぎてくれ。
ドローンの探索音が遠ざかっていく。張り詰めていた緊張がわずかに緩み、どっと疲労感が押し寄せる。冷や汗が背中を伝った。
(…母さん、父さん…あんたたちが奪われた自由な空気を、俺はこの『呪われた肺』で吸って生きている…) 苦い感情を押し殺し、深く、静かに呼吸する。まだだ。まだ、呼吸を止めるわけにはいかない。この肺が、それを許さない。
*
古びた機械油の匂い。焦げた合成コーヒーの酸っぱい香り。そして、決して消えることのない人いきれの熱気。カフェ「ラストブレス」。名前だけは詩的だが、現実はディープゾーンの吹き溜まりだ。 レインはカウンターの隅で、ぬるくなった水を舌の上で転がしていた。先ほどの逃走劇の疲労と、こびりつく悪夢の残滓で、思考が鈍く重い。胸の奥で飼いならせない何かが微かに疼き、鉄錆の味が蘇る。早くこんな場所から立ち去りたかったが、まだ『彼女』は現れない。苛立ちが募る。
「あら、随分と陰気な顔しちゃって。昨日の夜は警備ドローンにでも追いかけ回されてたのかい、レイン?」 声は、すぐ背後から聞こえた。振り向くと、カウンターに片肘をつき、ニヤニヤとこちらを見下ろす女がいた。ルナ。無造作に束ねた赤い髪が、肩で揺れている。十九歳。その瞳は、いつも悪戯っぽく輝いているが、奥には油断ならない鋭さが宿っている。この掃き溜めで生き抜いてきた「境界越え(ボーダーランナー)」の顔だ。こいつの前では、迂闊なことは言えない。
「…余計な世話だ」レインは低く応じ、視線をカウンターの傷へと落とした。追われていたことを、こいつに悟られたくはない。
「つれないねぇ。せっかく心配してやったってのに」ルナはわざとらしく唇を尖らせたが、すぐにいつもの調子に戻った。「ま、その仏頂面はいつものことか。で? 仕事の話だろ? せっかちな坊やのために、とびっきりのを持ってきたぜ」 彼女は身を乗り出し、声を潜めた。その瞬間、周囲の喧騒が少しだけ遠のいた気がした。
「その前に、一つ聞かせな。あんたのその肺…最近、また様子がおかしいんじゃないのかい?」ルナの目が、真っ直ぐにレインの胸元を探るように射抜く。「あたしも色んな『ワケあり』を見てきたけどね、あんたのは特別だ。ただ息をするためのもんじゃない。何か…そう、まるで別の生き物みたいに…何かを吸って、何かを溜め込んでるような、気味の悪い力を感じるんだよ」
レインは息を詰めた。こいつは、どこまで見抜いている? 彼の胸の奥の『力』が、ルナの言葉に呼応するように、ドクンと不穏に脈打った気がした。睨み返す彼の瞳に、警戒の色が濃くなる。
「まあ、いいや」ルナは、レインの反応を楽しむかのように肩をすくめると、あっさりと話題を変えた。「本題だ。とびっきりのヤマ。上層(クラウンゾーン)の、それも『貴族様』から直々のご指名と来た。報酬は破格の3倍。ただし…」彼女は片目を瞑り、指を三本立てる。「リスクもきっちり3倍ってとこだ」
「…内容は?」上層からの依頼。碌なことであるはずがない。下層の人間を便利な駒としか見ていない連中だ。
「運ぶのは『特殊実験用薬品X』。例によって厳重なケース入り。中身は絶対に詮索するな、だ。いつもの『触らぬ神に祟りなし』ってやつだよ」ルナは肩を竦める。「当然、クソ面倒な階層境界越えが必須になる。上層までだ。どうする? ま、お前のその『バケモノ肺』なら、他の奴よりはマシかもしれねえがな?」
「…また厄介ごとか」ため息が漏れる。だが、断る選択肢はない。生きるためには、呼吸(リソース)を得るためには、汚い仕事も危険な仕事も引き受けるしかない。それが、このディープゾーンでの現実だ。
「感謝しろってんだ、坊主」ルナはニヤリと笑い、レインの肩を軽く叩いた。「おかげで今月も、貴重な酸素カードが買えるんだろうが。ま、せいぜいドジって捕まるなよ。あたしの世話になるようなヘマはするんじゃねえぞ」
その時、壁に埋め込まれた古びたモニターが、ノイズ混じりのニュース映像を映し出した。 『…昨日未明、中層区画において、違法な肺機能強化手術を受けたとみられる、通称「肺強化者」による破壊活動が発生し…市民に複数の負傷者が出ている模様です…管理庁は、反社会的勢力によるテロ行為と断定し、断固たる措置を取ると発表…』
「肺強化者」…その言葉に、レインの表情がわずかに凍る。画面に映る破壊の跡と、恐怖に怯える市民の顔。自分もまた、あの実験で同じような存在に変えられたのかもしれない。ニュースは彼らを一方的に断罪するが、彼らがなぜそんな力を求め、暴走するに至ったのか。その背後にある社会の歪みと、彼らに向けられる敵意を、レインは肌で感じる気がした。 (歪んだ理想の犠牲者…あるいは、ただの破壊者か。だが、その力で他者を傷つけるなら…俺は…)
ルナはその微かな変化に気づいたようだったが、あえて何も言わず、仕事の報酬の前金と必要経費が入ったチップを手渡した。 「腕によりをかけて、せいぜい気をつけていきな。万が一、しくじってくたばっても、心配すんな。あんたが隠してるガラクタコレクションは、あたしが根こそぎ貰ってやるからよ!」
軽口に見送られ、レインはチップを掴むと、無言で店を出た。 外の淀んだ空気を深く吸い込む。やはり、微かに鉄錆の味がした。短く、誰に言うでもなく呟く。 「…やるしかない」 今日もこの息が詰まる檻の中で、俺は息をして、生き延びる。ただ、それだけのために。
*
「ラストブレス」の重いドアを押し開け、レインは再びディープゾーンの淀んだ喧騒の中へと戻った。チップの確かな重みをポケットに感じながら、足早に中層(ミドルゾーン)へと続く第8ゲートを目指す。目的地は上層(クラウンゾーン)。いつも以上に、気が重い仕事だ。
ゲートに近づくにつれ、空気の質がわずかに変わるのを感じる。鉄錆の味は薄れるが、代わりに人口過密の熱気と、どこか甘ったるい薬品のような匂いが混じり合い、頭が重くなる。ゲート前には、中層への通行許可を待つ人々の長い列が蟻の行列のように連なり、ざわめきと咳き込む音が絶えない。皆、一様に疲れた顔で、わずかでも質の良い空気を求めているのだろう。
白い制服に身を包み、鼻腔に特殊フィルターを装着した警備兵たちが、感情のない声で人々を捌いていた。彼らの冷たい視線は、列をなす下層の人間を、まるで汚物か家畜のように見ている。静かな怒りが、レインの腹の底で燻る。ポケットの中の偽造IDカードを強く握りしめた。首筋のタグブロッカーが、わずかな気休めを与えてくれる。 「ID提示! 急げ!」 無機質な声。自分の番が来た。
カードリーダーに偽造IDを差し込む。認証端末の青い光が明滅する。ドクン、ドクンと、心臓が嫌な音を立てるのが聞こえる。頼む、通ってくれ。 ピッ。 短く、乾いた電子音。ロックが解除され、前方のゲートが開いた。 安堵の息を殺し、足早にゲートをくぐる。背中に突き刺さる警備兵の視線を感じながら。
その時、隣のゲートで甲高い悲鳴が上がった。 「警告! BV値、基準以下! 拘束対象!」 鉄格子がガチャンと音を立てて降り、みすぼらしい身なりの男が地面に叩きつけられる。 「ま、待ってくれ! 子供が病気なんだ! どうしても中層の薬が…! 少しでいいんだ、頼む!」 男は必死に懇願するが、警備兵は冷たく言い放った。 「黙れ! 貴様のような『息をする価値もない』クズに、この先の空気を吸う資格などない!」 スタンロッドが振り下ろされ、男の絶望的な叫びが響く。周囲の人々は見て見ぬふりをするか、あるいは冷たい好奇の視線を向けるだけ。これが、このドームの日常。生きる価値すら、呼吸の効率(BV値)という無慈悲な数値で決められる。
「息をする価値もない、か…」 レインは吐き捨てるように呟き、唇を強く噛んだ。沸騰しそうな怒りを、奥歯で噛み砕く。今は耐えるしかない。騒ぎを起こせば、自分も捕まるだけだ。目を伏せ、足早にその場を離れた。
中層の空気は、確かに下層より酸素濃度が高い。だが、レインにとっては、逆に軽い目眩と、どこか薄っぺらい息苦しさを感じさせた。完璧に管理された清浄さ。生命が本来持つべき、混沌とした力強さが欠けているような、人工的な感覚。この感覚は、自分の『完全肺』が異常だからなのか? それとも、このドームの空気そのものが、どこか歪んでいるからなのか?
感傷に浸っている暇はない。次の関門、上層(クラウンゾーン)へと続く第3ゲートを目指す。ここは中層ゲートとは比較にならないほど警備が厳重だ。DNA認証が必須であり、偽造IDなど通用しない。 レインは人目を避け、監視カメラの死角となる薄暗い路地裏へと滑り込んだ。壁には落書きと汚れ。ゴミの腐臭が漂う。ルナから借りた最新型のシグナルジャマーを取り出す。バッテリーは数秒しか持たない。一発勝負だ。 息を止め、全神経を集中させる。デバイスを作動。キィン、と微かな高周波ノイズが発生し、空間が陽炎のように歪む。周囲の監視カメラの映像が一瞬乱れ、認証システムの端末にエラー表示が出る。コンマ数秒の隙。 レインは弾丸のように飛び出した。ゲートへと疾走。DNAスキャナーが作動するよりも早く、物理ロック部分に特殊ツールを差し込み、瞬時に破壊する。バキン!と金属が断裂する音。そのままゲートを蹴破り、強引に突破した。 背後でけたたましい侵入警報と、警備ドローンの緊急発進を知らせる鋭い駆動音が鳴り響く。だが、もう遅い。 レインは、目を焼くほどの眩い光――上層の人工太陽の光――が溢れる、別世界へと飛び出していた。
*
ゲートを抜けた瞬間、レインは思わず息を呑んだ。深く、ゆっくりと、しかし信じられないという思いで。 そこは、灰色の空と錆と汚れしか知らなかった彼にとって、全くの別世界だった。 頭上には眩い人工太陽が輝き、完璧に手入れされた芝生の緑と、色とりどりの花々が咲き誇る庭園が広がっている。空気には甘く芳しい花の香りと、雨上がりの森のような清浄な匂いが満ちていた。耳に届くのは、心地よい鳥のさえずりと、穏やかな水の音。 空気が、軽い。信じられないほどに。深く吸い込むと、身体中の細胞が歓喜するようだ。ディープゾーンで蓄積した鉛のような疲労が、霧が晴れるように和らいでいく。鉄錆の味など、微塵も感じない。 だが、あまりにも完璧すぎる。清浄すぎて、逆に人工的な、まるで巨大なガラスケースの中にいるような閉塞感を覚えてしまうのはなぜだろう。彼の『完全肺』が、この空気の奥底にある不自然さ――生命が本来持つべき混沌とした力強さの欠如――を感じ取っているのかもしれない。 (…レイン、いつか本物の空の下で、思いっきり深呼吸させてやりたいな…) 父の声が、不意に蘇る。彼らが求めていたのは、こんな偽りの楽園ではなかったはずだ。もっと荒々しく、自由で、力強い、本物の空気を。 道行く人々は、汚れ一つない上質な服を纏い、呼吸のことなど微塵も気にかける様子もなく、優雅に歩いている。手首に見える呼吸タグは、まるで宝飾品のようだ。レインのような下層の人間など、彼らの視界には端から映ってすらいない。視界の端には「高濃度酸素バー『オアシス』」のきらびやかな看板が見え、人々が酸素を嗜好品として楽しむ声が微かに聞こえる。生きるための空気が、ここでは娯楽であり、富と権力の象徴でしかない。羨望、怒り、虚しさ、そして激しい憎悪。歪んだ感情が渦巻くが、今は任務が最優先だ。この場所は、あまりにも眩しく、美しく、そして自分とはかけ離れすぎていた。
クラウンゾーンの中心部に位置する空中庭園。完璧な環境制御の下、珍しい植物や幻想的な花々が咲き乱れ、クリスタルの噴水が虹色の光を放っている。レインは庭園の隅、人目につきにくいベンチに、依頼品である重厚なアタッシュケースをそっと置いた。任務完了のシグナルを送信し、端末で報酬の振り込みを確認する。これで終わりだ。さっさとこの場を離れようと踵を返した、まさにその瞬間だった。 ピリリリリッ! ピリリリリッ! 静寂を切り裂くように、鋭い医療アラートが庭園中に鳴り響いた。 「アリア様が! また発作だわ!」 「ドクターを! 早く!」 庭園の中央、噴水のそばに人だかりができているのが見えた。侍女らしき女性たちが、ただオロオロと叫んでいる。 人垣の中心で、純白のシルクドレスを纏った少女が、胸を押さえ、肩で激しく息をしながら苦しげに喘いでいた。蒼白な顔。苦痛に歪む、しかし驚くほど整った美しい貌。その姿は痛々しく、まるで水から無理やり引き上げられた魚のようだ。そして、その大きく見開かれた瞳には、深い、底なしの絶望の色が浮かんでいた。 周囲の人々は、遠巻きに見ているだけだった。誰も彼女に触れようとしない。まるで、彼女の苦しみが穢れであるかのように。その光景が、彼女の深い孤独を、痛いほどに物語っていた。
(…関わるな。面倒事は避けろ) レインは自分に強く言い聞かせた。下層の人間が、上層の、それも明らかに高貴な身分であろう少女のトラブルに関われば、どうなるか分からない。捕まれば、今度こそ終わりだ。 だが、足が動かなかった。 少女の苦しむ姿が、七年前、冷たい手術台の上で息ができずにもがいていた自分自身の姿と、鮮明に重なった。肺が焼けるような痛み、窒息の恐怖、そして誰にも助けを求められない絶対的な孤独。あの時、もし誰か一人でも手を差し伸べてくれていたら…。彼女の瞳に宿る深い絶望の色が、レインの心の奥底に突き刺さり、過去の痛みと激しく共鳴した。 「…っ!」 気づけば、レインは人垣を掻き分けていた。周囲の驚きや訝しむ視線など、もう気にならなかった。ただ、目の前の消えかかっている命の光と、その絶望に突き動かされるように。 少女のそばへ駆け寄る。上質な香水の香りがふわりと鼻を掠めた。
「しっかりしろ!」 低い、しかし強い意志を込めた声で呼びかけながら、震える彼女の華奢な肩を力強く抱き寄せる。上質なシルクの滑らかな感触、予想以上に高い体温、そして小刻みな震え。腕の中で、彼女の命が砂時計の砂のように零れ落ちていくのを感じる。 そして――レインは、一瞬の迷いもなく、自らの唇を、苦痛に歪み、わずかに開かれた彼女の唇へと重ねた。 周囲から短い悲鳴や、「何をするの!」「下賤な者が!」といった非難の声が上がる。だが、これはキスではない。 レインは意識を集中させた。胸の奥の『完全肺』が、周囲の清浄な空気を凄まじい効率で取り込み、彼の体内で、彼自身の生命エネルギーと融合させ、異常なレベルまで浄化・凝縮していく。それは単なる酸素ではない。彼の存在の一部、魂の欠片を溶かし込んだかのような、純粋で、力強く、そしてどこか古の光の粒子を帯びた、特別な「生命の息吹」。 ふわり、と。 温かく、清らかで、まるで春の陽光のような何かが、レインの唇から、アリアの閉ざされた気道を通って肺へ、そして魂の奥底へと、優しく、しかし力強く流れ込んでいく。生まれて初めて味わうような、甘く澄み切った生命の味。忘れかけていた遠い記憶の扉を叩くかのような、不思議な感覚。
奇跡が起こった。 アリアの激しい喘鳴が、嘘のように急速に和らいでいく。苦しげだった肩の動きが穏やかになり、蒼白だった顔に、確かな血の気が戻り始めた。 固く閉じられていた長い睫毛が、微かに震える。そして、ゆっくりと、その大きなアクアマリンの瞳が開かれた。 間近に、レインの顔があった。 フードの影になった、しかし射抜くように真っ直ぐな、吸い込まれそうなほど深い蒼色の瞳。そこには、燃えるような強い意志の光と、まるで夜空の星々をそのまま映したかのような、そして何か遠い記憶を秘めたような深淵が宿っていた。彼の瞳の中に、驚きに見開かれた自分の顔が映っているのを、アリアはぼんやりと認識した。 「あなた…だれ……?」 か細い、囁くような声。だが、そこには確かな意識の光が戻っていた。 アリアは、目の前の少年の瞳に囚われたように動きを止め、彼から流れ込んでくる不思議な息吹に、ただ驚き、身を委ねていた。それは単なる空気ではない。命そのものが凝縮されたような、清浄で力強いエネルギー。それが、枯れ果てていた自分の心と身体に、優しく、深く染み渡っていく。生まれて初めて感じる、本当の意味での安らぎ。身体の奥底から、新しい力が静かに湧き上がってくるような感覚。彼の魂と、自分の魂が、境界を越えて触れ合っているような、不思議な一体感さえ覚えていた。
鋭い駆動音。ようやく、白い救急ドローンが飛来し、すぐそばに着陸した。医療スタッフたちが慌ただしく駆け寄ってくる。 レインは、彼らの到着を確認すると、そっとアリアから身を離した。唇に、まだ彼女の感触と微かな花の香りが残っているような気がした。同時に、能力を使ったことによる強い疲労感と、エネルギーがごっそりと流れ出たような眩暈が彼を襲う。(これが…力の代償か…? やはり、無尽蔵じゃない…使うたびに、俺の一部が削られていくような…) 彼は周囲の混乱に乗じて素早く立ち上がり、近くにあった木々の影へと、音もなく姿を消した。
残されたアリアは、医療スタッフに囲まれながらも、まだぼんやりとした意識の中、人混みに消えていった彼の背中を、ただ見つめていた。 唇に、そして胸の奥深くに、あの忘れられない不思議な息吹の温かな感触と、彼の強い蒼い瞳の残像だけを、確かに刻み付けて。
*
上層の裏通り。高いビル壁に挟まれ、人工太陽の光も届かない日陰。レインは壁に背を預け、荒い息を必死に整えていた。先ほどの「呼気譲渡」は、予想以上に体内のエネルギーを消耗させたらしい。強い眩暈と倦怠感が全身を襲う。まるで自分の一部がごっそりと抜け落ちたような、奇妙な空虚感。首筋で、タグブロッカーの警告ランプが、バッテリー残量低下を示す不吉な点滅を始めていた。もう時間がない。
(あの娘は…大丈夫か…? いや、それより早くここを離れないと…俺は何てことを…) 自分の衝動的な行動に、今更ながら戸惑いが押し寄せる。上層の、それも身分の高そうな娘に関わってしまった。面倒は避けなければならなかったはずだ。彼女と接触したことで、七年前の記憶の断片が、より鮮明に、頻繁に脳裏を掠める気がするのも不気味だった。 早くこの場を立ち去り、下層の闇に紛れ込まなければ。そう決意し、壁から身体を離そうとした、その時。
「お待ちになって!」 背後から、切羽詰まったような、しかし凛とした芯のある声が響いた。 反射的に身構え、素早く振り返る。
そこに立っていたのは、先ほどの純白のドレスの少女だった。供も連れずに、たった一人で。息を切らし、整えられていたはずの髪がわずかに乱れている。ドレスの裾も少し汚れているようだ。どうやって追ってきた? 彼女の大きなアクアマリンの瞳が、レインを見つけた安堵と、それ以上に強い決意の光を宿して、真っ直ぐに彼を見据えていた。
「あなた…やはり、さっき庭園にいらした方ですわね!」 彼女は、怯えを見せながらも、強い好奇心と切実さを瞳に宿し、レインに詰め寄った。 「どうして、あのようなことを? あの、不思議な力は…一体…? あなたは、魔法使いか何かですの? それとも…私と同じように、どこか『違う』のではなくて?」 矢継ぎ早の問い。その言葉の端々に、彼女が普通ではない何かを抱えていることが窺えた。 「…人違いだ」レインは反射的に言い放ち、フードを目深に被り直した。関わるべきではない。この少女は危険すぎる。その出自も、彼女が持つであろう秘密も。 「嘘をおっしゃらないで。その目…あなたの蒼い瞳、忘れませんわ」アリアはきっぱりと言い切った。その観察眼は鋭い。「それに、あなたのタグ! 見慣れない旧式の…ディープゾーンのものですわね? なぜあなたがここに? 不法な越境者ですの?」 まずい。見抜かれている。レインは無言で身構えた。通報されるのか? この場で拘束されるのか?「でも、今はそんなことはどうでもいいのです!」彼女は必死な形相で首を強く横に振った。「どうか、教えてくださいませ。あなたはどなた? そして、なぜ、見ず知らずの私を助けてくださったの?」 「…脅しか? 管理庁長官に報告すると言えば、俺が話すとでも?」レインは低い声で威嚇した。内心は焦っていたが、精一杯の虚勢を張る。 「違う!」アリアは声を震わせ、必死に訴えた。「そんなつもりは、決してありません! ただ…ただ、お礼が申し上げたいのです! それに…どうしても知りたい! なぜ、私を助けたのですか? そして…あなたのあの息吹は…あの、信じられないほど温かくて、清浄な息吹は…まるで魂に直接触れるようなあの力は…一体、何なのですか?」 レインは沈黙した。警戒を解けないまま、しかし、彼女のあまりにも真っ直ぐな瞳から目が離せない。その瞳の奥に、自分と同じ種類の、深い孤独と、何かへの渇望の色を見て取った気がした。この少女もまた、見た目とは違う、見えない檻の中でもがいている。その魂の叫びが、彼の心の壁をわずかに揺さぶった。 「私はアリア・スカイ。呼吸管理庁長官の一人娘です」彼女は改めて素性を明かした。声には誇りではなく、むしろ重荷であるかのような諦念が滲む。「でも…私は、生まれた時からこんな身体なのです」 軽く咳き込み、胸元を押さえる。 「最高の空気が保証されたこの場所にいても、私の肺はいつも何かを拒絶するように苦しくて…医師からは、もう根本的な治療法はないと…残された時間も、あまり長くないかもしれないと宣告されました…。まるで、このドームそのものが、息をすることを許してくれないみたいに…」
瞳が一瞬潤むが、すぐに強い意志の光を取り戻す。 「なのに…あなたの息は、違ったのです」声に熱がこもり、彼女は一歩レインに近づいた。甘い花の香りがふわりと漂う。「とても温かくて、どこまでも自由で…まるで、生まれて初めて、本当の『生命』を吸ったみたいでした…! あの瞬間、私は、ただ死を待つだけの存在じゃないって思えたの…! あなたの息吹は、私に希望をくれたのです…生まれて初めての、本当の希望を…!」
彼女の瞳に宿る切実な光、魂からの叫び。それは、レインが心の奥底で忘れかけていた、生きることへの渇望、自由への憧れを激しく揺さぶる。 「父はこのドームこそが人類の未来だと言います。外の世界は汚染され危険なのだ、と」彼女は続ける。声には父への敬愛と、拭いきれない疑問が混じる。「でも…本当にそうなのですか? 教科書も、管理庁のデータも、全てが正しいとは限らないのでは? この完璧に見える上層だって、なぜか息苦しいのですもの…」
「先日、父のデータベースを偶然見てしまって…奇妙なものを。『自然回帰派』という反体制組織の名、そして…とても古く、不思議な設計図のようなものの断片…ドームの技術とは全く違う、まるで生きているかのようなエネルギーを感じさせるものでした…。あのエネルギーパターン、あなたの息吹から感じたものと、どこか似ている気がするのです。あれは一体…? 父は何かを隠している…。母の死についても…あの設計図や、『外』と何か関係があるのではないかと…。」
「私はもう嫌なのです! 何も知らないまま、真実から目を背け、誰かに管理された息苦しい世界の中で、ただ緩やかに死んでいくなんて、絶対に嫌!」 そして、彼女は叫んだ。その声は、裏通りの壁に反響した。 「私は…私の意志で、真実を知りたい! そして、この息苦しい世界を変えたいのです!」
その言葉が、雷のように、レインの心の奥底に突き刺さった。 理不尽への反発。現状を壊したい衝動。管理された偽りの平和への嫌悪。彼自身が、ずっと独りで抱え続けてきたものと、全く同じ種類の熱が、そこにはあった。彼女の中に、自分と同じ魂の叫びを聞いた気がした。
「…俺も、知りたいことがある。確かめたい真実が」 思わず、言葉が漏れた。彼女の魂の叫びに引きずり出されるように。
アリアの顔が、ぱっと輝いた。希望の光が宿る。 「だったら、どうか、私に力を貸していただけませんか!」彼女はレインに駆け寄り、その両手を強く掴んだ。華奢だが、驚くほど強い意志のこもった手だった。「父が隠している真実を…ドームの外の世界のことを、一緒に探してください! お願いします!」
ピピピッ。ピピピッ。ピピピッ! タグブロッカーが、バッテリー完全切れを示す、けたたましい最終警告音を発した。もう時間がない。管理庁の追跡システムが、間もなく彼の正確な位置を特定するだろう。
「これを、どうか受け取ってください」 アリアは小さな、指輪型の最新鋭通信デバイスを、躊躇うレインの手に押し付けた。「最高レベルの暗号化通信が可能です。これで連絡が取れますわ。これが、私たちの繋がりを保つ鍵になるはず…」 彼女は不安そうな、しかし期待に満ちた瞳でレインを見上げる。「また…必ず、会ってくれますか?」
レインは一瞬、強くためらった。危険すぎる。破滅への道かもしれない。だが、目の前の少女の、未来を渇望する真剣な瞳を見て、そして彼女の魂と自分の魂が確かに共鳴しているのを感じて、彼はもう抗えなかった。 小さく、しかしはっきりと、確かな意志を込めて頷いた。 「…ああ。必ず。だが、あんたも十分に気をつけろ。あんたの父親は…管理庁長官なんだからな」
ぶっきらぼうな口調の中に、彼なりの最大限の気遣いを込めて言い残すと、すぐに身を翻し、迫りくる追跡から逃れるため、再び闇の中へと疾走した。
「彼となら…きっと、変えられる…!」 アリアは、レインが消えた方向を、希望と不安が入り混じった複雑な表情で見つめながら、強く、そして確信に満ちて呟いた。彼女の胸の中にも、小さな、しかし世界を変えるかもしれない確かな変化の息吹が、生まれ始めていた。
一方、下層へと続く暗く長い通路を疾走しながら、レインはアリアから受け取った通信機を、まるで大切な宝物のように、強く、強く握りしめていた。 (初めてだ…俺のこの忌まわしい力が、誰かの役に立った…? 誰かの希望に…なった…?) (この息が、希望になるというなら…俺がこの力を持って生まれてきた…与えられた意味も、少しは…あるのかもしれない…) 強い疲労感と、それを上回る、これまで感じたことのない温かい感情が、彼の胸を満たしていた。彼女の存在が、彼女の魂の叫びが、彼の凍てついた心に、小さな、しかし確かな火を灯したのかもしれない。この力は呪いだけではないのかもしれない、と初めて思えた。
ドームの最上層と最下層。光と影。決して交わるはずのなかった二人の呼吸が、今、静かに、そして確かに交わり始めた。 ──それは、凍てついた巨大な鉄の檻の中で、密やかに生まれた、か細くも確かな、新しい時代の息吹の予兆だったのかもしれない。
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