第5話「最後の儀式」
廃病院の薄暗い廊下を、白蓮はゆっくりと歩いていた。
かつて患者や医師たちで賑わったこの場所は、今では打ち捨てられ、時間の流れだけが支配する空間と化していた。
「重いわね、ここは」
白蓮の右目が黒く染まり、普通なら見えないものが見えるようになる。
廊下のあちこちに、かすかな人影が映っている。
病衣を着た患者、白衣の医師や看護師。
そして…血まみれの手術着を纏った何者か。
「先生、本当にこんな場所を調査する必要があるんですか?」
声をかけてきたのは莉子だった。
白蓮は本来、彼女を連れてくるつもりはなかった。
しかし莉子が強く懇願したため、修行の一環として同行を許したのだ。
「必要があるわ。この病院で何かが起きている」
依頼者は近隣に住む老婦人だった。
彼女の話によれば、この廃病院からは夜になると奇妙な悲鳴が聞こえ、時折血まみれの姿の人影が見えるという。
地元の若者たちの心霊スポット巡りの的になっていたが、先月、肝試しに来た高校生が意識不明の重体で発見された。
「病院って…死と隣り合わせの場所だものね」
白蓮が言った。
「多くの人がここで最期を迎えた。だから霊が留まるのも自然なこと」
「でも、それだけじゃないんですよね?」
莉子は白蓮の表情の変化を見逃さなかった。
修行の成果か、彼女も少しずつ霊的な気配に敏感になってきていた。
「そう。ここには…別の何かがある」
白蓮は立ち止まり、壁に手を当てた。
彼女の腕の黒い痣が、かすかに発光する。
「何か見えますか?」
「断片的なイメージよ…」
*病院が活気に満ちていた時代。*
*しかし、奥の一室では異様な実験が行われていた。*
*人体実験。*
*そして、その目的は…*
白蓮の表情が険しくなった。
「またこれか…」
「何がですか?」
「人の霊力を奪う儀式。この病院でも行われていたみたい」
白蓮は廊下の奥へと歩き始めた。
壁に刻まれた部屋番号を確認しながら、「304」という部屋を探す。
彼女の直感がそこに何かがあると告げていた。
「先生、怖いです…」
莉子の顔が青ざめていた。
彼女にも、この場所の異様な雰囲気が感じられるようになっていたのだ。
「大丈夫。あなたを守るわ」
白蓮は莉子の肩に手を置いた。
その瞬間、彼女の黒い痣から淡い光が発せられ、莉子を包み込んだ。
陽葉の力による守護の印だ。
「ありがとうございます…」
二人が歩いていると、突然周囲の温度が急激に下がった。
白蓮の息が白い霧となり、莉子の体が小刻みに震える。
「来たわ」
廊下の向こうに、血まみれの手術着を着た人影が現れた。
首から上がなく、ただ白衣から血が滴り落ちている。
「あっ…!」
莉子が思わず悲鳴を上げた。
白蓮は冷静に幽霊を見つめた。
「あなたは誰?」
幽霊は答えない。ただ、手術着の袖から伸びた血まみれの手が、奥の部屋を指差す。
「304」の部屋だ。
「そこに行けというの?」
幽霊はゆっくりと頷き、そして煙のように消えた。
「行きましょう」
白蓮は莉子の手を取り、304号室へと向かった。
重い鉄の扉が、二人の前に立ちはだかる。
「開けましょう」
扉を開けると、そこは一般的な病室ではなく、手術室のような場所だった。
中央に手術台、周囲に古い医療機器。
しかし、それらは通常の医療目的ではなく、別の用途のために改造されているようだった。
「これは…」
白蓮は手術台に近づいた。
台の周りには奇妙な文様が刻まれ、拘束具には古い血痕がこびりついている。
「儀式の場所ね」
白蓮の右目が完全に黒くなり、部屋の過去を見通す。
*数十年前、この部屋で行われていた儀式。*
*霊感の強い患者が連れてこられ、拘束される。*
*白衣の研究者たちが、患者から霊力を抽出しようとする。*
*そして失敗。暴走した霊力が研究者たちを飲み込む。*
「先生…?」
莉子の声で、白蓮は現実に引き戻された。
「この病院では、霊能力者を使った実験が行われていたわ。彼らの力を抽出し、兵器として利用しようとしていたの」
「兵器…?」
「多くの実験が失敗に終わり、被験者も研究者も命を落とした。でも…」
白蓮の直感が告げる。
まだ何かが終わっていない。
その時、部屋の温度が急激に下がり、暗くなった。
電気がついていないはずなのに、手術灯だけが突然点灯する。
「なっ…!」
莉子が白蓮の背後に隠れた。
手術台の上に、徐々に人影が形成されていく。
若い女性の姿。病衣を着て、拘束具で縛られている。
彼女の体は半透明で、恐怖に満ちた表情を浮かべていた。
「助けて…」
かすかな声が響く。
白蓮は手術台に近づいた。
「あなたは…?」
「神楽…神楽彩。私は…ここで…」
「実験の被験者だったのね」
神楽の霊が弱々しく頷いた。
「彼らは私の力を…奪おうとした。でも失敗して…私は死んだ。でも私の力は…」
「あなたの力はどうなったの?」
「暴走した…そして、この病院に閉じ込められた。今も…彼が私の力を使って…」
「彼?」
神楽の霊が天井を指差した。
「院長…黒崎院長。彼は死んでない。彼は私の力を…使っている」
白蓮は眉をひそめた。
この病院が閉鎖されたのは30年以上前のはず。
院長がまだ生きているとしたら…
「黒崎院長は今どこに?」
「下に…地下に…」
神楽の姿が徐々に薄れていく。
「助けて…私の力を…解放して…」
彼女の姿が完全に消える直前、白蓮は手を伸ばして彼女に触れた。
その瞬間、強烈なイメージが脳裏に浮かぶ。
*地下室への隠し階段。*
*そこで続けられる儀式。*
*老いた黒崎院長。しかし、若々しい力に満ちている。*
*そして、犠牲となっていく若者たち。*
「わかったわ」
白蓮は決意を固めた。
「莉子、あなたはここで待っていて」
「え?一人にしないでください!」
「危険すぎるわ。私と陽葉なら大丈夫だけど、あなたはまだ…」
莉子は怯えながらも、強い意志を見せた。
「でも、先生の弟子として…学ばないと」
白蓮は迷った末、彼女の肩に手を置いた。
「わかったわ。でも、私の言うことを必ず守ること」
彼女の黒い痣から、さらに強い守護の力が莉子を包んだ。
二人は手術室の隅にある書棚を動かした。
そこには、予想通り隠し扉があった。
「下に降りるわよ」
古びた螺旋階段を降りていくと、そこには別世界が広がっていた。
地下室とは思えない広い空間。
中央には大きな祭壇があり、周囲には奇妙な文様が描かれている。
そして祭壇の前には、老人が立っていた。
白髪で痩せ細った体。しかし、その目は若々しく、力に満ちていた。
「お客さんか」
黒崎院長だ。
彼は二人を見ると、不敵な笑みを浮かべた。
「まさか、私の聖域に侵入してくるとはね。勇気があるよ」
白蓮は彼をじっと見つめた。
その体から異様なオーラが発せられている。
神楽の力を取り込み、それを使って生き続けているのだ。
「あなたは神楽彩の力を奪った。そして、それを使って若さを保っている」
黒崎の表情が変わった。
「よく知っているね。彼女の霊が教えたのか?」
「あなたは多くの人を犠牲にしてきた。若者たちの生命力まで奪って」
「犠牲なしに得られるものはない。永遠の命を手に入れるためには…」
「永遠?そんなものはないわ」
白蓮の右目が黒く染まり、腕の痣が発光した。
「私は来た。神楽の力を解放するために」
黒崎は冷笑した。
「霊媒師か。しかも、強い力を持つ…」
彼の目が欲望に満ちて輝いた。
「君の力も頂こうか」
黒崎の周りに黒い霧が立ち昇り始めた。
神楽から奪った力だ。
そして、それが白蓮と莉子に向かって伸びてきた。
「莉子、下がって!」
白蓮は両手を広げ、自らの周りにも黒い霧を形成した。
陽葉の力が、彼女と莉子を守る盾となる。
二つの霧がぶつかり合い、部屋中に霊的なエネルギーが渦巻いた。
「おや、君も同じ力を…」
黒崎は驚いた表情を見せた。
「どこで手に入れた?まさか、鹿島家の…」
「陽葉の力は奪ったものじゃない。私たちは共存している」
白蓮の声に、陽葉の声が重なった。
*「私たちの力は守るための力。あなたのように奪い取るものじゃない」*
「守るため?愚かな」
黒崎の力が強まり、白蓮の防御を押し返し始めた。
「力とは支配するためのもの。弱者を守るためではない!」
白蓮は苦しげに息を吐いた。
黒崎の力は、想像以上に強い。
数十年かけて蓄積してきた力だ。
「先生!」
莉子が心配そうに叫んだ。
その時、白蓮の周りに別の存在が現れ始めた。
神楽彩、そして他にも多くの犠牲者たちの霊が。
彼らは白蓮の側に立ち、力を与えているようだった。
「なに…?」
黒崎が驚いた表情を見せる。
「あなたが奪った力の持ち主たち。彼らは今も苦しんでいる」
白蓮の声が部屋中に響いた。
「そして今、彼らは解放を望んでいる」
白蓮の黒い霧が、犠牲者たちの霊と共に強くなっていく。
黒崎の力を押し返し始める。
「馬鹿な…私の力が…!」
黒崎の表情が恐怖に変わった。
彼の周りの黒い霧が弱まり、代わりに彼の体が急速に老化し始める。
奪った力が失われていくのだ。
「やめろ!私の命が…!」
「それはあなたのものではない。奪ったものはいつか返さなければならない」
白蓮は両手を黒崎に向けて突き出した。
彼女の黒い霧が、黒崎を完全に包み込む。
「うわああああ!」
黒崎の悲鳴と共に、彼の体から黒い霧が次々と抜けていく。
それは様々な形となって部屋中を舞い、そして一つずつ光となって消えていった。
解放された魂たちだ。
最後に神楽の霊が白蓮の前に現れた。
「ありがとう…これで私も…」
「成仏できるわ」
白蓮は微笑んだ。
「あなたの力は、本来の持ち主に返された」
神楽は穏やかな表情で頷き、そして光に包まれて消えていった。
床には、黒崎の老いさらばえた遺体だけが残された。
彼は本来の年齢——百歳を超えていたはず——に戻り、力を失って死んだのだ。
「終わったわ」
白蓮は疲れた表情で莉子を見た。
「大丈夫?」
莉子は震える足で立ちながら、頷いた。
「はい…先生、すごかったです」
「私一人の力じゃないわ。陽葉と、そして全ての犠牲者たちの力があったから」
二人は地下室を後にし、階段を上っていった。
病院全体が、少しずつ浄化されていくのを感じる。
長年留まっていた怨念が、ようやく解放されたのだ。
---
一週間後、白蓮の事務所。
「結局、黒崎院長の遺体は身元不明の老人として処理されたそうよ」
冥加が新聞を見ながら言った。
「30年以上も、あの病院の地下で生き続けていたなんて…」
「力への執着が、彼を怪物にしたのね」
白蓮は窓の外を見つめていた。
彼女の右目の黒さは、以前より薄くなっていた。
むしろ、コントロールできるようになっていたのだ。
「先生、お茶どうぞ」
莉子がカップを差し出した。
彼女の霊媒としての力も、あの一件以来急速に成長していた。
「ありがとう」
「先生…私、あの時思ったんです」
「何を?」
「力って、奪うものじゃなくて、分かち合うものなんだって」
白蓮は微笑んだ。
「そうね。陽葉が教えてくれたことよ」
彼女の心の中で、陽葉の存在が温かく応えた。
*「私たちはこれからも、多くの人を救っていけるわ」*
白蓮は自分の腕の黒い痣に触れた。
もはや呪いではなく、守護の印となったその痕。
「そうね。これからも、私たちの道は続くわ」
---
その夜、白蓮は鏡の前に立っていた。
鏡に映る彼女の姿と、その後ろに立つ陽葉の姿。
二人は穏やかな表情で微笑み合った。
「あれから半年、多くのことが変わったわね」
*「ええ。あなたのおかげで、私も本当の安らぎを知ることができた」*
「私こそ、あなたから多くのことを学んだわ」
白蓮は鏡に手を当てた。
陽葉も同じように手を伸ばし、二人の手が鏡越しに重なる。
「これからも、一緒に」
*「ええ、いつまでも」*
白蓮の右目が一瞬黒く輝き、腕の痣も淡い光を放った。
それはもはや恐怖の象徴ではなく、希望の光だった。
彼女は窓辺に歩み寄り、夜空を見上げた。
満月が明るく輝いている。
新しい依頼書が机の上に積まれていた。
明日からも彼女の仕事は続く。
黒い痣を持つ霊媒師として、陽葉の力と共に。
「次は、あなたの番ね」
白蓮のつぶやきは、夜風に乗って遠くへと運ばれていった。
---
*【エピローグ】*
真夜中、静かな住宅街の一角。
一軒の古い家の窓から、かすかな光が漏れている。
中では一人の女性が、鏡の前に立っていた。
長い黒髪に白い肌。右目に漆黒の色を持ち、腕には黒い手形の痣がある。
桐生白蓮——かつては金のために霊と対話していた霊媒師。
しかし今は、真の意味で死者と生者の橋渡しをする存在となっていた。
「今夜も、誰かが助けを求めている」
彼女は鏡に手を当てる。
そこには二つの姿が映っていた。
白蓮と、彼女の中に宿る陽葉の魂。
かつては怨念に満ちていた少女の霊も、今は穏やかな微笑みを浮かべている。
二人は共に、多くの人々を救ってきた。
そして、これからも救い続けるだろう。
白蓮は窓を開け、夜風を感じた。
どこかで、誰かが彼女の名を呼んでいる。
新たな依頼者だ。
「行きましょう」
彼女の右目が漆黒に輝き、腕の痣が淡い光を放った。
部屋の明かりが消え、彼女の姿が夜の闇に溶けていく。
黒い痣を持つ霊媒師・桐生白蓮の物語は、これからも続いていく——。
白蓮の口寄せ —黒き痣の霊媒師— ソコニ @mi33x
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