第18話 岩石の狭間
無機質な岩が空中を漂う世界――そこに足を踏み入れた瞬間、息を呑むしかなかった。昼の明るい時間帯にもかかわらず、空は灰色の曇天のような色合いで、光源がどこにあるのかすら判然としない。下を見下ろせば、黒い闇が果てしなく広がっていて、もしこの狭間の奈落に落ちたら二度と帰れないだろうという恐怖が背筋をかすめる。
「すごい景色だね……」
僕は正直な感想を漏らす。ここでは空間そのものがねじれているようで、左右も上下もはっきりしない。大小さまざまな岩石がフワフワと浮いて、道のように連なっている場所もあれば、いくつか隙間が空いて飛び移るしかない箇所もある。どの岩塊も斜めに傾いたり、奇妙な角度で停止していたりして、足を踏み外せば一発で奈落の底へ真っ逆さまだ。
「なるほどね。当然っちゃ当然だけど、前に入った狭間とは雰囲気がまるで違うわ。あのときはお菓子の世界みたいだったけど、今回は足場の悪さが段違いね」
レアラが冷静に言いつつ、岩塊の一つを踏みしめる。頭の狐耳がピクリと動き、周囲をうかがっている。僕がそっと隣に寄って下を覗くと、果ての見えない深い闇が揺らめいているみたいで、目がくらむほどだった。
「チッ、くだらねえ……」
ガルスが不服そうな口調で吐き捨てる。彼は大剣を軽く肩に担ぎながら、まるで足場の悪さなど気にしないかのごとく、ひと足先に岩塊へ飛び移った。金属の鎧が微かに擦れる音がし、かすかな振動が伝わる。
「ガルスさん、無茶しないでよ。落ちたらどうするんだ」
僕はその背を追いかけようと、一歩踏み出した瞬間、足元の岩が妙に滑りやすいことに気づく。石の表面には湿ったような光沢があり、下手な動きをすればすべり落ちてしまいそうだ。
「へっ、こんなもん、ちょっとした度胸試しだぜ。お前こそビビってんじゃねえの?」
ガルスは短く嘲笑して、さらに先の岩へと跳び移る。それを見送ったレアラが、肩をすくめながら僕に小声で話しかけてきた。
「焦らなくてもいいわよ。こんな足場でケンカでも始めたら、足を踏み外して終わりなんだから」
「分かってるって。……はあ、やっぱり気が抜けないなぁ」
僕は深く息をついて踏み込み、慎重に次の岩へ移動する。ごとり、と岩がかすかに揺れ、心臓のない胸がぎゅっと縮むような感じがした。さすがにこんな高さから落下したら、ただでは済まないだろう。いや、落ちる前に消滅する可能性だってある。
そうして、一歩一歩前へ進んでいく。真上からは何ともいえない灰色の光が注ぎ、大小の岩が不規則に浮遊する異様な景色が視界を埋め尽くす。もしここが通路ならば、どこへ続いているのか皆目見当がつかない。
「ねえ、レアラ。どう思う? この足場、完全に重力が狂ってるよね。場所によっては浮力が働いてるのか、岩が横倒しになってるし」
「ええ。狭間は歪んだ世界なの。だからなにが出てきてもおかしくはないわ。用心して進むしかないわね」
レアラが念のためと言わんばかりに魔力を少し放出した。すると、僕の足下の岩が微かに光り、安定感が増したように感じられる。その隙に僕は跳躍し、ガルスに追いつく形で隣の岩へと移動。
「ふん……ぼんやりしてんじゃねえぞ。いつ敵が出てきてもおかしくない」
ガルスは苛立ち混じりに声をかける。けれど、その目はしっかりと周囲を警戒している。僕とレアラがかろうじて後に続くと、彼は更に前へ進もうとした――その瞬間だった。
「ん? あれは……」
ガルスが奇妙な音を聞きつけて大剣を構え、視線を斜め上へ送る。岩の塊が幾重にも積み重なった先で、何かが動いたように見えた。微かなどす黒い影が、岩の背後に隠れているのかもしれない。僕もすぐさま剣の柄に手をかけ、レアラはそっと詠唱の準備に入った。
やがて、その影が正体を現す。石の塊のような胴体に、節くれだった腕と脚がついた姿――それ自体は以前見た「岩のハイジン」と同種らしいが、サイズが段違いに大きい。背丈は優にガルスの倍以上あり、その表面からは黒いドロリとした液体がひたすら滴り落ちている。
「でけえのが出やがったな。いいぜ、上等だ!」
ガルスは歓声に近い声を上げ、大剣を振りかぶる。ハイジンもゴロゴロと岩を踏みしめながら前進し、その腕を振り下ろしてきた。腕はまるで巨大な石柱みたいに見えるが、そこからこぼれ落ちる黒液がぞっとするほどおぞましい。
「ガルスさん、無茶しないで! 足場が崩れたらやばいよ!」
「へっ、気をつけろってのは分かってるさ!」
ガルスは一喝するように返事し、思い切り大剣を振り下ろす。刃が石の胴体にめり込み、硬い破砕音が響いた。魔物は一瞬のけぞるように後ずさるが、それでも倒れはしない。そのまま腕を横に振って周辺の岩塊を叩き割ると、岩が大きく揺れ、僕とレアラの足元にもひびが走った。
「これ……ちょっとまずいんじゃ」
僕は焦って警告する。レアラがすばやく詠唱をし、水元素の魔法を形作っていく。
「これで、足止めしてみましょうか!」
レアラが一声発すると、浮遊する岩の縁から水が噴き出し、濁流となってハイジンの脚を包み込んだ。突然の水圧にハイジンがバランスを崩すと、ガルスの一撃を受けた箇所に大きな亀裂が走る。僕はその隙を見逃さず、まっすぐに踏み込み、ハイジンの腕の攻撃をかわしつつ剣をねじ込んだ。
「今だ!」
渾身の力を込めて剣を押し込むと、ハイジンの体の芯を裂くようにひびが広がる。内部から噴き出す黒液が岩の表面をドロリと濡らし、魔物は鈍い咆哮を上げながら崩れ落ちていった。転がるように足をばたつかせ、最後の苦しげな動きとともに完全に力を失う。
「やった……!」
そう呟いた刹那、ハイジンの口からか、あるいは全身の亀裂からか、凄まじい音量の断末魔が響き渡った。まるで地鳴りのような震動が狭間全体に伝わり、僕は咄嗟に耳を塞ぐ。それほどの大音響が、灰色の空間を切り裂くように反響したのだ。
「な、何だこの声……!?」
「まずいわ。あいつ、他のハイジンを呼び寄せようと……!」
レアラが蒼ざめた顔で辺りを見回す。すると、周囲の岩塊の向こうから、じわりじわりと別のハイジンが姿を見せ始めた。先ほどのように大型ではないけれど、同じく石と黒液が混ざった異形の集合体があちこちにいるらしい。足音とごつごつした摩擦音が、耳障りなほど聴こえてくる。
「へっ、ちょうどいい。まとめてぶっ潰すか」
ガルスは興奮気味に大剣を構えるが、レアラがすかさず腕を掴んで制止した。
「やめて。こんな足場で数の勝負を挑むなんて無謀よ! 崩落でもしたら終わりじゃないの。避難するわよ」
「くそっ、こんなところで引けるかよ……」
ガルスは不満げに唇を噛む。だけど、僕も「やるしかない」なんて思えないほどの数のハイジンが、岩と岩の隙間から続々と姿を現していた。どれも石の硬い外殻に黒液をまとっていて、あちらこちらに散らばる足場を渡るたび、岩が不気味に揺れる。
「ガルスさん、ここでぶつかれば足場ごと崩れそうだ! そうなったらみんな終わりだよ!」
「くっ……分かったよ、好きにしろ!」
ガルスが悔しげに吐き捨てた瞬間、僕とレアラは顔を見合わせて大きく頷いた。ハイジンたちがゆっくりと迫ってくる以上、ここで踏みとどまるメリットはない。包囲されてしまえば、いくら戦闘力があるガルスでも不利すぎる。レアラも落ち着いた表情の奥で決意を固めているのが伝わってくる。
「……狭間の奥へ逃げましょう。危険だけど、ここで戦うよりマシよ」
レアラの声に、僕は力強く頷く。ガルスは舌打ちしながらも、すでに大剣を収めて逃げる準備を始めていた。僕たちは横一列に並ぶようにして、まだ行っていない狭間の奥側へ向けて一斉に走り出す。
「ほら、来るわよ……!」
背後でガシャガシャと石がぶつかり合う音が鳴り響き、ハイジンの黒液の足跡が湿った音を立てて追いすがる。岩塊の斜めの角を跳び越え、ぐらつく足場を駆け抜ける。落ちれば地獄という恐怖と戦いながら、僕とレアラ、ガルスは必死に岩と岩の間を渡るのだ。
「足元が、崩れそう……!」
「急いで! まだ距離は空いてるはずよ!」
「お、置いてかないでよ!」
恐怖のあまり、僕は半ば泣きそうになって叫ぶ。ガルスはやたらと強がっているが、目には焦燥感があり、レアラは魔力を駆使して少しでも足場を安定させつつ跳躍を繰り返す。こうして、背後にはうごめく大量のハイジン、前方には未知の狭間の深部――逃げ場としては未知の領域を目指すしかないという、ぎりぎりの逃避行が始まったのだ。
「マコト! 落ちないでよ! ちゃんとついてきてね!」
「分かってる、頑張る……!」
僕は必死に声を返しながら、滑りそうな岩の表面にうまく足を踏み込み、レアラの後を追う。ガルスもまるで獣のような敏捷さで岩塊から岩塊へ飛び移り、なんとか遅れを取らないように食らいついている。背後のハイジンたちのうなり声が断続的に響き、いつ足元が崩れるか分からないスリルが全身の汗を冷やす。
それでも――逃げるしかない。僕たちは振り返ることなく、ひたすら狭間の奥へと駆けだしていくのだった。
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