シンカの部屋 (下)

 絶体絶命だった。これが影山の描いた結末。物理的に、そして心理的に追い詰め、希望を根こそぎ奪い取る。

 スイカゲームで、あと一歩でスイカが完成しそうなのに、どうしようもなく大きなフルーツを落とさざるを得ず、ラインを超えて溢れてしまう、どうしようもない絶望感。だが、今は普段とはわけが違う。暖かい部屋で毛布にくるまってお菓子を食べながらしていたゲームとは違い、これは現実。ゲームオーバーはすなわち死を意味する。ささやかだが満ち足りた日常には二度と戻れなくなる。


「……終わり、なの」

 声にならない呟きが漏れる。冷たい水が、思考までも凍らせていくようだ。諦めが、滲んだ黒いインクのように心に広がっていく。

 その時、脳裏に、スイカゲームで何度も経験した、あの感覚が閃光のように蘇った。

 ——いや、まだだ。まだ終わっていない。スイカゲームだって、一見、詰んでしまったように見える配置から、予想外の連鎖で奇跡が起きることがある。


 澪は濁った水の中で必死に周囲を見渡した。何か、何か見落としているものはないか。影山の仕掛けた盤面を、根底から覆す一手はないか。

 視線が、壁の一点に吸い寄せられた。パネルではない、ただの小さな突起。ゴミか、壁の傷だとばかり思っていた。だが、目を凝らすと、それは明らかに意図的に設けられた、小さな足場のように見えた。そして、足元には、最初に使った小さなさくらんぼキューブが、まだいくつか転がっている。もしかしたら……。


 それは、ほとんど祈りに近い賭けだった。けれど、もはやこれに懸けるしかない。

 澪は、影山が「置け」と促す最後のパイナップルキューブには目もくれず、鼻をつまんで息を止め、水底から小さなさくらんぼキューブを拾い上げた。そして、影山も想定していなかったであろう、壁の小さな突起を目掛けて、震える手で、そっと乗せた。

「何をしている。そんなところに置いても、合成は起こらないぞ。無駄な足掻きだ」

 影山のいぶかしむ声が響く。澪は息を詰め、突起に乗せたさくらんぼキューブの端を、指で僅かに押した。

 赤いキューブは、計算通りに水面を滑り、落下した。そして、真下にあった別のパネルにはめ込まれていたさくらんぼキューブの上に、音を立てて衝突する。

 瞬間、二つの赤いキューブが淡い光を発し、融合する。いちごキューブへと形を変えた。

 それだけでは終わらなかった。生まれたいちごキューブは、体積を増し、隣にあったぶどうキューブを物理的に押し動かした。そのぶどうが、弾かれたように隣のぶどうに接触し、連鎖反応が始まる。

 ぶどうがデコポンへ。デコポンが隣の柿を押しやり、その動きがさらに別のキューブへと伝播していく。まるで、ドミノ倒しのように、あるいは、スイカゲームの盤面が一掃される時のように、キューブたちが位置を変え、新たな空間を次々と生み出していく。

 そして、あの致命的なミスで置いてしまったパイナップルキューブの隣に、もう一つのパイナップルキューブを滑り込ませるだけの隙間が生まれた。隙間近くのリンゴキューブが傾き、その僅かな光明を潰そうとしている。

「……今!」

 澪は最後の力を振り絞り、息を止めて水底に沈んでいたもう一つのパイナップルキューブを掴み上げ、その奇跡の隙間に滑り込ませた。

 カチャリ、と確かな手応えがあった。二つのパイナップルが接触し、眩い光を放つ。それらは一つの巨大なメロンキューブへと姿を変えた。

 これでメロンが二つ、盤上に揃った。

 ゴゴゴゴ……と地鳴りのような低い振動が部屋を揺らし、水面が小刻みに揺れる。二つの巨大なメロンキューブが、見えない力に引かれるようにゆっくりと中央へ移動し、接触、合体する。

 部屋全体が、強烈な電灯の光で満たされた。

 目の前には他でもない、「スイカ」キューブ。


「なっ、馬鹿な、ありえない。そこは計算外のはずだ!」

 影山の狼狽しきった声が、スピーカーから割れんばかりに響き渡った。だが、その声はすぐに、静かになった。勝敗が決したことを悟ったのだろう。あるいは、別の感情が彼を支配したのか。


 それと同時に、胸元まであった水位が、嘘のように急速に引いていくのが分かった。重かった衣服が体に張り付いていく。そして、目の前の壁の一部が、音もなく静かに横へスライドし、外へと続く暗い通路が現れた。


 通路は長く、湿った空気が淀んでいた。澪は寒さで身体を震わせつつ壁に寄りかかりながら、一歩ずつ進んだ。その時、背中に硬い感触があった。見ると、壁に何か文字が引っ掻かれている。

 それは、名前だった。影山蓮。そして、その下にも、いくつもの名前が、まるで墓碑銘のように乱雑に刻まれていた。全て、『プロジェクト・シャープ』で共に働いたメンバーたちの名前だった。プロジェクトが難航した際、遅延と予算超過の責任を負わされる形で、チームを去っていった者たち。

 澪がプロジェクトの成功という「大きな果実」を得るために、切り捨てた「小さな果実」たち……。


 全身の血の気が引いた。澪がリーダーとして非情な判断を下し、彼らをスケープゴートにしたことへの復讐。スイカゲームのルールは、その完璧なメタファーだった。小さなフルーツ——犠牲をうまく処理できなければ、やがて盤面は埋まり破綻する。大きなフルーツ——成功だけを求めても、その土台となる小さな存在なくしては成り立たない。

 影山は、それを澪に、この閉鎖空間で、死の淵で、骨身に染みて理解させようとしたのだ。一思いに殺してしまうのではなく、澪がスイカゲームに夢中になっているのを聞きつけてから、それを復讐の『ピース』として利用すべく、そして、ゲームプランナーという職業人としてのプライドも含めて全てを殺すべく、わざわざこんなゲームをプログラムしてまで……。この部屋は、彼らにとっての墓標であり、澪にとっては過去の罪を突きつける断罪の場だったに違いない。


 通路の先に、微かな外光が見える。しかし、その光に向かう足取りは、かつてないほど重かった。助かったという安堵よりも、自分が犯した罪の重さと、影山の歪んだ執念に対する戦慄が、澪の全身を打ちのめしていた。ゲームには勝った。生き残った。だが、それは新たな始まりではなく、過去と向き合う苦痛な道のりの始まりに過ぎなかった。

 日常で親しんだゲームのロジックが、これほどまでに残酷な形で己に跳ね返ってくることは、あの温かな日常では決して気づけなかっただろう。


 澪は光と影が交錯する通路を、逃れられない罪悪感を背負い、次なる復讐におびえながらも、ただ一歩ずつ進むしかなかった。









(了)

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シンカの部屋——スイカゲーム—— 神崎諒 @write_on_right

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