シンカの部屋——スイカゲーム——

神崎諒

シンカの部屋 (上)

 佐倉 みおは、ロジックの美しさに心酔していた。パズルのピースが吸い付くようにまる瞬間、複雑な数式がシンプルな解へと収束する過程。その整然とした秩序に、幼い頃から一種の信仰にも似た安らぎを覚えていたのだ。


 ゲームプランナーという職を選んだのは必然だった。世界の法則を抽出し、ルールを作り、プレイヤーを論理の迷宮へといざなう。それは澪にとって天職であり、自己実現の手段だった。結果が全ての世界である。過程で多少の軋轢や犠牲が生じるのは、頂を目指す上では仕方のないことだと、キャリアを重ねる過程で考えるようになっていた。最近夢中になっている『スイカゲーム』もそうだ。単純なルールの中に、物理演算と確率、そして瞬時の判断が絡み合う。落ちてくるフルーツの軌道を予測し、連鎖の快感と隣り合わせの破綻のリスクに、何度夜更かししたことか。完璧な配置、予測通りのシンカ。その達成感は、他の何物にも代えがたい。だが、人生はゲームのように、リセットもロードも許されない。犯した過ちは、消えない染みのように残り続けるのだ。


 ひやり、とした感覚で佐倉澪は意識を取り戻した。

 背中に触れるのは、無機質なコンクリートの感触。硬く、どこまでも冷たい。ゆっくりとまぶたを押し上げると、視界に飛び込んできたのは、陰鬱な立方体の部屋だった。継ぎ目の見当たらない壁、埃っぽいような、それでいて消毒液のような奇妙な臭気。そして、壁の一部には、かすかに傷のような模様が見える。古いプロジェクトコードだろうか。気のせいかもしれない。脱出口らしきものはどこにも見当たらない。

「……どこ」

 声を出そうとして、喉が張り付いていることに気づく。掠れた音だけが、虚しく空間に吸い込まれた。立ち上がろうとした足が、不意に水音を立てる。見れば、くるぶしを浸すほどの水が床を満たしていた。それは気のせいではなく、じわりじわりと、しかし確実に水位を上げているようだった。背筋に悪寒が走り、皮膚があわ立つ。


「目が覚めたようだね、佐倉さん」


 不意に、壁掛けスピーカーから声がした。知っている声。だが、今は粘つくような悪意しか感じ取れない、影山蓮の声だ。声と同時に、壁の一部が淡く発光し、モニターへと姿を変えた。デフォルメされた、引きつった笑顔のキャラクターが映し出される。

「影山……。あなたなの」

「その通り。久しぶりだね。君が好きそうな特別な『ゲーム』を用意させてもらった。存分に楽しんでくれると嬉しいよ。今回は、公平なルールでね。あの時とは違って」


 影山蓮。かつて同じチームで夢を語り合ったはずの同僚。澪の企画を横取りした、と噂され姿を消した男。スピーカー越しの声は、モニターの向こうで歪んだ愉悦に浸っていることを隠そうともしない。何かの、埋め合わせのつもりなのだろうか。


 モニターに、この部屋の簡易図と、理解し難いルールが表示される。

「これは……」

 見ると、部屋の壁にはいくつかの窪み、パネルが設置されている。部屋の隅には、様々な色と大きさのゴム製キューブが無造作に転がっていた。赤、ピンク、紫、オレンジ……。見覚えのある色の組み合わせ。

 影山は、モニターの内容を読み上げるかのように続けた。

「ルールは簡単だ。この部屋は、時間と共に水で満たされていく。見ての通りだ。脱出するには、壁のパネルに指定された色のキューブを置き、『合成』させていく必要がある。『さくらんぼ』から始まり、『いちご』、『ぶどう』、『デコポン』、『柿』。ここまでは約ニ十パーセントずつの確率で、ランダムに配置が可能だ。だが、『リンゴ』以上の大きなキューブは、合成でしか生み出せない。最終的に『スイカ』キューブを完成させれば、君の勝ちだ。脱出口が開くだろう」


 馬鹿げている。だが、示された合成の順番と、妙に具体的な出現確率。それは澪が熟知している、あのゲームの法則そのものだった。なぜ影山が、ここまで正確に? 


「スイカゲーム……のつもり?」

「ご名答。さすがは優秀なゲームプランナーだ。君がこのゲームを随分と好んでいることも知っている。この状況、きっとスリルを感じられるだろう。よく、、というが君の場合はどうかな」

 水位は、もうふくらはぎの中ほどまで達していた。コンクリートの冷たさが、直接肌を刺し、体温を奪っていく。躊躇している暇はない。澪は最も小さな赤いキューブ、さくらんぼを手に取った。深部まで冷えたゴムの感触が、今の状況の異常さを際立たせる。指定された壁のパネルに、そっとはめ込む。カチリ、と乾いた音が響き、パネルが一つ埋まった。

「次も、さくらんぼ。二つで、いちご……」

 澪は、プランナーとしての思考回路を強制的に起動させる。ただ順番通りに合成するだけでは、この閉鎖空間では破綻する。増え続ける水位が、物理的な制限時間を刻んでいる。問題は、キューブの出現確率だ。リンゴ以上は合成でしか作れない。つまり、柿以下の小さなキューブを効率よく合成し続けなければ、大きなキューブを作るためのスペースが先に埋まってしまう。

 これは、本物のスイカゲームよりも遥かにシビアな状況だ。

 小さなものを処理できなければ、大きなものは生まれない。まるで、何かの縮図のようだ。

 迫る水位を肌で感じながら、澪は必死だった。


「順調じゃないですか、佐倉さん。だが、油断しない方がいい。小さなフルーツばかり溜まっていくのは、ゲームも人生も同じでしょう?」

 影山の声が、思考の隙間に割り込んでくる。神経を逆撫でするような、ねっとりとした口調。澪はそれを振り払うように、黙々とキューブを手に取り、パネルにはめ込んでいく。

 またさくらんぼ……。欲しいのはぶどうなのに、柿ばかりが増えて、これではメロンが作れない……。そこまで考えて、澪は不意に動きを止めた。   

 壁のパネルを埋めていくうちに、あるパネルの縁に、見慣れたロゴが薄く刻印されていることに気づいた。覆いかぶさるように付着している湿った埃を拭いとる。――プロジェクト・シャープ。数年前、澪が参加していたプロジェクトのロゴだ。なぜこんなところに。

 悪寒が冷たい水と共に腹の底から這い上がってくる。心臓がどくどくと脈打っていた。

 水位はすでに腰まで迫り、衣服が水を吸って重い。冷たさが体温を奪い、焦りが思考を鈍らせる。

 落ち着け。これはゲームだ。ルールがあるなら、必ず抜け道があるはず。


 自分に言い聞かせる声が震えていることに気づき、唇を噛む。

 梨と桃のキューブを合成させ、パイナップルを作り出す。残されたパネルは、もう数えるほどしかない。そして、手元にはメロンを作るために必要な、巨大なパイナップルキューブが二つ。状況は、終盤のスイカゲームそのものだった。


 スピーカーのハウリング音が冷え切った空間で耳をつんざいた。

「佳境だな。水位もいい感じになってきた。君が大きくできなかった果物たちが、足元に溜まっていくようだね」

 影山の声には、隠しきれない嘲笑と、奇妙なほどの憎悪が滲んでいた。彼の言葉が、澪の胸をえぐる。パイナップルを二つ合成させればメロン。そして、メロンを二つで最後のスイカが完成する。だが、問題はスペースだった。一つ目のメロンを作るべく、パイナップルキューブをパネルにはめ込む。残りのパネルスペースは……もう一つの巨大なパイナップルを置くには、明らかに足りなかった。


「しまっ!」

 焦りが指先を狂わせたのか、持っていたパイナップルキューブが手から滑り落ち、意図しないパネルにはまり込んでしまった。そこは、もっと小さなキューブを置くべき場所だった。――致命的なミス。

「おいおい、痛恨のミスプレイじゃないか。君はいつもそうだ。だが、これで君が次に置ける大きなキューブの場所は、実質一つしかなくなったわけだ」


 影山の指摘は、冷酷な事実だった。最後のメロンを合成するために必要な、もう一つのパイナップルキューブ。それを置ける場所は、ただ一つ。しかし、そこに置いても合成は起こらない。ただスペースを無意味に埋めるだけだ。そして、その一手で、残された有効スペースは完全にゼロになる。次のキューブを置いた瞬間、この部屋の許容量は限界を超え、何かが起こる。……殺される。


 水位は、もう胸元まで迫っていた。冷たい水が心臓を圧迫し、呼吸が苦しい。

「どうするんだ? 佐倉さん。次の君のターンで、その大きなパイナップルを置いた瞬間、完全にゲームオーバーだ。水が君の頭の上まで満ちるのか、それとも……まあ、楽しみにしてるよ」

 

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