下水の灯火 5

 しばらく梯子を降りると穴の底が見えてきた。俺は乾いたコンクリートの上に立つ。ランタンを外して翳してみるがひとまずここら辺に人がいた痕跡は見た当たらない。

 ふいに先の方から水の跳ねる音が聞こえきた。先へ進めと急かされているようだ。


「行くか」


 コンクリートで囲われた高さの二メートルほどの丸い地下道を歩く。靴音が一歩、踏み出す毎に地下道に反響していた。澱んだ空気に埃の匂いが混じっていて、吸い込めば吸い込むだけ体に悪そうだ。


(電波は……悪いが一応大丈夫か)


 スマホを確認しポケットへ戻す。

 その時、ふいに視界が広がって通ってきた地下道よりさらに大きな空間に出た。壁にはぼんやりと光るライトが設置されている。それと同時に強烈なドブの匂いが鼻をつき、顔を顰めた。息をするのも辛いほどの臭さだ。


(間違いない。この匂いだ)


 初めてネズミに突かれた時の匂いと全く同じ。なんなら記憶の中のものとも完全に同じだ。


(多分、俺がきた道は脇道でここが本道だろう)


 奥まで続いている地下道を眺める。所々、横に穴があり俺が来たような同じ脇道に続くのだろう。中央には川幅五メートルほどの浅い黒く澱んだ川があり、そこが臭気の発生場所になっている。その両脇にはコンクリートの道があり……そこに人が座っていた。

 その人は真っ黒な服を身に纏い、足を抱えてうずくまり小さくなって何かを呟いている。

 俺は少し道を進み、その人の方へと近づく。


「ヒヒッ……ヒヒッ……ヒヒッ……」


 男の体は異常だった。細すぎる手足、目の当たりが深く窪んでいる。

 一定間隔に続く笑い声。それはまるでこの人の心音のようだ。


(壊れてる)


 一眼見て俺はそう思った。

 この薄暗い空間で誰も見ていない中、これを続けられる精神力を人間は持ち合わせていない。

 専門の医者に診てもらうしかないが下手に動かしていいものなのかも分からない。全てが終わった後で診てもらえたらいいが……難しいだろう。


 先ほどの人を置いて俺は先へと進む。


「ワワッ、ワッワ!?」


 突然、脇道の暗がりから声がした。見ると分厚い灰色のダウンジャケットを来た男性と目があった。


「……沈め、沈め、沈め、沈めー!」


 突然、その男性が獣のように口を大きく開き叫んだ。ポケットから小さなナイフを取り出し俺の方へと走ってくる。


(そのダウンジャケット。河川敷の時に俺を斬りつけてきた人だろ)


 俺はゆっくりとコートの袖の下で神器を隠す。それから体を落として構えた。


「ここ」


 神器を振り抜く。

 男性は突撃の勢いのままに俺の胸元を斬りつけようと出鱈目にナイフを振っている。


「ワッ! ワッ! ……ワ?」


 ようやく男性は自分で持っているナイフがおかしい事に気づいたようで動きを止め、ナイフを凝視していた。


「その先は……ここだよ」


 俺は屈んで近くに転がっていたナイフの刃の部分を拾い上げる。

 ポカンと口を開けたまま男性は固まった。

 俺が刃を背後の川へと投げ捨てると男性はそれを見て力が抜けてしまったようで床に座り込んでしまった。


(おそらく追いかけてくる事はない)


 俺は男性をここでこのまま放置する事にする事にした。


「よぉ! 久しぶりだな」


「え?」


 突然、俺は声をかけられた。

 見ると……あの時の借金取りの黒服がいた。相変わらずサングラスをしているので目は見えないが笑顔で手を上げてこちらに歩いて来ている。スーツの上からでも分かる筋骨隆々の体とあの時くらった人外級の蹴り。笑顔だが絶対に油断は出来ない、と緊張が走る。


「俺を蹴り上げた黒服じゃないですか。なんでここに?」


「ここに居て、お前はその服を着ている。だったら全部分かってんだろ?」


 男性は俺を指差した。

 「……教会を裏切ったのかもしれませんよ」と自分のコートを摘んで揺らす。


「冗談とは余裕そうだな。その服で散歩はなさそうだし一人で潜入捜査でもしてんのか?何か……ここの何かを知るための潜入捜査……なんだろうなー」


 黒服は顎に手を当てて考えているようなそぶりを見せるが、その口ぶりは何も考えていなそうなほどに軽い。

 それに対して「まぁ言っちゃえばそんな所ですね」と素直に頷いた。


「うーん。じゃあ、もしかして、こことネズミの繋がり……か?」


 黒服はニヤリと笑いながら俺を指差す。


「いえ、それは確信してます。ここと繋がりは必ずある。俺が知りたいのは今現在のネズミの居場所です。教えてくれません?」


 黒服は首を横に振り「残念ながら知らないな……もしかしたら、いい時間帯だし地上で暴れてるかもよ」と脅しのような内容に反し相変わらずその口調は軽々しい。


「だがよ。確信持たれてるなら黙ってて貰うしかないなー。どうせお前、旧教会後の所から来ただろ。お父さん信者だったもんな」


 黒服は「あそこさえ、閉じちまえば」とスマホを取り出す。

 咄嗟に神器を投げて俺はそのスマホを刺し飛ばした。


「おいー」


 黒服がサングラスの下で睨んでいるのが眉間に寄った皺でわかる。


「あの時、壁のシミにしとけば良かったなぁ」


 頭の後ろを乱暴に掻いてから黒服が構えた。それだけで怯んでしまいそうな圧がある。


「今回はもう不意打ちなんてくらいませんよ」


 そうかよっ、と黒服が飛び上がって拳を振り下ろす。

 すんの所で体を反って躱した。まともに喰らえば本当に真っ赤なシミになってしまうだろう、と分かる勢いの風が後から吹いてくる。

 俺は次の攻撃のタイミングに合わせて右の拳を黒服の顔面へと叩き込んだ。


「効かねぇな」


 頬を確かに捉えた一撃だったが、黒服は歪んだ顔でそう言ってニヤリと笑った。


「諦めたらどうだ。じゃあ俺には勝てない」


「……」


 足をかけようと絡めた俺の足がそのまま動かなかった。黒服の足が地面に埋まっているような感覚だった。


「あっ」


 偶然、黒服の裏拳が顔に当たり俺は吹き飛ぶ。幸いにも壁側に飛ばされた為、川には落ちなくて済んだ。


「にしても、どこでここだと気付いたんだよ? 偶然か? それとも教会はもう全部知ってんのか?」


「車がひっくり返った時にネズミに突かれた。あんたもいた時のやつだ。その時に嗅いだ」


「あのクソネズミのミスがここに響いてくるのかよ」


 最悪だな、と黒服は舌打ちをした。

 俺は一旦仕切り直す為、跳んでさらに下がり距離をとって「それにしても加護って何?」と聞いた。

 んな事も知らねぇのかよ、と黒服は呆れたような口調で言う。


「信者は神から加護を受けられる。基本だろ」


「加護の効果は身体の強化か?」


「そうだな。人によって効果はまちまちだが、基本何かしらの筋力が上がる。まぁ日本じゃようやく研究され始めた分野だし、それくらいしか……っていうかお前……教会の人間だろ。それで大丈夫なのか?」


「俺も今、自分が所属してる所を疑い始めてる」


「そうか。まぁだから加護なしじゃあ俺には敵わない。あの後ろで伸びてるあいつも本当は加護を受けてるはずなんだが……まぁあれは足が速いだけの雑魚だ」


 俺は「そうか」と答え手を伸ばして伸びをする。もちろん、もう一回挑むつもりだ。次はやれる。

 黒服は「おいおい」と小馬鹿にしたように言った。多分そのサングラスの奥で目を細くし笑っているのだろう。


「なぁ! これで人生、終わるのは惜しくないか?」


「と、言うと?」


「ここも一枚岩じゃない。あの日のような事故があるくらいだ。だけど俺はここの狂人どもも案外悪くないと思ってるんだ」


「……この町は思うのも信仰も自由だからね」


 自分で言いながら「そんな事はないけど」と心の中で否定する。


「自由なわけないだろ!お前の親父さんは……! 知ってるか、職につく時、一番初めに聞かれるのは所属してる宗派だ。どこでもこの街の信者だけが優遇される」


「知ってるよ。親父が変われなかった側なのも」


 職につけと支援をする役所の窓口で働いている人の全てが信者だ。教会の中にあるのだから当たり前だけど。職につくには改宗以外の道はない。


「じゃあ!」


「断る。そもそも親父とそんな感じじゃないのを見てるだろ。そこまで世話は焼かないよ」


 また、鬱陶しがられるかもしれないし。

 俺は「それに」と柔軟体操を終えて構える。


「身体の強化だけなら、余裕だ」


 人型を超えて腕を伸ばすとか、人知を超えて瞬間移動とかされると流石に無理だ。でも、その位なら俺は昔、倒した事がある。


「はぁ……若いねー」


 黒服は説得を諦めたようでググッと体を落とし沈むようにして構えた。あまり本気の誘いでも無かったようだ。


「行くよ」


 腕を振り上げ走り出す。黒服も同じタイミングで跳び上がり拳をかざす。

 顔を薙ぐように振るわれた一撃を鼻先で見送り躱し、続けざまに繰り出されるハイキックも顔を逸らして躱す。俺の伸びた髪を少し蹴り抜かれる。

 それに合わせて大きく振りかぶった左の拳が黒服の顔を薙ぎ払って大きく揺れた。


「だから効かねえって」


 そう言いながら黒服はコンクリートへ膝から崩れ落ちていく。


「あ!?」


 目を見張って何が起こったのかよく分かっていない様子で黒服は地面に伏せながら叫んだ。


「信仰心で人体の構造までは変えられないらしいよ」


 俺の一撃が刺さり確かに黒服の脳を揺らした。いわゆる脳震盪の状態にある。


「くっそ!」


 黒服はそう毒突いて立ち上がろうと手をつくものの体が思うように動かないようで寝たままだ。


「この街で生き抜くためには必要な技術だったから」


 悪魔だなんだと囁かれ、力自慢の奴らに狙われた学生生活を思い出しながら黒服の持ち物を川へと捨てていく。


「使えば良かったのに」


 腰に 五十センチを超える長さの刃物があった。ドス……だろう。


「子供が素手で俺が得物を使うなんて事が出来るかよ」


 黒服はハッと鼻で笑った。子供に合わせてお父さんと呼んだり、色々と真面目な人だ。

 ドスも川へと放り投げて立ち上がる。おそらくこれで持ち物は最後だろう。


(ここの清掃の時は俺も手伝わないとな)


 俺は神器を回収してから穴の空いたスマホを川へと投げ捨て先へと歩き出す。黒服は多分もう大丈夫だろう。


「あー!! タバコまで捨てるなよ!」


 そんな声が後ろから響いてきた。


(さらに開けたな)


 それからしばらく汚れた川を眺めながら先へと進む。


(誰か……いる)


 俺は地下道のさらに奥に赤い光と複数の人影を見つけた。

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