負け犬 3

「な!?」


「逃げてください」


「出来るわけないだろ! そんな事!」


 叫んで強くアマツカの腕を掴み引く。それでもアマツカはダラリと力が抜けたように座り込んだままだ。


「もう逃げられないんです。もう逃げちゃダメなんです」


 座り込んだまま首を横に振りそう言ってからアマツカは俺の方を見上げた。涙を流しながら、その目は縋りつくような目をしていた。命を賭けた、重たい目だった。


「だから逃げてください」


「チュチュ」


 振り返るとネズミと再び目があった。ネズミがこちらに長い牙を見せながら口を開く。開けた口で粘ついたよだれが糸を引いていた。


「くっそ!」


 ネズミが飛びかかってきたのを咄嗟に俺はアマツカを抱えて道路を転がって躱した。

 幸いコートがほとんどの衝撃を肩代わりしてくれたようで勢いよく転がった俺に傷はない。腕の中のアマツカもおそらく大丈夫だろう。


「アマツカ、頼む、逃げよう」


 キドウさんやチームの先輩たちのように俺は出来ない。

 この状況でアマツカを無理矢理背負って逃げられるとも思えない。


「出来ないんです」


「もしかして……足でもやったのか?」


 俺の呼びかけにアマツカは項垂れ顔を横に振った。それに合わせて顔にかかった髪を大きく揺れる。


「なら、どうして」


「きっとあの人ならネズミを前にしても……逃げない」


「何を言って……


 刹那、俺は空を舞っていた。

 右腕に鈍い痛みがある。それを抑える前に道路に落ちて、衝撃で呼吸が止まり、何度か跳ねてから住宅の壁にぶつかって止まる。


「……アマツカ」


 地面に転がったままアマツカを探す。

 慌てた顔をしながらアマツカがこちらの方へ走ってきていた。どうやら突き飛ばされたのは俺だけのようだ、と分かりホッと息を吐く。


「先輩! もう……逃げてください。お願い……」


 涙を流し叫びながら俺の側の地面へ座り込んでコートの袖を摘む。


「一応……無病息災の神符です。気休めくらいには……」


 そう言って取り出しアマツカは先程、突かれた右腕によくわからない文字の書かれた紙をつける。

 その瞬間、神符が淡く光っていた。若干だが痛みが和らいだ気がしなくもない。右手を握ったり開いたりして動きを確かめる。少し震えているものの問題なさそうだ。


(俺は痛いのも、苦しいのも、辛いのも、嫌だ)


 俺は震える膝を手で押さえつけながら立ち上がる。


(だからって、ここで逃げられるわけないだろ)


 だったらもうやるしか無い。

 落ち着いて弱点の核を探す事。そして何よりアマツカを守ること。もう既に通報が言っているはず。後は耐えれば異端審問官がやってくるだろう。

 息を吐き出し頬を叩く。正念場だ。気合を入れろ。


「離れててアマツカ」


「先輩」


 か細いそんな声が背後から聞こえてきた。

 俺はネズミと対峙して拳を構える。

 幸い手足の震えは完全に止まっていた。アドレナリンが効いてきたのだろう。


「死んだら後、追いますから」


 背後からの叱咤激励しったげきれいに俺は「死なせるわけないだろ」と返す。

 俺も死にたくないし。

 ネズミの虚ろな赤い目が対面した俺を真っ直ぐ捉えていた。


「チュチュッ!」


 予備動作のない、不意打ちの頭突きが飛んでくる。

 俺は体を捻ってギリギリで避けると同時に拳を突き出す。


「効いた気がしないな」


 思わず舌打ちしていた。

 硬い毛に打撃の衝撃が散らされている。

 少なくとも刃物、リーチのある槍とかじゃないと。


「あっぶね」


 爪で引っ掻いてくるのを避ける。まともに建物に傷をつける威力の爪なんて受ければ……


「先輩!」


 悲鳴のような声が聞こえ、俺は頭に強い衝撃を受け吹き飛ばされていた。首元に鋭い痛みが走る。

 駆け寄ろうとしていたアマツカを大丈夫、と手で抑え立ち上がった。


(……油断した)


 爪を振った勢いのまま体を捻って尻尾で打たれたようだ。

 人間同士の格闘戦にはないもので予想できなかった。


(生身の体が神性体には効く……だったよな)


 靴を脱いで裸足になった。少しずつ視野が広がって冷静さを取り戻しつつある。


(核の場所は動物っぽい見た目やと頭か腹)


 まずは……

 ネズミが口を開いて飛びかかってくる。


「頭!」


 体を捻りながら跳び上がりネズミの頭、目がけて踵を落とす。


「ってぇ!」


 飛んできたネズミを地面に叩き落としたものの鈍い痛みが右足に響く。

 神性体にも骨らしきものがあるらしい。分厚いそれを思いっきり叩いた。


(今はアドレナリンでなんとかなっているが……大丈夫か、これ)


 打った時以上の痛みはないが、今も右足が震えている。

 しかも……


「チュチュ」


 ネズミには効いてない。

 変わらない様子でこちらに爪を振るってくる。


「くっそ」


 俺は尻餅をつくように後ろに倒れて、爪を往なす。

 右足の動きが鈍っている。想像以上にやりづらい。


「やべ」


 ネズミが口を開き噛みついてくる。

 俺は咄嗟に腕を前に出し頭を庇った。

 ネズミの歯が近づき……その攻撃は大きく逸れた。


「アマツカ!?」


 アマツカがネズミの鼻先へ体当たりをしてくれたおかげで俺の腕が飛ばずに済んだらしい。


「先に死なせたりしませんから」


「……ありがとう、助かった」


 俺はアマツカへお礼を言って、手を借り立ち上がる。

 そのまま逃げてくれたら良いが、何か逃げださない理由があって、そうもいかないのだろう。

 だが片足がこれでは倒せるどころか避け続ける事も怪しい。

 爪で引っ掻くような攻撃。それを俺は道路を転がってなんとか躱したものの……


「くっ」


 起き上がる隙を与えないように何度も踏みつけてくる。

 それを俺は這って進みながら転がって躱す。


(仲のいい幼馴染は俺の知らない誰かのために命をかけてて、狂信者なんて言った人たちが来るのを必死になって待ってる俺は……)


「何ともまぁ……見事な負け犬だ」


 地べたを這いつくばりながら乾いた笑いが思わず出ていた。

 その時、俺の進む先で影が動いた。

 顔を上げ、俺は咄嗟に前へ倒れ込むように立ち上がり、ネズミの前へ立ち塞がったアマツカを抱き抱えて地面にまた倒れた。立ち上がった瞬間に分かった。右足に走る痛み。これではまともに走れない。


「グッ」


 ネズミの爪が両肩の肉に食い込み激痛が走った。俺は奥歯を噛み締め堪える。押さえられた両肩にネズミの体重がのし掛かって……


「ここから出て逃げろ」


 腕の下にいるアマツカへ声をかけた。死力を尽くしたけれど、こうなったら俺はもう無理だ。見るとアマツカの制服が破れて汚れている。腕も擦り剥いたようで血が出ている。いつもは綺麗な髪も今は散らばってしまっていた。


「いや……いや……」


 何度も呟きながら怯えたような表情で首を横に振っている。ごめん、と謝った時、額から流れる血が目に入り鋭く痛んだ。視野が赤く歪む。

 肩に掛かる重みがさらに増す。呻き声が口から漏れた。俺を食らうため、頭を移動させたのだろう。


「ヂッ」


 突然、背中からネズミの体重が無くなった。

 振り返ると仰け反った姿勢のネズミ。その頬には一本の矢が見えた。


「大丈夫か!」


 声の方向を見ると黒いフードを被った人たちがこちらへ駆け寄って来ていた。呼んでいた異端審問官たちだろう。


「ネズミが」


 と、振り向くともうすでに暗がり中へと消えていた。逃げ足が早すぎる。


「追うのはやはり無理か」


 背後からそんな呟きが聞こえる。


「先輩……」


 腕から抜け出し項垂れているアマツカに「大丈夫」と答えてから


「助かりました。ありがとうございました」


 と、よろけながらもなんとか立ち上がり来てくれた異端審問官たちに頭を下げた。


「アマツカ、とりあえず病院行こう。怪我してるし」


 立ってみるとやはり右足が痛んだ。手伝います、とアマツカが横で支えてくれる。


「その前に君は……どこの部隊かな?」


 俺は足を止め、振り返る。


「第十席、キドウさんの所です」


 鼻をフッと鳴らし冷ややかな笑みを浮かべながら「まだ探してたんだ。必死だな」と嫌味ったらしい口調で言った。


「え?」


「君らがこのネズミの担当なのにさっさと見つけないから、こんな大惨事になったんだよ。他に大切な仕事もあるのに僕ら第七席まで巻き込まれて」


「……」


「それで今回の大チャンスも取り逃がすって……人の命かかってるの分かってる?すでに五人亡くなってるんだよ?」


 俺を睨む第七席の人を隣のチームメイトらしき人が「もういいよ」と止めに入った。


「第十席だもん」


「それでも素手って、異端審問官のコスプレデートだろ。あり得ない。仕事舐めてる」


 アマツカが「先輩は何も気にしなくて良いです。病院、行きましょう」と隣から声をかけてくる。

 俺は頷いて、その場から立ち去った。不謹慎ながら思う。コスプレデートだったらどれだけ良かっただろう。


(やめるか……この仕事)


 寮へ帰り、事情聴取を受けた後、キドウさんに話を通そう。借りたお金は少し待ってもらって、何が何でも返す。


(……それでいい)


 返した後は……どうしよう。相変わらずその答えは出ない。


「先輩……すみませんでした。謝ってもどうにもならないとは思うんですけど」


「謝らなくていいよ。俺がしたくてした事だから」


 俺は冷たくそう言い放つ。それは全て俺の本心で、今も二人で生き延びられて良かったと思っている。

 だけど……アマツカには


(他の思い人がいて……その人のために命をかけてる)


「あの人なら逃げない」とアマツカ言っていた。おそらく、アマツカには凄く憧れている誰かがいるのだろう。その俺の知らない誰かのおかげで俺はアマツカに助けられた。


(生きてるだけで儲けもの……なのになぁ)


 なんとなく腕を摩った手のひらに紙が当たる。

 そういえば、あれからだいぶ腕の痛みがマシになっていた。どうやら本当に効果があるようだ、と紙を見ると赤黒く変色していた。淡い光も消えていて、この神符は役目を果たし終えたのだろう。


「遅れたけど、ありがとうアマツカ。助かった」


 神符だけじゃなく色々と。


「やめて下さい」


「……」


「今は……優しくしないで」


「……ごめん」


「自分の馬鹿さがほんと嫌になるんです」


 アマツカは吐き捨てるような乱暴な口調で言った。


「憧れてる誰かがいるんだろ? 良いじゃん。真っ直ぐで」


「憧れ……というか」


 アマツカが言葉を選ぶように少し間が開く。


「私の心臓のような人なんです」


 少し前の俺の発言から取ったのだろう。

 俺はなんとか「……そっか」とだけ返した。


「その人は自分の命と引き換えに私を生かしてくれました。ユウコクさんという方で、神前隊長をしている方のお母様なんです」


「……うん」


「差別をしない高潔な方でした。きっと、あの人なら逃げない。あの人から貰った命で私は逃げられない。逃げ出した私はもう10年前に死んだんです」


「……」


「今の私は……ゾンビみたいなもので、助けなきゃって思ったら何も考えずに前へ前へ走り出す。せっかく貰った命を雑に使って、人を巻き込んで……ほんと……馬鹿で」


 嫌に……なります、とアマツカは立ち止まり項垂れて呟いた。

 確かに、つい数日前の工事現場の時といい、昔からアマツカは人助けの時、一切の躊躇いがない。


「付き合いきれ……ませんよね」


 俺はしゃがみこんで大きく息をため息を吐き出した。

 どうやらアマツカの思い人は既に亡くなっている方らしい。良くないけど、良かった。


「先輩?」


 俺は一度さらに深く俯いて袖で僅かに濡れてる目元を拭う。


「アマツカ」


 それから二つの足で立ち上がり、俺より頭一つ分ほど低い所にいる君の名前を呼んだ。


「はい」


「知らないのか。俺は君を超える大馬鹿野郎だぞ」


 自分の胸を親指で指差しながら大きな声で言い切る。


「……え」


「俺はアマツカよりもっと下らない理由で、自分の命かけて人も巻き込んでる。そして多分、今後も……きっと巻き込む」


 君が許す限りは、なんて言えないけれど。

 アマツカはうっすらと笑って


「お互い……大馬鹿だったんですね」


 と言ってから、その笑顔がくしゃりと歪んで、嫌にも泣き出しそうな顔になる。


「良かったぁーーー」


「アマツカ?」


「先輩、凄い素っ気ない態度するから……ついに嫌われたのかと思いました!!」


 怒ったように言いながらアマツカは壁の方を向く。それからビーッと鼻をかんだ。

 そんな背中を見ながら苦笑いを浮かべ、ごめん、でもそんなわけないだろ、と応えた。そもそも命がけでアマツカを止めるのは何度かもう既に経験している。今回ほどヤバかった事はないけれど……


(生きてるだけで儲けものだ)


 安心したら右足が痛いのを思い出した。


「あー……さっさと病院行こう」


「はい。そういえば、先輩のもっと下らない理由ってなんですか?」


「え?」


「スーパーヒーローになりたい、とか……?」


 と、首を傾げている。


「もしかして……」


「いやっ……あのーもうそれ以上の詮索は……」


 こう……冷静になってくると言いづらい。

 しかも言い当てられると超ダサいやつ。


「エッチな」


「うーん! 全然違うけど、もうそれで良いよ!」


「えー!」


「また機会があれば、ちゃんと言うから」


「約束ですよ?」


 頷いて返す。ちょうど電灯の下だった為か、見上げてくるアマツカの顔が少し眩しく見えた。

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