第四話「見られている —後編—」

真弓が踏み出した一歩の向こうは、理佳のマンションの部屋だった。扉が背後で閉まる音がする。振り返ると、出てきたはずの扉はそこになかった。ただの壁になっていた。


「篠田先生?」声を上げるが、返事はない。


真弓はスマートフォンの画面を確認した。バッテリーは8%。「監視」アプリはまだ開いたままで、複数の部屋の映像が映し出されている。しかし今、それらの映像は自分がいる部屋を映している。つまり自分自身を監視しているのだ。


部屋は昨日見たときよりも荒廃していた。埃や蜘蛛の巣が増え、家具は腐食が進んでいる。時間の流れが異常なのだ。空気中には古い紙と湿った土の匂いが漂っている。


「理佳さん?」真弓は慎重に部屋の中を進んだ。


寝室に向かう途中、真弓は壁に貼られた写真に気がついた。母親と理佳の写真。その隣には…真弓自身の写真。オフィスで撮影されたもののように見えるが、真弓にそんな記憶はない。そしてその写真には理佳も映っている。二人が並んで笑っている。


「これは…」


写真の隣には監視カメラのモニターが設置されていた。そこには真弓のアパートの様々な角度からの映像が映っている。キッチン、リビング、寝室、浴室。それぞれに日付のタイムスタンプがあり、過去数週間分の映像が記録されているようだ。


「私のアパート?こんなカメラ、設置した覚えはないのに…」


真弓がモニターに近づくと、突然すべての画面が切り替わった。今度は病院の映像。真弓が眠っている病室、廊下、ナースステーション。すべて現在進行形で動いている映像だ。


病室のベッドには自分が横たわっている。そして、その横には篠田医師が立って何か話している。看護師が点滴を調整し、心電図のモニターには規則正しい波形が表示されている。


「これは…私?」


混乱する真弓の背後から、かすかな足音が聞こえた。振り返ると、寝室のドアが開き、理佳が現れた。昨日よりもさらに蒼白く、目の下のクマが濃くなっている。しかし同時に、どこか安らかな表情も浮かべていた。


「真弓さん、来てくれたんだ」理佳の声は以前より明瞭だった。


「理佳さん…何が起きているの?あのモニターに映っている私は…」


理佳はゆっくりと近づいてきた。「現実の姿よ。病院でまだ眠っている。あなたの意識だけがここにいる」


「私の身体は…病院に?」


「ええ。篠田先生もそこにいる。心配しているわ」理佳は淡々と説明した。「あなたは廊下で突然意識を失った。篠田先生は救急処置をして、今、集中治療室であなたを診ている」


真弓はモニター画面を再び見た。確かに自分が病院のベッドに横たわっている。傍らでは篠田医師が懸命に処置をしている様子。画面の隅には時刻が表示されていた。現在時刻と一致している。


「私の意識だけがここにいる…」真弓は混乱しながらも状況を理解しようとした。「でも、なぜこのモニターには私のアパートも映っているの?」


理佳は悲しげに微笑んだ。「私も最初は理解できなかった。お母さんの気持ち。でも今はわかる。見ていたいという衝動」


「どういうこと?」


「お母さんは私を常に見ていたかった。病気のせいもあったけど…それは愛情だったの。孤独だったから」


理佳は壁の写真に近づいた。「そしてお母さんが亡くなった後、私は同じことをした。でも私の場合は、罪悪感からだった。あなたを見るようになった。あなたが私の最後の電話を受けた人だから」


真弓は驚愕した。「私を見ていたの?」


「あなただけが私の記憶を持っている人。たとえそれが短い電話だったとしても」理佳は続けた。「私の死後、母との関係性が繰り返されているの。見る者と見られる者の関係。それが302号室の本質」


理佳は壁に触れながら、さらに説明を続けた。「302号室は時間が存在しない場所。ここでは死者も生きているように感じる。でも正確には、この部屋は現実には存在しない。強い感情が生み出した意識の交差点。母と私の、そして今はあなたの意識が重なり合う場所。孤独な魂が互いを見つめ合うための空間なの」


理佳の言葉が途切れた。部屋の温度が急激に下がる。クローゼットのドアがゆっくりと開き、白い姿が現れる。理佳の母親だ。


「お母さん…」理佳の声に恐れはなかった。


母親—典子—はゆっくりと近づいてきた。その目には深い悲しみと孤独が映っている。白い病院着のような服を着た典子は、歩くというより浮いているように見えた。


「理佳…また誰かを連れてきたのね」典子の声は責めるようでありながら、どこか寂しげだった。


「真弓さんは特別な人。私の最後の繋がり」理佳は答えた。


典子は真弓をじっと見つめた。その目には怒りや恨みではなく、理解と共感が浮かんでいた。「あなたも孤独なのね」


その言葉に真弓は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。確かに自分も孤独だった。大学卒業後の就職先でうまくいかず、現在の職場でも本当の意味で心を開ける相手はいなかった。その空虚感が、理佳という幻の友人を受け入れる素地になっていたのかもしれない。


「私は…」


典子が真弓に歩み寄った。「怖がらないで。私たちも最初は怖かった。でも、ここにいると、もう孤独ではなくなる。永遠に見て、見られる関係の中で」


「永遠に?」


理佳が答えた。「302号室は時間が存在しない場所。ここでは死者も生きているように感じる。でも、それは幻想」


典子が理佳の肩に手を置いた。二人の姿がわずかに重なって見える。まるで同化しているかのように。


「私たちはもう一つ」典子が言った。「母と娘の境界も、生と死の境界も、ここではない」


真弓は二人の姿を見つめた。恐怖を感じながらも、不思議な引力も感じていた。この状態には安らぎもあるのだろうか。永遠に誰かと繋がり、見て、見られる関係。完全な孤独からの解放。


「あなたも選べる」理佳が手を差し伸べた。「このまま私たちと一緒にいることも、戻ることも」


真弓は立ち止まり、思考を整理しようとした。「待って。これが現実じゃないなら、私はどうやって戻れるの?」


「簡単なこと」理佳は壁のモニターを指さした。「あなたの体は今、生きている。意識だけが302号室に来てしまった」


モニターでは、篠田医師が真弓の瞳孔を照らして確認している様子が映っていた。看護師たちが忙しく動き回り、心電図のアラームが鳴っている。


「時間がないわ」理佳が言った。「もうすぐ篠田先生はあなたに薬を投与する。そうすると、私たちの繋がりは切れてしまう」


真弓はスマートフォンを確認した。バッテリーは3%。「これは…私の命の残り時間?」


「そうとも言えるわ」理佳は頷いた。「スマートフォンは私たちを繋ぐ媒体。バッテリーが切れると、あなたの意識は完全にこちらに来てしまうか、あるいは…」


「あるいは?」


「現実に戻るか」典子が口を開いた。「あなたの選択次第よ」


真弓は迷った。自分のスマートフォンを見つめながら、モニターに映る病院の映像と、目の前の理佳と典子を交互に見つめた。


典子が理佳の手を取り、二人が寄り添う姿に、真弓は何かを感じた。二人の表情には恐怖や苦しみではなく、ある種の安らぎが浮かんでいた。


「私たちはもう大丈夫」理佳が言った。「最初は怖かった。お互いを監視し合うこの関係が。でも今は…」


「理解しています」典子が理佳の言葉を継いだ。「監視は愛情だったの。私の歪んだ愛情表現が…」


「お母さんは一人だった」理佳が母の手を握りしめた。「私も同じ。だから互いを見続けていた」


二人の間には確かに深い絆が感じられた。死後も続く、歪みながらも確かな愛情。


真弓は自分自身の孤独に思いを馳せた。いつから人との繋がりを避けるようになったのだろう。仕事に没頭し、表面的な関係だけを維持して、本当の自分を見せないように生きてきた。


篠田医師の声がモニターから聞こえてきた。「成瀬さん!聞こえますか?何とか反応を!」


真弓は決断を迫られていた。このまま302号室にとどまり、理佳と典子と共に「見る/見られる」永遠の関係に入るか、それとも現実に戻るか。


理佳が真弓の手を取った。その手は冷たいが、奇妙な温かさも感じる。「監視のループを断ち切るの。見ることをやめれば」


「見ることをやめる?」


「スマートフォンを置いて。カメラを通して見るのをやめて」理佳の目には涙が浮かんでいた。「さようなら、真弓さん。私を忘れてもいい」


真弓はスマートフォンを見つめた。確かにすべては画面を通して見えていた。302号室も、理佳も、典子も。スマートフォンを通さなければ何も見えない。それがカギだったのか。


「でも、あなたを忘れたくない」真弓は涙を流した。


「覚えていてくれるなら、それでいい」理佳が微笑んだ。「でも、もう見なくてもいい。監視するのをやめて」


その言葉に、真弓は決断した。ゆっくりとスマートフォンを床に置く。


「さようなら、理佳さん。あなたのことは忘れない」


スマートフォンを置いた瞬間、部屋が揺らぎ始めた。理佳と典子の姿が徐々に透明になっていく。だが、最後の瞬間、二人は微笑んでいた。母と娘が手を取り合い、互いを見つめ合う姿。その表情には怖れではなく、和解の色が浮かんでいた。


「ありがとう…」理佳の最後の言葉が聞こえた。


真弓の視界が暗くなり、意識が遠のいていく。


---


「成瀬さん!成瀬さん!」


声が聞こえる。男性の声。そして明るい光。真弓はゆっくりと目を開けた。


「良かった!意識が戻りましたよ!」


篠田医師の顔が見える。その背後には数人の看護師。白い天井。消毒液の匂い。滴る点滴の音。病院だ。


「先生…」真弓の声はかすれていた。


「びっくりしましたよ。突然倒れて、そのまま意識が戻らなくて」篠田医師は安堵の表情を浮かべた。「血圧が急激に下がって、一時は危険な状態でした」


真弓はぼんやりと周囲を見回した。自分は病院のベッドに横たわっている。正確には横たわっていた。昏睡状態から突然目覚めたところだ。


「マンションで…」


「ええ、マンションの廊下で急に倒れたんです。幸い私がそばにいたので、すぐに救急処置ができました」


「何が起きたの?」


「急性の脳血管攣縮による一時的な脳虚血で、意識障害を起こしていました」篠田医師は専門用語を噛み砕いて説明した。「極度のストレスやショックで起こることがあります」


医師の言葉は途切れ途切れに聞こえた。真弓の意識は別の場所にあった。理佳と母親のいた302号室。二人の最後の表情。


篠田医師が看護師たちに指示を出し、彼らが退室した後、医師は椅子に腰掛けた。


「成瀬さん、何か見ていましたか?」医師が静かに尋ねた。「昏睡中の夢や幻覚は時々あるものです」


真弓は瞬時に答えを決めた。「何も。何も見えませんでした」


医師は不思議そうに首を傾げた。「本当ですか?廊下で倒れる前、あなたはスマートフォンで何かを見て、『見える』『理佳さんがいる』と言っていましたが」


真弓は黙った。


「私も…何か感じました」篠田医師の声は静かだった。「あの廊下には何かが…いましたね」


真弓は驚いて医師を見つめた。


「医師として言うべきではないのかもしれませんが」篠田医師は言葉を選びながら続けた。「あの瞬間、私にも何かが見えました。二人の人影が…」


「先生も?」


「ええ、ほんの一瞬でしたが」医師は首を振った。「医師として約30年間、私は全てを科学で説明できると信じてきました。統合失調症も、幻覚も、全て脳内の化学物質の不均衡だと教えてきた。しかし…」


篠田医師は窓の外を見つめた。「時に医学では説明できないことがある。人間の意識や感情の力は、私たちが考えるよりも遥かに強大かもしれない。特に、強い後悔や愛情、孤独感といった強烈な感情は…」


医師はハッとしたように我に返った。「すみません。非科学的な話をしてしまって」


「いいえ、先生」真弓は静かに言った。「理佳さんと…お母さんですね」


「そうかもしれません」篠田医師は立ち上がった。「もう十分休みましたか?ナースステーションに立ち寄って、あなたの持ち物を取ってきますね」


医師が部屋を出た後、真弓は窓の外を見つめた。夕暮れが始まっている。あれから何時間経ったのだろう。


まもなく篠田医師が戻ってきた。手にはビニール袋に入れられた真弓の持ち物。


「これを」医師はビニール袋を差し出した。「あと、これも」


もう一つ、小さな紙袋を渡す医師。真弓が中を覗くと、一台のスマートフォンが入っていた。しかし、それは自分のものではない。


「これは?」


「マンションの廊下で見つかりました。あなたのスマートフォンではないんですか?」


真弓は首を振った。「私のはもっと新しいモデルで…」


袋から取り出したそのスマートフォンは、明らかに古いモデル。電源ボタンを押してみると、驚くことに画面が点灯した。


ロック画面の壁紙は理佳と母親の写真だった。


篠田医師も驚いた表情で画面を覗き込んだ。「佐伯さん…」


画面をスワイプすると、パスコードは求められず、ホーム画面が表示された。そこには一つのアプリのみ。「さようなら」という名前のアプリ。


医師との視線を交わした後、真弓はそのアプリを開いた。


画面には短いメッセージが表示されるだけだった。


『見てくれてありがとう。もう大丈夫』


そして、アプリが自動的に閉じ、スマートフォンの電源が切れた。再び電源を入れようとしても反応はない。バッテリーが完全に切れたのだ。


「何だったんでしょう」篠田医師が首を傾げた。


「さよならのメッセージです」真弓は静かに答えた。


---


その日の夕方、退院した真弓は自宅アパートへ向かった。篠田医師からは十分な休息を取るようにと言われていた。


アパートに着くと、ドアを開ける前に深呼吸をした。何があるか分からない不安があった。扉を開け、部屋に足を踏み入れる。


普段通りの景色。何も変わっていない。しかし、テーブルの上に一通の手紙が置かれていた。差出人の名前はない。


手紙を開くかどうか迷った真弓。理佳の「見ることをやめれば」という言葉が頭に浮かぶ。しかし、最後に一度だけ、と思い手紙を開封した。


中には一枚の古い写真。理佳と母親が笑顔で写っている。母親が健康だった頃のもののようだ。その裏には手書きのメッセージ。インクがところどころ滲んでいる。


『見てくれてありがとう。もう大丈夫。二人でこれからは互いだけを見つめていくから』


最後の数文字はかすれていて、涙の跡のようにも見える。


真弓は微笑み、写真を元の封筒に戻した。そして窓を開け、夕暮れの風に乗せて空へと放った。写真は風に舞い、やがて見えなくなった。


部屋に戻った真弓は、ビニール袋から自分のスマートフォンを取り出した。よく見るとバッテリーはすでに切れている。充電器に繋いでも反応がない。


新しい電池に交換するか、新機種に買い替えるべきだろう。しかし今は、それも急ぐ必要はない気がした。


真弓はベッドに横になり、天井を見上げた。閉じた瞬間、耳元でかすかに聞こえる声。


「ありがとう…」


母と娘の声が重なり合う。もう恐怖はない。安らぎだけがある。


真弓は微笑んだ。明日、篠田医師に電話をかけよう。彼とお茶でもしながら、今回の出来事について話せるだろうか。一人ではなく、誰かと記憶を共有したい。


「お互い、もう見なくていいね」真弓は囁いた。


窓から差し込む月明かりが部屋を優しく照らす中、真弓は安らかな眠りに落ちた。


もう誰も、呼び鈴を鳴らさない。


—— 終 ——

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呼び鈴は鳴っていない セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon

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