第三話「見られている —前編—」

午前7時、松本病院の一室。


真弓は重たい瞼を開いた。意識が戻ってきても、体はまだ自分のものではないような違和感があった。白い天井。消毒液の匂い。規則的に鳴る機械音。


「成瀬さん、目が覚めましたか?良かった」


白衣を着た看護師が真弓の顔を覗き込んでいる。彼女の首にはデジタル体温計と聴診器がかかっていて、手には血圧計を持っている。


「ここは…?」かすれた声が喉から漏れた。


「松本病院です。昨晩、アパートの玄関前で倒れているところを発見されました」看護師は淡々と説明しながら、真弓の腕に血圧計を巻き始めた。


看護師の言葉を聞いても、実感が湧かない。頭の中には断片的な記憶。理佳のマンション。301号室と303号室の間の壁。そして存在しないはずの302号室。理佳と彼女の母親が並んで座る姿…。


真弓は唐突に恐怖を感じた。それらの記憶は夢だったのか。それとも…。


「何時に発見されたんですか?」声が震える。


看護師はデジタル表示された血圧の数値をチェックしながら答えた。「深夜2時頃だそうです。お隣の方が物音に気づいて廊下を確認したら、ドアの前で倒れていたとか」


2時。またあの時間。偶然ではないと真弓は確信した。


「私のスマホはどこですか?」言葉が焦りを帯びる。


「お持ち物はすべてそちらのロッカーに入っています」看護師は部屋の隅にあるロッカーを指さした。「渡邊先生がもうすぐ回診に来られます。検査の結果、特に異常はありませんでしたが、念のため今日一日は経過観察させていただく予定です」


看護師が体温計で検温を終え、カルテに記入してから部屋を出た。廊下では他のスタッフとの会話が聞こえる。「302号室の患者さん、意識戻りましたよ」


真弓は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。302号室。この病室の番号も302なのか。


真弓はゆっくりとベッドから起き上がり、ロッカーからスマートフォンを取り出した。手が小刻みに震えている。電源を入れると、画面に複数の通知。すべて理佳からのメッセージだった。


最初のメッセージは昨晩のもの。

『見て。私たちのこと』


二つ目のメッセージは今朝の午前5時12分。

『こっちには時間がないの。すぐに来て』


最後のメッセージは10分前のもの。

『篠田医師を探して。母の主治医。彼が全てを知っている』


真弓は深呼吸をして、メッセージに返信した。

『理佳さん?本当にあなた?昨日見たものは何だったの?』


送信ボタンを押した瞬間、「送信できません」というエラーが表示された。理佳の連絡先が消えている。真弓の心臓が高鳴った。


「これは本当に起きていることなの?」と自分に問いかける。手の甲を強く摘まんでみる。痛みはある。夢ではないらしい。でも、この「現実」は本当に現実なのか?


病室のドアが開き、中年の医師が入ってきた。白衣のポケットには「渡邊雄一」と書かれた名札。


「成瀬さん、お調子はどうですか?私は担当医の渡邊です」


「あの…この部屋は何号室ですか?」真弓は唐突に尋ねた。


医師は少し不思議そうに答えた。「こちらは306号室ですが…何か?」


306。302ではない。真弓は小さく安堵のため息をついた。


「成瀬さん、昨夜の記憶はありますか?」医師が尋ねる。


「アパートに帰ろうとして…その後は…」真弓は首を振った。


「玄関前で倒れていたところを発見されて救急搬送されました。脳のMRIと血液検査の結果、脳血管の一時的な攣縮による血流低下があったようです。いわゆる一過性脳虚血発作ですね」


医師は説明を続けた。「ストレスや過労が原因の場合も多いんですよ。最近、何か心配事はありましたか?」


真弓は言うべきか迷った。理佳のこと。302号室のこと。白い女性のこと。すべて話せば、きっと精神科の診察を勧められるだろう。


「特には…」真弓は言葉を濁した。


「そうですか。では、今日一日入院して様子を見ましょう。明日、問題なければ退院できます」


医師が出ていった後、真弓は窓の外を見た。晴れた冬の朝。普通の病院の風景。しかし何かが違う。廊下から聞こえる話し声や足音が、どこか遠くから届いているように感じる。まるで薄い膜越しに世界を見ているかのようだ。


---


午後2時、真弓は病院を抜け出していた。


渡邊医師の「安静にしてください」という指示を無視し、病室の外に出た真弓。行き先に迷いがあった。理佳のマンションに戻るべきか。それとも理佳が言っていた篠田医師を探すべきか。


真弓はスマートフォンで「篠田 医師 松本病院」と検索した。すぐに結果が表示される。篠田徹、神経内科部長。真弓は驚いた。自分が今入院しているのと同じ病院だったのだ。運命的な出会いか、それともすべては最初から仕組まれていたのか。


エレベーターで5階の神経内科へ向かう真弓。受付に座っている看護師に声をかけた。


「篠田先生はいらっしゃいますか?」


「今日の外来は終了しましたが…あ、ちょうどそちらにいらっしゃいます」


看護師が指さす方向には、グレーの髪の中年男性医師が歩いてきていた。苦労の跡が刻まれた表情だが、その目には優しさが宿っている。真弓は迷わず声をかけた。


「篠田先生ですか?少しお時間いただけませんか?」


篠田医師は不審そうに真弓を見つめた。「私は篠田ですが…」目が真弓の病院の腕輪に留まる。「あなた、入院患者さんですね?」


「成瀬真弓と申します。友人の佐伯理佳さんのことでご相談が…彼女のお母様の主治医だったと聞いて」


篠田医師の表情が変わった。「佐伯…?」その名前に明らかな動揺を見せた。長年医師をしてきた人特有の、感情を抑える習慣が一瞬崩れたように見えた。


医師は周囲を見回し、通りかかった看護師に「少し診察室を使います」と告げて、真弓を脇の小さな診察室に案内した。扉を閉める音が妙に重々しい。


「佐伯理佳さんとお母様のことをどこでお聞きになったのですか?」篠田医師の声は慎重だった。


「理佳さんは私の同僚で友人です。彼女から…あなたに会うように言われました」


篠田医師は眉をひそめ、深い溜息をついた。「佐伯典子さん、確かに私の患者でした。5年前に亡くなられました。脳卒中でしたが、発見が遅れて…」


「はい、それは聞いています。でも理佳さんのことは?」


医師は言葉を選ぶように間を置き、「彼女もまた不幸な形で亡くなられています」と静かに答えた。


真弓は凍りついた。やはり理佳は…。それでも、心のどこかでそうだろうと予感していた。しかし、実際に確認することで、冷たい現実が胸に突き刺さる。


「どういうことですか?」声が震えた。


「佐伯理佳さんは、母親が亡くなった同じ日に自殺されました。母親の助けを求める電話を無視したことを激しく後悔されて…」


篠田医師は立ち上がり、診察室の隅にあるキャビネットからファイルを取り出した。古びたカルテだ。「これは医療倫理に反するかもしれませんが、あなたがこの件に関わっているなら知っておくべきでしょう」


医師の手は少し震えていた。5年前の記憶が、昨日のことのように鮮明に蘇っているかのようだ。


医師がファイルを開くと、そこには理佳と母親の写真が貼られていた。典子の写真は病院のIDカード用のもので、硬い表情。しかし目には言いようのない寂しさが浮かんでいる。


「典子さんは最期の日、娘さんに何度か電話をかけています。典子さんは娘さんとの関係を改善したいという強い思いがあったようです。特に入院してからは」


「入院?」


「ええ、典子さんは統合失調症で、幻聴や妄想に苦しんでいました」篠田医師は言葉を選びながら続けた。「特に『娘が見ている』という妄想が強く、『娘が監視している』と言って怯えることもありました」


真弓は息を飲んだ。「娘が見ている…」


「彼女の症状は一般的な被害妄想の範疇でしたが…」医師は少し言葉を濁し、「退院直前には『理佳はいつも私を見ている。カメラを通して』と具体的になっていました。病状の悪化だと判断していたのですが…」


篠田医師は窓の外を見つめた。冬の陽光が彼の疲れた顔を照らしている。「医師として言うべきではないのでしょうが、時々、私たちの理解を超えたことが起きていると感じることがあります。特に統合失調症の患者さんの中には…」


医師は言葉を切り、首を振った。「いいえ、科学的には説明できないことです。忘れてください」


「でも、それは本当だったのかもしれないですね」真弓は思わず言った。


医師は驚いた表情を浮かべた。「どういう意味ですか?」


「いえ、何でもありません」真弓は慌てて言い直した。「続けてください」


篠田医師は再びカルテに目を落とした。「典子さんは退院の日に具合が悪くなり、自宅で倒れました。そのとき娘さんに電話をかけたのですが…」


「理佳さんは出なかった」真弓が言葉を継いだ。


「そうです。そして典子さんが発見された翌日、理佳さんは…」医師は言葉を濁した。「理佳さんはマンションの自室で静脈を切って亡くなりました。遺書には『お母さんと一緒にいます』とだけ書かれていたそうです」


暗い沈黙が部屋を満たした。そして真弓は、ずっと疑問に思っていたことを口にした。


「先生、なぜ理佳さんは私に現れたのだと思いますか?」


医師は困惑した表情を浮かべた。「どういう意味ですか?」


「私は数日前から理佳さんと接触しています。幻ではなく、実際に会話し、メッセージを交換しています。でも彼女は5年前に…」


医師は真弓をじっと見つめた。その表情には驚きと共に、微かな理解の色も浮かんでいた。「成瀬さん、精神的なストレスを感じていませんか?」その声には医師特有の慎重さがあった。


「いいえ、幻覚ではありません」真弓は携帯を取り出した。「彼女からのメッセージが…」


画面を確認すると、すべてのメッセージが消えていた。代わりに新しい写真が保存されている。覚えのない写真だ。それは病院の廊下を撮影したもの。そして写真の奥には白い服を着た女性が立っている。


「この写真…」


篠田医師も覗き込んだ。「何ですか?」


「見えませんか?この女性…」真弓は画面を指さした。


医師は首を傾げた。「廊下には誰もいませんよ」その声に偽りはなかったが、目には不思議な光が宿っていた。何かを見ようとしているかのように、真弓のスマートフォンをじっと見つめる。


真弓はハッとした。カメラにしか映らない存在。デジタルの中にのみ存在する幽霊。


「先生、もう一つ質問があります。理佳さんが住んでいたマンションの部屋番号は覚えていますか?」


医師はカルテを確認し、「確か…302号室だったと思います」と答えた。


真弓の心臓が高鳴った。「あのマンションに302号室はないと言われています。301号室の隣は303号室だと」


篠田医師は眉をひそめた。「そんなはずは…」彼は資料を確認し、また首を振った。「いいえ、警察の記録にも明確に302号室と…」


「もう一つ」真弓は緊張しながら聞いた。「理佳さんが亡くなる直前に連絡を取った人はいましたか?」


医師は考え込み、再びファイルをめくった。「警察の調査では、理佳さんの携帯電話から最後にかけた電話は…」医師は不意に顔を上げた。「成瀬真弓さんという方でした」


その言葉に真弓の体から血の気が引いた。「私?でも、5年前の理佳さんとは会ったことも…」


「成瀬さん、あなたは当時どこにいましたか?」


真弓は記憶を探った。5年前。大学を卒業して最初の就職先を辞めたばかりの時期。そして、ある夜の電話…。


「私は…深夜に見知らぬ番号から電話があって…」真弓は震える声で続けた。「助けを求める女性の声がしたけど、間違い電話だと思って切ってしまった…」


篠田医師の表情が変わった。「いつ頃のことですか?」


「5年前の2月…」


部屋が急に寒くなったように感じた。医師が再びカルテを確認する。「典子さんが亡くなったのは2月15日。理佳さんが自殺したのは16日です」


真弓の頭の中で、欠けていたピースが埋まり始めた。理佳からの最後の電話。自分が無視した助けを求める声。そして自分は理佳にとって、最後に繋がりを求めた相手だったのだ。この偶然はあまりにも出来すぎている。しかし、理佳がなぜこの5年間を経て、今になって自分に接触してきたのか…?


「成瀬さん、この件は非常にデリケートですし…」篠田医師の言葉が途切れた。彼のポケットから携帯が鳴り、慌てて取り出す。「すみません、緊急の患者さんが」


医師は立ち上がり、「ここにいてください。すぐ戻ります」と言って部屋を出た。


真弓は一人残され、混乱した思考と向き合っていた。理佳の死と自分との繋がり。そして302号室の謎。


突然、診察室の照明が点滅し始めた。蛍光灯の不規則な明滅。そして真弓のスマートフォンが震えた。画面には「302」という表示。着信だ。


「もしもし?」真弓は震える手で電話に出た。


「……見つけた?……篠田先生に会えた?」理佳の声だった。いつもの声なのに、どこか遠い。まるで長い廊下の向こうから話しかけているような。


「会ったわ。あなたとお母さんのこと、聞いたよ。あなたたちは…」


「生きてない。わかってる」理佳の声は静かだった。「でも、まだ終わってないの。お母さんが…私を離さない」


「理佳さん、私があなたの最後の電話を受けたって本当?」真弓は震える声で尋ねた。「あの日、助けを求める声は…あなただったの?」


電話の向こうで沈黙。そして、「覚えてたの?」と小さな声。


「断片的に…でも、あれがあなただったなんて」真弓の目に涙が溢れた。「ごめんなさい。あの時、ちゃんと聞いていれば…」


「気にしないで」理佳の声は優しかった。「私も同じことをお母さんにしたから。因果応報かもしれない」


理佳の声が突然遠くなった。「母が…来る…」


通話が突然途切れた。画面には「通話終了」の表示。直後に新しいメッセージが届く。


『母が見ている。常に見ている。助けて。マンションに来て』


添付されていたのは動画ファイル。再生すると、理佳のマンションの部屋が映っている。カメラは徐々に部屋を移動し、最終的にクローゼットを映す。ドアが開き、中には理佳が座っている。蒼白い顔で、かすかに震えている。


「お母さんはすぐそこ」カメラに向かって理佳が囁く。「私を監視している。ずっと。死んでからも」


クローゼットの奥、理佳の後ろから白い影が現れる。ゆっくりと理佳に近づいていく。その姿は典子だが、表情には怒りだけでなく、深い悲しみも刻まれている。


「お母さんは幻覚を見ていたわけじゃない」理佳が続ける。「私が本当に見ていたの。仕事を終えて帰宅してからも、お母さんを確認するためにカメラを設置して…」


映像はそこで乱れ、終了した。


診察室のドアが開き、篠田医師が戻ってきた。「成瀬さん、大丈夫ですか?顔色が悪いですが」


真弓は立ち上がった。「すみません、もう行かないと」


「まだ話が…それに、あなたは入院中ですよ」


「どうしても行かなければならないところがあるんです」真弓は震える声で言った。「理佳さんが待っています」


篠田医師は真弓の腕を掴んだ。「成瀬さん、理佳さんは亡くなっています。あなたは疲労とストレスで…」


「違います!」真弓は医師の手を振り払った。「理佳さんは生きていないかもしれないけど、確かに存在しています。そして私を呼んでいます」


篠田医師は真弓をじっと見つめた。その目には医師としての冷静さと、一人の人間としての揺らぎが同居していた。彼はゆっくりと溜息をついた。


「成瀬さん、私は医師として約30年間、数多くの患者を診てきました。全てを科学で説明できると信じてきた…」篠田医師は言葉を選びながら続けた。「しかし、時に科学では説明できないことに直面することがある。統合失調症の患者さんが見る『幻覚』が、時々…驚くほど正確な情報を含んでいることも」


医師は急に声を低くした。「典子さんは、娘に監視されていると言っていました。当時、私はそれを妄想だと思っていた。しかし後に警察は、彼女の自宅に複数の小型カメラが設置されていたことを発見したんです」


真弓は息を飲んだ。


「理性と医学は、私にそれは偶然の一致だと言わせます」篠田医師は続けた。「しかし、人間としての直感は…」


医師は諦めたように溜息をついた。「わかりました。どこかへ行くなら私も一緒に行きます。今のあなたの状態は危険です」


真弓はその提案に頷いた。「理佳のマンションに行きます。あそこに答えがあるはずです」


---


午後4時、真弓と篠田医師はタクシーに乗っていた。


「このマンションで間違いないですか?」篠田医師が尋ねた。


真弓は窓の外に見える3階建てのマンションを見て頷いた。「ここです」


タクシーから降りた二人は、マンションのエントランスへと向かった。一階の管理人室からは年配の男性が顔を出した。


「どちらさまですか?」


「307号室の成瀬です」真弓は咄嗟に嘘をついた。「友人を連れてきました」


管理人は二人をじっと見た後、「どうぞ」と言って引っ込んだ。


エレベーターに乗り込んだ二人。真弓が「3階」のボタンを押した。


「成瀬さん、本当に大丈夫ですか?」篠田医師が心配そうに尋ねた。その声には医師としての冷静さと、一人の人間としての温かみが混在していた。


「はい…」真弓は答えながらも、スマートフォンの画面を確認していた。バッテリーが急激に減っている。40%だったはずが、わずか数分で20%まで下がっていた。


そして画面がフリーズし、突然再起動した。立ち上がったホーム画面には見覚えのないアプリがある。「監視」という名前のアプリだ。


エレベーターが3階で止まり、扉が開いた。廊下に出た真弓と篠田医師。真弓は迷わず301号室と303号室の間の壁へと向かった。


「ここです」真弓は壁を指さした。


篠田医師は困惑した表情を浮かべた。「何がですか?」


「302号室。理佳さんの部屋です」


「成瀬さん、ここには何もありません。ただの壁です」医師の声には困惑と懸念が滲んでいた。しかし彼の目には、何かに気づこうとする真摯さも宿っていた。


真弓はスマートフォンのカメラを壁に向けた。「こうして見ると…」


スマートフォンの画面を見た真弓は息を飲んだ。カメラを通して見ると、壁の代わりにドアが映っている。「302」と書かれたドアだ。


「見えますか?このドア」真弓は篠田医師にスマートフォンを見せた。


医師は困惑した表情で画面を覗き込んだ。「何の冗談ですか?そこには壁しかありません」しかし彼の眉間には深いしわが寄り、目は真剣にスマートフォンの画面を凝視していた。


「でも、カメラには映るんです」真弓は固執した。「理佳さんもこうして見えたんです。カメラを通してしか見えない存在として」


篠田医師は眉をひそめた。「成瀬さん、現実と妄想の区別が…」


医師の言葉が途切れた。廊下の照明が突然点滅し始めたのだ。そして、冷たい風が吹き抜けた。どこからともなく鈴の音が聞こえる。


「聞こえますか?」真弓が尋ねた。「インターホンの音です」


篠田医師の表情が変わった。明らかに彼も何かを感じている。「何かが…」彼は壁に手を伸ばし、触れた。「冷たい…」


真弓はスマートフォンのカメラを通して壁を見続けた。そのドアノブが回るのが見える。


「開いていく…」真弓は囁いた。


篠田医師は一歩後ずさった。「成瀬さん、ここを離れましょう。今すぐに」


「でも、理佳さんが…」


「あなたの安全が第一です」医師は真弓の腕を掴んだ。「何か危険な存在を感じます」


その時、真弓のスマートフォンに「監視」アプリからの通知が現れた。開くと、複数のカメラ映像が表示された。理佳の部屋の様々な角度からの映像。リビング、キッチン、寝室、そして浴室。すべてリアルタイムのようだ。


どのカメラにも誰も映っていない。しかし寝室のカメラがゆっくりと動き、クローゼットに向けられた。ドアが開き、中には理佳と母親が座っている。二人とも白い服を着て、互いに寄り添うように。


「見えてる?」理佳がカメラに向かって言った。「あなたも見てるのね。私たちのように」


篠田医師は真弓の肩を掴んだ。「何を見ているんですか?」


真弓はスマートフォンを医師に見せた。「理佳さんとお母さんです。この部屋の中にいるんです」


医師は画面を覗き込み、顔色が変わった。「確かに…何かが見える…」彼の声は震えていた。「白い影のようなものが…」


スマートフォンのバッテリー表示が点滅している。10%。


「もう時間がない」真弓は呟いた。「行かなきゃ」


「どこへ?」


「302号室へ」


真弓はスマートフォンのカメラを通して見える扉に手を伸ばした。篠田医師が止めようとしたが、真弓の手はすでにドアノブに触れていた。冷たい金属感。そして回す感触。


「成瀬さん!」


篠田医師の叫び声が遠のいていく。真弓の目の前で、現実がゆっくりと溶けていくような感覚。


扉が開き、真弓は一歩踏み出した。


(つづく)

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