第二話「録画」
午前2時を過ぎた深夜、真弓のアパートは妙な静けさに包まれていた。
外の音が異常なほど聞こえない。通りを行き交う車のエンジン音も、風の音も、時折聞こえるはずの猫の鳴き声も。まるで世界がこの部屋だけを残して消えてしまったかのような静寂。
その静寂を破ったのは、インターホンの鈴の音だった。
真弓は目を見開いた。昨夜、理佳から聞いていた話と同じ。真弓はベッドから出て、玄関へと向かう。ドアの上部にある覗き穴からは廊下が見える。しかし、そこには誰もいなかった。
スマートフォンの時刻表示を確認する。2時3分。
真弓は髪に触れた。急に冷たい感覚がする。部屋の温度が下がったのだろうか。エアコンの設定は変えていないはずだ。彼女は小さく息を吐き、その息が目の前で白く漂うのを見て、思わず後ずさった。
玄関扉のノブに手を掛けた瞬間、スマートフォンの画面が突然点灯した。理佳からのメッセージだ。
『見えた?』
真弓は返信しなかった。どういう意味なのか分からなかったし、何より深夜のメッセージに不安を覚えたからだ。スマートフォンを置いて、再びベッドに戻ろうとしたその時、部屋の空気が変わった。
鏡に映った自分の背後に、何かが見えた気がした。振り返ると、何もない。しかし、確かに何かの気配を感じる。誰かに見られているような感覚。
真弓は慌ててベッドルームのライトをつけた。部屋には誰もいない。しかし、クローゼットのドアがわずかに開いている。真弓は確かに閉めたはずだった。
恐る恐るクローゼットに近づくと、突然スマートフォンの着信音が鳴り、真弓は小さく悲鳴を上げた。画面には理佳の名前。真弓は通話ボタンを押さなかった。
その夜、真弓はほとんど眠れなかった。
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朝、オフィスで理佳の机を見つめながら、真弓は昨日の出来事を思い返していた。マンションの管理人の言葉。「佐伯理佳さんという方なら、5年前に…」
その言葉の続きを聞く前に、理佳からの着信で中断されたのだ。そして電話の向こうから聞こえたあの囁き声。真弓は身震いした。
「真弓さん、佐伯さんから連絡あった?」
上司の声に我に返った真弓は首を振った。朝日が差し込むオフィスの中では、昨夜の恐怖が嘘のように感じられる。しかし、スマートフォンの着信履歴には確かに理佳からの不在着信が残っていた。真夜中の2時34分。
「まだです。昨日、彼女のマンションまで行ったんですけど…」
「そう。心配だけど、もし何か分かったら教えてね」
真弓はデスクに座り、パソコンを起動した。画面が暗い間、そこに映る自分の顔と、その背後に映るものに気づいた。白い姿。振り返ると何もない。再び画面を見ると、そこにも何も映っていなかった。
真弓はぞっとした。気のせいだろうか。それとも昨夜の出来事で神経質になっているだけ?
昼休みに再び理佳のマンションを訪ねることにした。何か手がかりがあるはずだ。
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理佳のマンションは日中でも妙に静かだった。整然とした3階建ての建物。真弓は迷わず3階へと向かった。
エレベーターの扉が開く瞬間、真弓は息を飲んだ。一瞬、白い服を着た女性が廊下に立っているように見えたからだ。しかし、目を瞬きすると、そこには誰もいなかった。
301号室の横には確かに303号室がある。その間に302号室はない。ドアナンバーも301から303へと飛んでいる。しかし真弓は自分の記憶を信じていた。何度か理佳の部屋を訪ねたことがあるし、確かにドアには「302」と書かれていたはずだ。
不思議に思った真弓は、廊下の壁を注意深く観察し始めた。301号室と303号室の間には、わずかに壁紙の色合いが異なる部分があった。よく見ると、薄く四角い形に変色している。なにかが取り外された跡のようだ。
「302のプレートがあった場所かな…」
真弓は壁に手をかざした。わずかに冷たい空気を感じる。壁に耳を近づけると、かすかに…何かが聞こえる。水が滴る音。そして、より遠くから聞こえる囁き声。
「…見て…いる…」
真弓は身震いした。想像の産物だろうか。壁の向こうで本当に何かが囁いているのか。
その時、303号室のドアが開き、年配の女性が顔を出した。
「あら、どちらを?」
「あ、すみません。友達の部屋を探していて…佐伯理佳さんという人を知りませんか?」
女性は首を傾げた。「佐伯さん…?このフロアには聞いたことない名前ね」
「そうですか…実はこの間、彼女の部屋に来たときは確か302号室だったんですけど」
「302?」女性は明らかに困惑した表情を浮かべた。「このマンションには302号室はないわよ。設計上の理由で301の次は303なの」
「でも、私は確かに…」
女性は真弓の言葉を遮るように続けた。「ただね、5年くらい前に変な噂があったわ。301号室と303号室の間の壁から、夜中に女性の声が聞こえるって。『鍵を開けて』っていう声」
真弓の背筋に冷たいものが走った。
「あの頃はちょうど、このマンションで孤独死があったばかりでね。みんな神経質になってたのよ」
「孤独死…?」
「ええ、最上階の一室で。一人暮らしの中年女性が脳卒中で倒れて、発見が遅れたの。住人にはあまり馴染みのない人だったらしいわ」
女性は腕時計を確認し、「あら、もう行かなきゃ」と言って立ち去った。
残された真弓は、301号室と303号室の間の壁を再び見つめた。佐伯理佳。そして孤独死した中年女性。この二人には何か関係があるのだろうか。
壁を見つめていると、不意に壁紙に小さな染みが現れたように見えた。赤い染み。真弓が手を伸ばすと、その染みはすでに消えていた。幻だったのか。
真弓は鳥肌が立つのを感じた。このマンションには何かがある。目に見えない何か。そして、それは理佳と繋がっているのだろう。
部屋に戻る途中、真弓は自分の足音だけが異常に響く廊下を歩いた。マンションが他の住人の存在を消し去ったかのように。そして、エレベーターのドアが閉まる瞬間、鏡に映った自分の後ろにまた白い姿が。
今度は確かに見えた。女性の姿。白い服を着た、背中を向けた女性。
エレベーターが下降を始めた途端、スマートフォンが震えた。画面には理佳からのメッセージ。
『見えたでしょ?』
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