呼び鈴は鳴っていない
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第一話「夜のチャイム」
午前2時。
深い眠りの中、佐伯理佳は何かに引き戻されるように目を覚ました。頭上の天井にぼんやりと視線を向けると、壁に取り付けられたデジタル時計が青白い光を放っている。2:00。
その瞬間、インターホンのチャイムが鳴り響いた。
「……え?」
蒸し暑い寝室に違和感のある音が広がる。理佳は体を起こし、枕元のスマートフォンを手に取った。画面を確認すると確かに午前2時。こんな時間に誰が?
理佳は薄い毛布を跳ね除け、部屋の灯りをつけた。3階建てマンションの最上階に位置する彼女の部屋は、角部屋で間取りは1K。玄関までの距離はわずか数歩だった。
もう一度チャイムが鳴る。
「はい、どちら様ですか」
理佳は玄関ドアの脇に設置されたインターホンのモニターボタンを押した。設置して間もない新型のモニター付きインターホン。液晶画面に映し出されたのは、照明の乏しい廊下と、そこに立つ……誰の姿もなかった。
「変な人…」
理佳はドアチェーンを確認し、カーテンの隙間から外を窺った。マンションの廊下には誰もいない。夜中のいたずらだろうか。理佳は深いため息をつき、再びベッドに戻った。
---
「理佳さん、大丈夫?顔色悪いよ」
翌日、オフィスでデスクに向かう理佳に、同僚の成瀬真弓が声をかけた。
「ああ、ちょっと夜中に変な人がいて…」
「変な人?」
「インターホンが鳴ったの。午前2時に」
「マジで?ストーカーとか?」管理部で働く真弓は、いつも理佳より大きな声で話す。周囲のデスクから数人の視線が向けられるのを感じ、理佳は小さく首を振った。
「違うと思う。モニターには誰も映ってなかったし…たぶんいたずらよ」
「でも怖いね。マンションの管理会社に言った方がいいんじゃない?」
理佳は曖昧に頷いた。大げさにしたくなかった。そもそも一晩だけのことかもしれない。
午後3時頃、スマートフォンが震えた。理佳は画面を確認すると、見慣れた宅配アプリからの通知だった。
「お届け予定:本日18時-20時」
理佳は眉をひそめた。最近何も注文した覚えはない。アプリを開くと、自分の名前と住所が表示されている。送り主の欄には「佐伯典子」と記されていた。
母の名前。
胸が締め付けられるような感覚に襲われた。母とは5年前に連絡を絶っている。いや、正確には5年前、母は…
「佐伯さん、この資料確認してもらえる?」
上司の声に意識を引き戻された理佳は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。宅配の件は後で考えよう。きっと何かの間違いだ。
---
夕方6時半。理佳が帰宅すると、マンションのエントランスで宅配業者と鉢合わせた。
「あ、佐伯さんですか?ちょうどいいタイミングで」
小柄な配達員は明るく声をかけてきた。手には小さな段ボール箱。
「302号室の佐伯さんですね」
「はい…そうですけど」理佳は戸惑いながらも頷いた。
配達員は電子端末を差し出し、理佳はサインを済ませた。荷物を受け取り、エレベーターに乗り込みながら、理佳は箱を調べた。送り主の欄には確かに母の名前と、懐かしい実家の住所が記されている。
部屋に戻った理佳は、キッチンのテーブルに荷物を置いた。開封するべきか迷う。5年間、母とは一切の連絡を取っていない。突然の荷物に戸惑いを覚えた。
意を決して箱を開けると、中に入っていたのは古びた赤い財布だった。理佳は息を呑んだ。母がいつも使っていた財布。理佳が子供の頃、よくこの財布からお年玉や小遣いを取り出してもらった思い出がある。
なぜ今になってこれが?
財布の中を確認すると、古い写真が一枚入っていた。母と幼い頃の理佳が写る、色あせた一枚。写真の裏には母の筆跡で日付と一言。
「理佳、ごめんね」
理佳は写真を素早くテーブルに置いた。手が震えている。母からの突然の謝罪に、様々な感情が込み上げてきた。怒り、悲しみ、そして何より強い罪悪感。
5年前、あの最後の電話で、母は助けを求めていた。しかし理佳は取り合わなかった。次の日、母は一人で亡くなっているのが発見された。死因は脳卒中。医師によれば、発作から数時間経過していたという。助けを求める電話があった時間帯だ。
窓の外が暗くなり始めている。理佳は深いため息をつき、写真を元通り財布に戻した。テレビをつけると、ちょうどニュースが始まるところだった。
「今日も暑い一日でしたが、明日からはさらに…」
アナウンサーの声に気を紛らわせようとしたその時、突然テレビから異様な音が聞こえた。
「お母さん…」
理佳は身を固くした。今の声は…?
テレビを見つめるが、画面には天気予報のグラフィックが表示されたままだ。
「今の…」
もう一度聞こえた気がした声を確かめようとリモコンを操作したが、通常の番組が流れるだけ。理佳は首を振った。疲れているのだろう。気のせいに違いない。
シャワーを浴び、早めに就寝することにした理佳は、寝室のライトを消した。デジタル時計は23:45を示している。目を閉じると、思いがけず母の顔が浮かんでくる。
「ごめんね」
なぜ今になって謝るのか。そもそも、母はもう…
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午前2時。
デジタル時計の数字が変わった瞬間、インターホンが鳴った。
理佳は飛び起きた。昨夜と同じ時間。まさか偶然ではない。
今度は慎重に玄関に向かう。インターホンのモニターボタンを押す前に、スマートフォンを取り出した。録画機能を起動させ、モニターを映しながらインターホンのボタンを押す。
液晶画面には誰も映っていない。廊下は暗く、静まり返っている。
「誰もいない…」
理佳はスマートフォンの録画を止め、ドアにある覗き穴から廊下を確認した。そこにも誰もいない。深夜のいたずらなら二日連続はあまりにしつこい。マンションの管理会社に連絡しようか。
理佳は録画した映像を確認するために、ソファに腰掛けた。録画を再生する。インターホンのモニター画面には確かに誰も映っていない。しかし…よく見ると…
「え?」
理佳は息を飲んだ。スマートフォンの画面に映るインターホンのモニターには、かすかに白い影のようなものが映っている。モニター自体には映っていなかったはずのものが。
理佳は動画を拡大し、明るさを調整した。そこに映っていたのは、背中を向けた白い服の女性のシルエット。顔は見えないが、どこか見覚えのある後ろ姿。
さらに気づいたのは、動画には音声も録音されていること。理佳はイヤホンを取り出し、接続した。音量を最大にして再生すると、かすかな囁き声が聞こえてきた。
「……いるの、知ってるよ……」
冷たい震えが背筋を走った。理佳の視線がゆっくりと自室のクローゼットへ向けられる。閉まっているはずのドアが、わずかに開いていた。
その瞬間、理佳の部屋に置いてあるスマートスピーカーが突然青く光った。
「はい、お母さんです。何をお手伝いしましょうか?」
普段は機械的な女性の声が、どこか懐かしい声色に聞こえた。理佳は震える手でスマートスピーカーのプラグを引き抜いた。
しかし青い光は消えなかった。
スピーカーから漏れ出す声が、徐々に変化していく。
「理佳…ごめんね…もう逃げられないよ…」
完全に母の声だった。
理佳はスマートフォンを握りしめ、部屋の隅に体を寄せた。目の前で起きていることを理解できない。恐怖で体が固まる。
そのとき、マンションの廊下から足音が聞こえてきた。理佳の部屋の前で止まる。ゆっくりとドアノブが回る音。
チャイムは鳴らない。
もう必要ないから。
---
翌朝。
同じマンションの住人が階段を降りながら会話していた。
「302号室ってあったっけ?」
「ないよ。このマンション、301号室の次は303号室だから」
「でも昨日、宅配の人が302号室に荷物を届けてたよ」
「気のせいじゃない?そんな部屋はないって」
二人が階段を降りきり、管理人室の前を通りかかると、年配の管理人が声をかけてきた。
「何かあったんですか?」
「あの、このマンションに302号室ってありますか?」
管理人は眉をひそめ、壁に掛けられた配置図を指さした。
「ほら、301号室の次は303号室です。設計上、302号室はこのマンションには存在しません」
「でも昨日、確かに…」
管理人は静かに口を開いた。「このマンションには昔から奇妙な噂があるんです。亡くなった人が、時々、自分がまだ生きていると思い込んだまま戻ってくることがある…」
二人の住人は不安げに顔を見合わせた。
「冗談ですよ」管理人は笑った。「さあ、お仕事に行かれるんでしょう?」
住人たちが去った後、管理人は深いため息をついた。窓の外では、白いワンピースを着た女性が建物を見上げている。管理人の視線に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。その顔には目も鼻も口もなかった。
管理人は素早くブラインドを下ろした。
---
その日の午後、成瀬真弓は理佳の机を見つめていた。
「理佳さん、今日も休み?」
隣の席の同僚が肩をすくめた。「連絡ないの?昨日から携帯も繋がらないんだって」
真弓はスマートフォンを取り出し、理佳に電話をかけた。応答はない。心配になった彼女はメッセージを送った。
『大丈夫?心配してるよ。返事してね』
送信ボタンを押した直後、「既読」の表示が出た。
続いて返信が来た。
『ごめんね。もう大丈夫。母と一緒にいるから』
真弓は眉をひそめた。理佳の母親は確か…
夕方、真弓は理佳のマンションを訪ねていた。インターホンを押すが応答はない。管理人に尋ねると、302号室は存在しないと言われる。混乱する真弓に、管理人は建物の配置図を見せた。
確かに301号室の隣は303号室になっている。
「でも佐伯さんは確かにここに…」
「お嬢さん」管理人は静かに言った。「佐伯理佳さんという方なら、5年前に…」
その時、真弓のスマートフォンが鳴った。理佳からの着信だ。
「理佳さん?どこにいるの?」
電話の向こうから聞こえたのは、静かな囁き声だった。
「……もう、チャイムは鳴らさないよ……」
午前2時、真弓のアパートのインターホンが鳴った。
(つづく)
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