(後編)

 夏の盛り。

 Mに関して、このようなことがあった。


 私が通っていた大学のすぐ近く、敷地としてほぼ隣接しているところには、大きな公園があった。中央に池があり、その周りをぐるりと舗装路――ジョギングにも適した柔らかい素材が敷かれ、木々と草花がそこに彩りを添えている、どこにでもあるような公園。

 そして、その敷地を挟んだ向かいには、音楽学校があった。それなりに有名な、名のある学び舎で、だから、というわけでもないけれど、池のほとりで木のそばで、東屋あずまやのもとで、楽器の練習をする学生がよく見受けられた。

 一方、私の大学にももちろん音楽サークルはあり、彼らもそこで練習をすることがあったらしいけれど、インプロ合戦だの下剋上などと、そんな冗談をよく音楽系の友人から聞かされた。


 昼時。学食への近道として、誰も通らないような校舎の隅を友人たちと歩いているときだった。敷地を囲うフェンスの向こう、大学の裏口と公園を繋ぐ小道に、Mの姿があった。

 誰だって、一人で散歩をすることはある。しかし、それがMだということで、友人たちは興味を惹かれたらしかった。そして、そのときMが背負っていた、長細い、普段あまり見掛けないようなバッグも……。

 ちょっと見てよう、と友人の一人が言った。そこには、単なる好奇心だけではない、小狡い目の形からも窺える、ほのかな悪意が匂っていた。

 もう一人の友人は、それに同意した。私は反対しなかった。そういうとき、冗談めいてでもたしなめるようなことを言わないから、大学時代、私も群れの中に居られたのかもしれない。


 私たちは少し移動し、やや土地が盛り上がっている地点、小道とその先の一帯を見下ろせる場所へ潜んだ。

 Mは、公園の外周、木々の群れ立つところへ行き掛かると道を外れ、ベンチへ腰掛けた。

 細長いバッグを開ける。

 そこから取り出されたのは、やはり、楽器だった。

 暗がりでその身が鈍く光る。フルートだろうか。横笛であることは確かだけれど、どのような種類のものなのかまではわからない。


 Mがサークルに所属していないことは他人ひとから聞いていた。とはいえ、個人的な趣味までわかっているわけではない。音楽をやっているのだろうか。

 フルートを取り出したところを見て、友人たちは興奮していた。何に? 私はなんとなく、もうその場から去りたい気持ちがしていた。


 Mは束の間、私の知らない準備的な行動をすると、フルートをゆっくりと、決められた所作のように口元へ持っていき、吹きはじめた。


 その音を、響きをどう評価すればいいのかは、いまでもわからない。

 正直にいうと、少なくとも、あまり良い音色ではないような気がした。とはいえ、意識してフルートの音を聴いたことなどないし、聞くとすれば、それはプロが演奏しプロが録音した音源からであって、単なる公園の隅で鳴り響くフルートの音など、特に私のような素人には、胸に響かなくて当然なのかもしれない。


 Mは淡々とフルートを吹いている。

 私たちは、それを盗み見ている。

 私は気が立つのを感じた。なにか酷い申し訳なさも。何故? 知り合いがひとり楽器を響かせるところをこっそり見るのはそれほど悪いことなのか。

 もう行こう、と私は言った。そのようなことを言った。命令にならないよう。年長者が注意するような適度なふざけ具合で。そのつもりだった。あまりに心が波立っていたために「もう」のところで声が裏返ってしまいながら。

 友人たちは素直に応じた。はい、はい。私の異変に気付いた様子はなかった。遠ざかるフルートの細い響き。校舎が落とすひんやりとした影とその領域。かすかなかび臭さ。昨日オムライス食べたんだよなぁ。


 その後、二年、三年と、Mとの接触はほとんどなくなっていった。

 同じ授業に入れられなかったというのが大きな理由で、共通する知り合いがほとんどいないというのもその一つだった。

 それでも、ふとしたときにMの姿を見掛けることはあった。そして、刹那の苦悶も。Mはどのような学生生活を送っているのだろうか。そんな疑問を思うことはあった。誰かに尋ねればわかることではあった。しかし私は尋ねなかった。


 ゼミ。

 私は再びMと一緒になった。しかしやはり、そこに特別な交流はなかった。ゼミとはいえそれなりに人数は居て、内容も、お互いに見識を深めるというよりは各個人が教授のアドバイスのもと自身のテーマについて掘り下げていくといったものだったので、Mとじっくり話をする機会もなかった。


 一つだけ、記憶に残っていること。

 ゼミ生による、親睦を深めるための食事会のときに、各々が自己紹介をする時間があった。幹事が段取りを進行させていく。見知った顔。あまり話したことのない人の胡坐あぐら姿。薄暗い照明を妖しく反射する、どこか滑稽に見える教授の眼鏡。

 Mの番が来た。Mは淡々と自己紹介をした。論文のテーマ。それに絡めた自身の経歴。趣味。取り立てていうことのない、普通の内容だった。

 続く普通の拍手。

 私も拍手をした。しながら、こんなことを想った。ここでフルートを吹けばいいのに、と。


 これが、私のMに関しての思い出だ。

 こんなことを思い返したきっかけは、同窓生からの訃報だった。教授の旧友、普段は海外で生活していて、私たちがゼミ生だったときはちょうど帰国しており、ゼミにも時々顔を出していたその人物が亡くなり、お別れ会をしようという報せだった。


 そのメッセージが届いたとき、ふと、大学の頃を思い出し、そして、Mの姿も頭に浮かんだ。

 遠い記憶。

 音と色が織り上げる、いまは消えた形。その軽さ。


 そして昨日、参加者たちの名簿が届いた。

 Mの名はそこになかった。







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Mについて 輿水葉 @ksmz

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