Mについて
輿水葉
(前編)
大学デビューという言葉がかつてあった。いまもよく使われる言葉なのかはわからない。調べればすぐにわかるけれど、調べてみようという気は起こらない。
何を意味する言葉かといえば、要するに……変節? 自己改革? いや、一言では難しい。新しい言葉とは、既存の言葉で言い表すことのできないモノを指し示す必要に迫られたときに生まれるのだから、難しいのも当然かもしれない
新しい自分を作り上げる。他者に対する自らのイメージを刷新する。こんなところだろうか。けれど、これだけでは足りない。そこには、その行為を実行しようとする自分に対する意気込みや気負いといった含みがあり、更にその奥深いところでは、後悔や喪失の香りがしっとりと漂っているような、そんな雰囲気があるように思える。
私が大学にいるときも、大学デビューの香りを纏っている人は多く見られた。
熱に浮かされたように社交に勤しむ人。微笑ましいほどに大量の自己紹介を繰り広げる人。不必要に話題を別の集団から別の集団へと伝染させる人。どこにでも付いて行こうとする人。急に踊り出す人。騒がしい人……。
皆が皆、そうというわけではない。いま並べ立てた人たちは、いわば能動的な大学デビュー勢であって、そこには、受動的な大学デビュー勢といえる人もまた存在した。
普段は絶対見掛けないような、大衆的な人気を博したアニメキャラクターが大きくプリントされたシャツを着ている人。美容室で実験台にされたのか、奇抜な髪型をした人。方言とも口調ともいえない、不思議な話し方をする人。声のでかい人……。
とはいえ、彼らは能動勢と比べて――もちろん彼らも目立ってはいたものの、池にわざと石を投げ込んで波を作るように、自らが所属する世界に打診を掛けるようなことはしなかった。
彼らにしてみれば、かつての髪型や服装、主義、嗜好などを捨て、新しいもので身を固めたその結果がいまここにあるのかもしれなかったけれど、そこには能動勢のような積極的な、もっと言えば攻撃的な意思はなく、ただ、近づいてこようとする者はなるべく受け入れようとする、あるいは取り込もうとする、用意周到な花のような意思があった。
花は、眺めていて楽しい。
その姿にはもちろん、機能的な意味があり、目的があり、利己のあるわけだけれど、見ているぶんには、その装いで目を楽しませ、時折の突風になびく姿ではらはらとさせてくれた。そして、そんなこちらの観察などもちろん気に掛けず、花としてたおやかに、あるいは
しかし、Mは違った。
私のクラス――なんと言えばいいのか、それを指し示す単語があったような気がするのだけれど、思い出せない。とにかく、学科に対して割り当てられる必修の授業で私と一緒になったMは、特に気負うところのない非大学デビュー勢でも、能動勢でもなかった。そして、受動勢とも、また異なっているように思えた。
一見すると、Mは花だった。
服装は、少し独特なものがあった。しかしそれは、変わったセンスとして片づけるには整っていて、とはいえ作為的なものとしては、落ち着き払っていた。
性格は穏やか。場の空気に合わせて行動し、特に用のないときは一人静かに、自分の事に集中する。そんな人物だった。
周囲を拒絶しているわけではない。拒絶されているわけでもなかった。
そんなMの特徴。
Mは会話のとき、明るい態度を示した。何か変わった反骨精神でも持っている者でなければ――実際、そんな人は大学でぽつぽつ見られたけれど、そうでなければ、その応対は普通だ。
しかし、そういうときのMは、そのときの笑みは、普通とは言えなかった。
話し掛けられると、一瞬、顔が歪むのだ。痛みに備えるように。苦痛に耐えるように。その現象は唇や眉の端、わずかな筋肉の緊張によって引き起こされているように見えるのだけれど、そんなかすかな動きに対して、表情に現れる印象の変化は、甚大だった。
しかし、Mのそれは違った。
誰も、それを表立って話題にすることはできなかった。実際、かなり長いあいだ、誰もそれを話題にはしなかった。
もしかしたら、その歪みは、皆の深いところで、繋がっていたのかもしれない。多くの者が一度は受けたことのある苦難として。その印として。
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