夢の果ての豆腐
バルバルさん
湯豆腐で晩餐を
世苦亡(ヨクボ)の宿。そこは、行き方を知るものしか行くことのできない、男にとっての極楽と言っても差支えない、妖が経営する宿。そこに私はやってきていた。
車を降り、宿の入り口まで歩く。息が切れる距離だが仕方がない。
宿の暖簾をくぐった時の天候は曇。降水確率は聞いた所五割ほど。このまま曇っているか、雨粒を降らすかは神の賽子次第と言ったところか。
宿帳に名を記載しつつ、私はある欲求と戦っていた。
今日の私は豆腐が食いたかったのだ。
純白の、染める前の絹か踏まれる前の雪のような見た目。とろりと口の中の力に耐えられず崩れていく食感。その淡くも大豆のうまみを主張する味!
そろそろ、秋も終わり冬の足音が聞こえてくる季節。田楽豆腐か、湯豆腐か。どちらかを食したい欲求が膨れ上がっていた。
この宿は女も湯も極上だが、食事も例にもれず最高と言っていい物を提供してくれる。
せっかく豆腐を食いたい欲求が爆発しそうなのだ。市販の豆腐では満足できないだろう。
この宿で、この世のものとは思えぬ美味なる豆腐を食べる事でのみ、この欲求は満たされるのだ。
とりあえず、客室に通されたので、一息つきつつ仲居の女性にこう伝えた。
「今日は先ず豆腐が食いたい。最高の豆腐を用意してくれ」
この宿を利用するのはこれで三度目なのだが、基本的に願えば何でも叶えてくれるようだ。
勿論、代償として「何か」を宿に提供しているらしいのだが、それを気にしているような人間はこの宿に泊まりに来られないらしい。
私も、もはや何かを捧げることを躊躇わないようになっていた。
とにかく、私はちょうどよい室温に温められた部屋の中で、ぼんやりと外を眺める。
部屋の窓から見えるのは、他の客から聞くに様々なものが見えるらしいのだが、私には向こうの見えないほどに霞んだ世界しか見えない。不思議なものだ。
しばらくして、戸が三度叩かれる。私がどうぞ、と声を出せば戸が開く。
そこにいたのは、私に礼をする齢10程度の美しい少年だった。
この宿で女性以外の仲居を見たことが無かったので驚きつつ、声を出す。
「驚いた。この宿には女性しかいないのかと思っていたが」
「いえ、この宿にも男の妖は大勢おりますとも。ただ、そのほとんどが裏方でして」
そう、少年期の高めの声色で返される。そして、彼の隣にある鍋と豆腐に気が付く。
「最高の豆腐をご所望と聞いたので、今回は特例として私が豆腐をご用意させていただきました。勿論、お客様が女性仲居を所望なされるのなら、すぐ交代いたしますが」
「いや、いい。今は豆腐を食べたいんだ」
そう私が言うと、少年の方も一瞬目を丸くし、柔らかく笑顔を作る。
「はい、では鍋を用意させていただきます」
少年の手際はよく、私の前に鍋が用意される。中には昆布と、沸かない程度に温められた湯。
そして、その隣で、煉瓦のような大きさの、どこか透き通った、青白ささえ感じるほどに純白の豆腐を、竹包丁で一口大に切り分ける少年。
「お客様は、醤油は温めますか?」
「いや、温めないほうは好みだ」
私は、醤油は温めないほうが味が澄んでいる気がするので、この問いは助かった。
そして、豆腐が四切れ、先ず湯に入れられる。
それを食べきったら、また次の豆腐を入れるらしい。その気遣いが嬉しいものだ。
ともかく、今日は豆腐が食べたい。
そして、少年は真剣な眼差しで出汁の中の豆腐を見る。その真剣さは、私も心臓が大きく鳴る錯覚がするほどだ。
丁度良く煮えた豆腐を引き上げ、かつお節と醤油を少量垂らし。
「さあ、召し上がれ」
そう差し出してきたので、私はその豆腐を箸で挟み、持ち上げる。
箸で挟んだ程度では崩れない、だが、少しでも力を入れ過ぎたら崩れるような。そんな繊細な固さが箸から伝わる。
それを一口口内に放れば、ああ!
出汁や醤油に負けないほどの大豆の旨味。その繊細かつしっかりとした食感。熱すぎず、温すぎない絶妙な温度!
どれもこれも、最高と言って差し支えない極楽の味。それが口内に広がるのが分かる。
美味しい。そんな陳腐だが、単純な言葉で表現するしかない味わいだ。
「いかがでしょうか?」
この極楽を演出してくれたのは、さわやかかつ、優し気に微笑む少年の腕あってこそだ。
私は最高の敬意と感謝を込めてこう言った。
「美味しい。生まれて初めてこんなに旨い豆腐を食べた」
「ありがとうございます。作った甲斐があります」
「すると、この豆腐も君が?」
「はい」
「素晴らしい腕だな」
そう言っているうちに、第二陣の豆腐が煮えたようだ。
それを、旨い旨いと言いながら頬張る。それだけで満足だった
これ以上、何を欲するのか。
その豆腐は、私にとってはほぼ一瞬に食べ終わってしまった。
「ふぅ……久しく豆腐で腹を膨らました。感謝するぞ」
「いえ、私も豆腐をこれだけ美味しそうに食べていただけて嬉しく思います」
そう言いながら、鍋を片付ける少年に、私は名を聞くことにした。
「少年、君は名を何という?」
「名、ですか?」
「ああ、これだけ旨い豆腐をたらふく食わせてくれたんだ。名くらい教えてくれ」
「はい。ですが、私に名前などという上等なものはございません」
「ほう?」
「私は、この宿では「小僧」とだけ呼ばれております。なので、そう呼んでいただければ」
なるほど、だが、小僧。と呼ぶのは、何か味気ない。
「名が無いのなら、私が付けても良いだろうか?」
「え?」
「良いではないか。私からの感謝の気持ちと思ってくれればいい」
「で、ですが……」
私からの我儘に、少々困った表情を作る少年。
とはいえ、私も引き下がらない。
「名があっては困るだろうか?」
「いえ、そういうわけでは。ですが……この宿で、人からそんな優しい言葉をかけていただけたのが初めてなもので。少々困惑してしまい……」
「なら、この老い先短い老人に、名づけさせてもらえるかな?」
「老い先短い? ですが、お客様はずいぶんとお若く見えますが」
確かに、私は年齢的には若い。まだ三十にもなっていない。
だが、私の体にとって、重要なのは年齢ではないのだ。
「ふふ、私の体は……年を取ることに耐えられない病気なのだ。この年齢になるまで生きられたこと自体奇跡のようなもの。歩くのがやっと、喉を通るのは粥ばかり。豆腐でさえ、ここまで旨くともこれ以上は入らぬ……この状態を老人と言わず何と言おう」
俺は、もはや長くない。残り三日生き長らえれば奇跡だろうと、病院で宣告された。
その日、俺は病室を抜け出し、車を走らせ。この宿にたどり着いた。
金ならあった。ただ、金があるだけだった。
先無き人生に、それはほぼ無意味だった。
美食は好きだ。美食家とも呼ばれた事もある。
だが、ここ一年口に入れられるのは、粥ばかり。
だから、せめて食べられる、粥以外の最高に美味しいものを体が欲したのかもしれない。
それも現では体験できないような、最高の、極上の美味を。
そして、それをこの少年は与えてくれた。
「……そうでしたか」
「だが、こんな短い生では、残せた物も、残せる物も少ない。だから、君に感謝を込めた、名を残したいと思うのだ」
「はい、わかりました。少々ごねてしまい大変申し訳なく。私に名を授けてください」
「ああ、わかった。君の名は――」
◇◇◇
「おや、小僧。お客様に豆腐を提供していたんじゃなかったかい?」
客室から、裏に回った少年に、一人の鬼が声をかける。
「はい、ご満足いただいた様子で、今はゆっくりと休んでおられます」
「そうかい。だが、人間とはやはり面白いねぇ。残りの寿命を、豆腐を食うためだけに宿に捧げるなんてさ」
「はい、本当に変わったお客様で……ところで、爺様はどこにいらっしゃいますか?」
「は? 爺なら、鏡の間から入ればいるんじゃないかな」
「ありがとうございます」
少年は鬼に礼をして、鏡の間へと向かった。
鏡の間。そこは。何重にも張り巡らされた鏡で出来た部屋。
一歩入れば、出るのも難しい。
そこで、何重もの合わせ鏡の世界に入り……爺と呼ばれた男のいる部屋へ。
「おや、小僧……いや、紅葉、とか言う名をもらったんだったかい?」
錆びた鉄が擦り合わさるような声が部屋に響く。
「はい、お客様に頂いた名です」
「そうか。で、そのお客様に情が湧いて、奪う物を変えてくれ、とでも言いに来たんだろう?」
その言葉に対し、少年は沈黙で是と答える。
「だが、奪うもの変えても、あのお客様はあと三日と持たないよ。今日、豆腐を食べて幸せな気分のまま、三途の川に並ばせるのも優しさだと儂は思うが」
「ですが」
そして、少年、紅葉は言う。
「先の無い人間にとっての、三日は長い物だと思います」
「ふぅん? ずいぶんと口答えするね」
「ただ、私は……私の豆腐を、もっと食べて欲しいだけです」
「ほう?」
「三日あれば、もっといろんな豆腐の料理を味わえます。もっと幸せな気分のまま、あちらの世界へ行けると思います」
「ずいぶんとあのお客様に肩入れするねぇ。そんなに名前が嬉しかったかい?」
「はい」
「……わかったよ。この儂に口答えしたその肝に免じて。あの男から奪う物は、寿命ではなく、その財産にしてやろうかね」
「ありがとうございます」
「さ、用件がそれだけならさっさと去りな。儂も暇じゃないんだ。せいぜいあと三日、あのお客様に、豆腐で出来た優しい夢でも見せるんだね」
◇◇◇
「なぁ、紅葉」
「はい」
紅葉と出会って三日。私は、純白の布団に寝ころがっていた。
傍には紅葉と、俺のために作ってくれたという絹豆腐。
だが悲しいかな、少し残してしまった。
「人生は、死ぬまで見る永い夢。そう俺の先生が言ったんだ」
「はい」
「なら、その夢の果て。出会えたのが君でよかったよ」
ぼんやりと、視線を外に動かす。そこは、相変わらず霞がかっていたが。
結局、雨は降らなかった。
「もうすぐ、俺の人生の夢は覚めるんだろうか」
「……」
その問いには、答えは無かったが、悲しげに視線を伏せてくれた。それだけで、何か嬉しかった。
「なら、もう一口。夢の中で最高の豆腐を食わせてくれ」
「はい」
紅葉は、震える手で箸を使って、絹豆腐を私の口に運ぶ。
私が覚める前に最後に感じたのは。
美味しい。
だった。
夢の果ての豆腐 バルバルさん @balbalsan
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