第14話 トリックオア……?

 厚切りベーコンの欠片かけらを口に運んだ。噛んだ途端にジュワッと肉汁が染み出し、口の中いっぱいに広がった。〝自家製〟と書いてあったしきっとこだわりのベーコンなのだろう。スーパーで売ってる三パック税込み三百二十二円のものとはひと味もふた味も違う……多分。

 次はパスタをのろのろとフォークに巻きつける。棒付きキャンデーのようになったそれを良太りょうたはモソモソ咀嚼そしゃくした。濃厚なチーズの風味に黒胡椒がピリリと効いていて美味しかった。こんな気分でも。


「ねえ」


 向かいから声が降ってきた。あんがフォークを皿に置くところだった。


「なんで行こうと思ったの?」

「……え?」

よ」


 おばけやしき、と口の中で呟く。ぽかんと見つめていると杏は水のグラスにゆっくりと口をつけた。

 複合商業施設のレストランフロアの一角、『窯焼きピザと生パスタの店』に良太たちはいた。店内はムードのある薄暗さで、ジャズ調の音楽に混じって食器の擦れる音やお喋りに興じる声などが飛び交っている。

 杏が半眼を閉じた。


「そんなに引きずるんだったら他のにすればよかったじゃない。いろんなアトラクションがあったんだから」

「引きずってないよ……。俺、お化け屋敷は一度も怖いって思ったことないよ」

「どこが? めちゃくちゃ怖がってたわよ」

「怖がってないって。ちょっと……、びっくりしただけ」

「びっくりねぇ……」


 ううと目を逸らす。良太の脳内に先ほど体験したアトラクションが蘇った。

 施設に着き、アミューズメントフロアに上がった良太たちは手始めにモーションライドアトラクションを楽しんだ。複数人が一度に乗れるジェットコースター様の座席に座り、安全バーを下げたら準備完了。モニタに映る映像と連動して座席が激しく動くというものだ。まるで本当に遊園地にでもいるかのような臨場感ですごく面白かった。


 興奮冷めやらぬままフロアを歩く。何気なく目に留まった看板の前で良太は足を止めた。


「ねえこれ! 次はこれに入ろうよ」

「……お化け屋敷?」

「廃病院で肝試し……だって。昔ながらの歩くやつみたいだね。あ、『期間限定ハロウィン仕様』ってあるよ」


 ほら、と説明文を指差す。

 ここはウォークスルー型のホラーアトラクションらしい。順路を辿り、最奥にある院長室から院長の名刺を一枚取ってくるというミッションのようだ。

 先ほどの偽ジェットコースターはすんなり入ってくれた杏が、このアトラクションは少し複雑そうな顔をして看板を見ていた。それで良太は思ってしまった。これはと。


 頼りない光の懐中電灯――なんと持ち手の部分がファンシーなカボチャ柄になっている――を持ち、暗い道を進んでいく。すぐに片側にベッドが並んだ広い部屋に出た。いや、部屋というよりこれは幅広の通路か。正面に扉が見えていて、『順路』と書かれた札が貼られている。

 見渡す限り人の姿はなかった。空いたベッドに寝具類は一切なく、ここが使われていない場所であることを強調しているようでもあった。間仕切りカーテンは開いている箇所と閉まっている箇所があって、その裾は破れに破れていた。

 不気味だなと思いながらも、そこまではまだ周りを観察する余裕があった。問題はそのあとだ。奥からふたつめ、閉められていたカーテンがふわりと揺れた。風かと思ったときには人が飛び出し、異様な動き方で迫ってきた。全身血まみれでどす黒い肌をした、看護師らしき人間が。

 良太は絶叫した。

 杏の手を掴んで走り出す。行く手を阻むように次々現れるオバケやに悲鳴をあげ、向かってくるそれらをスレスレのところでかわし、脇目も振らずにとにかく走った。院長室に飛びこむと机上に散乱していたカードを無我夢中で引ったくり、あとは一目散に出口へ駆ける。

 なんとか現実の世界に戻ってきた。気分が落ち着いてくると良太を襲ったのは自己嫌悪だった。

 ――こんなはずじゃなかったのに。

 一向に減らないカルボナーラを見つめ、良太は深い溜息を落とした。


「俺わかったよ、おどかされるの苦手っぽい。怖いのは大丈夫なんだけど」

「ふぅん……?」

はさ、動きが読めないでしょ。機械で動くオバケと違って」

「オバケっていうかゾンビよね。確かにかなりリアルだったわね。カボチャはシュールだったけれど」

「……こんなこと言うとすごく情けないんだけどさ、今夜夢に見そうな気がする。一番最初に出てきたオバケなんてものすごい顔で睨んできたもんなあ……。杏さんも思わなかった?」

「うーん……」


 そのトーンに良太は少しだけ顔を上げた。杏の声音にはなんともいえない微妙な色が滲んでいた。もしかして杏はあまり怖くなかったのだろうか。怖いと感じた良太が単に怖がりなのだろうか。入る前に複雑そうな顔をしていたのは杏も怖いからだと思ったのだが――。

 思案げな眼差しと見つめあうこと数秒、やがて杏は「黙ってようか迷ったんだけど」と遠慮がちに口を開いた。


「あの一番始めのゾンビね、あたしの友だち」

「……は? どういう……」

「イベント系の仕事が好きらしくって。いろんなアトラクションやショーを転々としてるの。裏方のときもあるって言ってたけど、今はゾンビを極めたいって」

「極め……。え、あそこで働いてるの!? 杏さんの友だちが?」

「そう。内緒よ。良太は見てないだろうけど良太が走り出した瞬間にこう『グー』ってされたし、そのあと手を振ってくれてたわ」


 親指を立てたポーズをしてみせたあと、杏の手はひらひらと左右に振られた。

 良太はしばらくフリーズしていた。じわじわと理解が進んでいき、やがてその手からフォークが落ちた。緩慢な動きで頭を抱える。

 ――道理で渋るわけだ。

 照れ屋の杏が、友人の働く職場に彼氏と入りたいわけがない。それなのに半強制的に押し切った挙句、良太は杏と杏の友人にまでカッコ悪いところを見せてしまったのだ。





 * *





 言葉少なに帰途についた。道中「お化け屋敷は怖くて当たり前」「慣れてしまえば大したことない」「特訓するなら付き合うわよ」などとフォローの言葉をかけてくれる杏に若干の罪悪感と申し訳なさを感じた。だが上手い返しは思いつかなかった。

 それよりも――良太の本音を正直に言った方がよくないだろうか。

 悶々と考えているうちに家に着いた。リビングに入る前に良太は杏に振り返った。目線は床に落としたままだ。とても杏の顔を見られる気がしない。


「……杏さん。ちょっと聞いてほしいんだけど」

「どうしたの?」

「あの……俺、本当にお化け屋敷は怖くなくてさ、」

「ん、それはわかったから」

「なんで誘ったかっていうとね……。お化け屋敷だったら、ワンチャン杏さんの方から腕を組んでくれるかなーって……思って」

「うで。……あたしが?」


 その声だけで杏が今どんな表情かおをしているか、手に取るようにわかった。。しどろもどろに「だってさ、お化け屋敷は〝怖くて当たり前〟でしょ。だからくっついてても……」と続ければ、彼女はとうとう黙りこんでしまった。

 ――これは、まずい。


「杏さん、ほんとにごめん!」


 良太はリビングに逃げこんだ。ソファの端で扉に背を向けて小さくなる。

 やっぱり言うんじゃなかった。

 いよいよしつこいと思われたかもしれない。いや、。ほんのちょっとでいいからくっついてくれたらな、なんて欲を出したばかりにかえって株を落としてしまった。何を言っても後の祭りだけど……。


「――良太、ちょっと」


 斜め後ろから声がした。近い。

 顔だけでおそるおそる振り向いてみれば、果たして彼女は良太のそばに膝をついていた。むっと唇を引き結び上目遣いに睨んでくる感じは、いつもならば照れているときの顔だ。けれどこの状況で照れるのはまず考えられないし、今日ばかりは本当に怒っているのだろう。

 もう観念するしかない。

 できるだけ音を立てずに向き直り、姿勢を正した。そこで杏の右手が上向きに差し出された。


「トリックオアトリート」

「へ?」


 変な声が出た。たっぷり十秒ほどかけて、そうだもうすぐハロウィンだったと思い至った。

 思わず「今?」と返しそうになったが、なんとなく言い返せるような空気ではなかった。言ったらますます不機嫌にさせる。

 そう、もはやそんなことは問題じゃない。重要なのはお菓子を用意しているのか否かだ。

 良太はしゅんと項垂うなだれた。


「ごめん、持ってない」

「……そう」


 杏が立ち上がった。去っていく背中にすべもなく、良太は肩を落とした。

 今日は彼女をがっかりさせてばかりだ。

 だけど『トリックオアトリート』を杏から言ってくるなんて予想していなかった。甘いものはあまり好まない杏が、まさか言ってくるわけがないと。どちらかというと良太の方がお約束の呪文を言う側だと思いこんでいたし、当日になったら言う気満々でもいた。でもそんなのは良太が勝手に決めつけていたことだ。


 ――終わった。


 ぐったりと背もたれにもたれて溜息をついた。そのとき、


「りょうた、」


 さっき杏がいたのとは反対側、つまり背もたれのから声がした。間髪かんはつれずに手が伸びてきて、背後から抱きしめられた。良太は声にならない声をあげた。


「……ア、杏さん!?」


 いつの間にソファの後ろに――和室に回ったのか。

 小上がりになっている和室のふすまは開けっぱなしにしている。その和室にぴったり沿わせて置いたソファだからこそできる芸当ではあった。とはいえ――。

 華やかな香りがふわりと鼻腔をくすぐった。良太を捕らえた犯人は黙って両腕を良太の首に回していた。慌ただしく騒ぎ始めた心臓に気を取られていると、耳元に気配が近寄った。


「……びっくりした?」


 どこか熱を持った囁きに良太は二度三度とぎこちなく頷く。


「び、びっくりした……」

「トリックオアトリート」

「……ああ!」


 これはか。

 そうっと振り向けば間近に杏の顔があった。いつもの〝怒っているような〟眼差しだった。あっという間に彼女との距離がなくなって――とても長い一瞬が過ぎた。

 再び距離ができ、視線が交わった。杏はすぐに顔を伏せた。腕は解かず、良太の肩に額を押しつける。その耳は真っ赤になっていた。


「……良太の、気持ちは嬉しい。一緒がいいって言ってくれるの、本当に嬉しいの」


 今にも消え入りそうな声が鼓膜を震わす。


「あたしも、できるだけ応えたいって、思う、けど……。あの、……じゃ、……メ?」

「え?」

「あ……、……家じゃ、だめ……?」


 良太は大きくまばたきをした。

 杏が僅かに顔を上げた。その潤んだ瞳と目が合って、全身がカッと熱くなった。


「――だめじゃない……!」


 回された細い腕をくぐって杏の背中へと腕を伸ばす。その身をぐいと抱き寄せると良太は愛しの女神に口づけた。











――――――――――


オバケの夢はきっと見ないと思います。

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