10月

第13話 ごちそうさまです。

 ホットコーヒーを口にするかたわら、左腕を軽く内側に傾けた。スマートウォッチが点灯して時刻が表示される。


 ――あと十四分。


 さりげなく確かめるとあんはコーヒーをすすった。

 いつものショッピングモールのコーヒーショップ、その向かい側の壁にもたれて杏は時間を潰していた。ここの二階に良太りょうたが勤める雑貨店がある。なのでお互いの終業時刻が合うときは待ち合わせて買い物をするのがお約束になっていた。

 アクシデントに巻きこまれでもしない限り、良太は待ち合わせの時間ぴったりに着くタイプ。だからは十四分、いや余裕を持って十一、二分ほどか。

 親指の腹でカップスリーブを撫でながら杏はそっと目の前の人物を見やった。杏と向かい合う位置に立ってカフェラテを飲んでいる男性を。


「……ねえ、栗原くりはらくん?」

「はい」

「時間はいいの? もうすぐ六時だけど……」


 言外に「帰っていいのよ」と目で訴える。直帰の許可は貰ってあるし、いつまでもこちらに付き合う必要はない。

 彼は思案げに目を伏せた。杏がなおも見つめていると「そうですね」と微笑を浮かべた。


「じゃあ、僕はこのへんで」

「ん、また明日ね。お疲れさま」

「お疲れさまでした。失礼します」


 一礼した青年に杏も会釈する。顔を上げた彼は杏と目を合わせて口角を上げると、再度軽く頭を下げて去っていった。

 その背がしっかり小さくなるのを見届けて杏はほうと息をつく。もし粘られたらどうしようかと思った。すんなり帰ってくれて助かったけど、さすがにちょっと拍子抜けかも。




 勤務時間内にたまたま一緒に出ることになり、帰る方向もたまたま同じでなんだかんだと半日一緒に行動してしまった彼・栗原は同僚のひとりだ。立場的にはひとつ下の後輩になるのだが、勤務歴も長くなってくるとたった一年の差などあってないようなもの。敬語口調で物腰も柔和だけれど面があって、杏からはあまり深入りしないようにしている。

 そんな人だから良太と一緒にいるところを見られたくはないし、会わせたくもなかった。会ったが最後、何を言われるかわかったものじゃない。


 左腕を傾けた。――待ち合わせ時刻まであと九分。良太が来るまでに残りのコーヒーを飲み切ってしまうのがよさそうだ。

 カップに口をつけた杏の視線がふと一箇所に吸いこまれた。杏がいる通路と垂直に交わる広い通路の左側から、見覚えのありすぎる背格好の男性が現れた。痩身で、背がひょろりと高くて。

 瞬間、視線が交わった。その瞳がわかりやすくぱあっと輝く。


「杏さん!」


 駆けてきた良太はふにゃりと顔を綻ばせた。

 杏は目を瞬かせた。思わずスマートウォッチを一瞥いちべつする。


「どうしたの、早いじゃない」

「ちょっと早く上がらせてもらったんだよ。それでね、はい、これ!」


 両手でもって掲げられたのは紅茶専門店の紙袋。それを「じゃーん」と楽しそうな声付きで良太が開けてみせた。中には小さめの箱がひとつ入っている。

 なにこれ、と眉を顰めると明るい声が額を撫でた。


「商品名がすごいんだよ。見て!」


 良太が意気揚々と取り出した箱、そのど真ん中に印字された文字を杏はじっと凝視した。


「アン・プチ……ガーランド?」

「そう! 杏さんの名前! 杏さんのお茶だーって嬉しくって、前から気になってたんだよね」

「……あのねえ、アンなんてただ響きが同じだけで、」


 流れるようにツッコミを入れかけて口を噤んだ。商品説明を辿ればどうやらこれはアプリコットの香りをつけたハーブティー。つまり本当にアンズの意味を込めてつけられた『アン』らしい。


「今日、お団子と一緒に飲んでみたらどうかな?」

「団子にハーブティー? 合うかしら……」

「そうだ、お団子も早く買いに行かないと売り切れちゃうね!? お月見にはやっぱりお団子がないと。行こう杏さん」

「そんなに急がなくたってまだ全然――」


 良太はお茶の箱を紙袋に戻し、自身の左手首に引っ掛けた。右手は杏の左手をぐいと引っ張る。

 一歩踏み出したところで杏はハッと息を呑んだ。通路の先からこちらを見ている顔があった。


「杏さん?」


 良太がきょとんと振り向いた。だけど今はそれどころじゃなかった。目を離せない。動けない。

 杏の視線の先を辿る良太が視界の端に映る。時を同じくしてがゆったりとした歩調で近づいてきた。


植沢うえざわさん、」

「――栗原、くん。もう、帰ったんじゃ……」

「これ、返すの忘れてたんで」


 朗らかな笑顔で青年が片手を持ち上げた。握られていたのはボールペン。昼間に杏が貸したものだ。

 そんなの、明日でいいのに。そう言うべく息を吸いこんだが、


「カレシですか? 植沢さんの」

「――は?」


 耳に届いた斜め上の言葉にいよいよ杏の時が止まった。栗原はにこにこと、いやニヤニヤと口の端を吊り上げている。彼の視線が向けられていたのは杏ではなく、つまり彼が問いかけた先は杏ではなく――。

 良太が目を瞬かせた。栗原を見て、杏を見て、再度栗原と目を合わせたあと自らを指差す。


「え、俺?」

「……他に誰がいるって言うのよ」

「あ、そうか。ええと、その、一応そうなる、かなぁ……?」


 良太が照れ臭そうに後頭部を掻いた。なんだか杏まで顔が熱くなってきた。なんでそこでんだ。詰め寄りたくなったが栗原の手前ぐっと押し黙る。からかう気満々の彼の前で余計なことをして墓穴を掘るわけにはいかない。そしてこれ以上の詮索も勘弁してほしい。

 さっさとペンを貰って離れなくちゃ。

 そう思った矢先に杏は怪訝な目を向けることになった。栗原の表情が一変していた。彼は杏以上に難しい顔をして良太を見ている。


「――栗原くん?」

「あー、もしかして……」


 あごに手をやり何やら考えこんでいた青年は、おそるおそるといった雰囲気で口を開いた。


小窪こくぼ先輩じゃないですか? キタコウの、ハヤブサ、でしょ?」

「ハヤ……え?」

「やった当たった! うわー変わってな!」


 目を丸くした良太の顔に正解を悟ったらしい。

 歓喜している栗原の姿に杏と良太は顔を見合わせた。小さな声で「知り合い?」と問えば良太は首をぶんぶんと横に振る。


「ししし知らない知らない!」

「じゃあなんであんたの名前知ってるのよ」

「と言われても……」

「僕も北高です。小窪先輩と喋ったこともありますよ。小窪先輩と言えばその前髪! と、クラブ対抗リレー! 先輩の名前を知らない子でも『北高のハヤブサ』は絶対知ってます。今も語り継がれてるらしいですよ」

「語り……ええ?」


 良太が目を白黒させている。

 可笑おかしそうに白い歯を見せる栗原を眺めながら杏は半眼を閉じた。説得力しかない。良太の髪型はそれはそれは年季が入ってるもの。本人は知らずとも周りからは有名人だったのだろう。

 それにしてもハヤブサってなんだ。良太を指してるようだけどあまりにイメージが合わなすぎる。


「あのリレーは伝説ですからね。陸上部より速い帰宅部なんて先輩しかいませんって。ビリからの全員牛蒡ごぼう抜きは気持ちよかったなぁ。ま、半分は僕の手柄と思ってますけど。代走をお願いに行ったの僕なんで」

「……ああ! ええと何部だったっけ……バレー、じゃなくて……は、ハンド……?」

「そうそうハンドボール!」

「ハンドボール部」


 良太が指差すと栗原は笑顔でその手を取り、力強く握った。


「元ハンドボール部の栗原です。その節はありがとうございました。今は植沢さんの部下やってるんで、あらためてよろしくお願いします。先輩」

「あ、え、ハイ、よろしく……」

「待って。こ・う・は・い、ね。栗原くんあたしとひとつしか変わらないんだから。もはや同期みたいなものでしょ」

「植沢さん、」


 青年が真正面に向き直った。その笑顔に底知れないものを感じ、杏は半歩後ずさる。


「今日はありがとうございました。まさか伝説の人に会えるとは……。今度馴れ初め聞かせてくださいよ」

「なっ……、何もないわよ!」

「では僕はこれで。ペンは……じゃあ先輩に。


 筆記具が良太の左手に渡る。栗原は一礼するとどこか意味ありげな笑みを残して去っていった。

 完全にその姿が見えなくなってから杏は大きく息をついた。


「世間が狭い……」

「ほんとだね……。あ、杏さんこれ」

「うん、ありがと……?」


 差し出されたボールペンを受け取ろうとして杏ははたと我に返った。右手はコーヒーで塞がっている。左手はといえば――。


「ええっ嘘!?」


 勢いよく振りほどいた。

 信じられない。栗原とやりとりしていた間、杏はずっと良太と手を繋ぎっぱなしだったらしい。彼の含み笑いはこのせいか。

 全身から汗が噴き出す。自由になった左手で顔を覆い、杏はその場に屈みこんだ。


「……明日どんな顔して行けばいいの……」

「あ、杏さん? あの俺……」


 振り仰げば良太がペンを持ったままおろおろしていた。眉尻を下げたその顔にはさすがに罪悪感が湧いた。どうしよう、思い切り手を振り解いてしまった。


「ご、ごめん良太」


 立ち上がり、彼の手からペンを抜き取ると鞄に放りこんだ。

 良太の顔が見られない。両手で持ち直したコーヒーを見つめ言葉を探し出す。


「ごめんね……手を繋ぐの、嫌なわけじゃないんだけど……どうしても恥ずかしくて。……あっ、良太とのことがじゃなくてね、良太は何も悪くないから。これは、あたし自身の問題で……」

「あ、うん、わかってるよ大丈夫。俺こそごめん、いつもの癖でつい……ここは知ってる人と会うかもなのに」

「そう、知ってる……」


 おうむ返しに呟いて杏は目を瞬かせた。今、大変重要なことを言われた気がする。


「――ねえ良太。のことなんだけど……」

「え?」


 ほんの少し顔を上げ、上目遣いに見上げるときょとんとした目が返ってきた。


「良太のお店の人も、ここで買い物することってあるわよね……?」

「雑貨店の? うーん、多分……?」

「じゃあもしかして、知らない間にすれ違ってる可能性……」

「ああ、杏さんのことだったらみんな知ってるよ。キレイな人だねってよく言われるし」


 えへへと照れる良太に杏は再度くずおれた。

 ――考えてみれば当然だ。あの店には何度も足を運んでいる。良太のことだから仕事仲間に話を振られればそれは楽しそうに杏のことを話すのだろう。想像に難くない。

 対する杏はほとんど誰にも話していなかった。照れ臭いし、からかわれたら嫌だから。結局一番知られたくなかった人物にバレてしまったのでもうどうしようもないが。

 明日休めないだろうか。いや、休めば逆に何を言いふらされるかわからないか。気が重いけれど行くしかない。


「もう帰りたい……」

「うん、帰ろう杏さん」

「あ、」


 見上げた先で良太がふにゃと笑った。とすぐ気づいたが、訂正はしなくてもいいかと思い直した。どちらにしたって帰りたいことに変わりない。もう、一切邪魔が入らない場所で気兼ねなくゆっくりしたい。





 * *





 当初の予定通りに団子を買い、杏たちはショッピングモールを出た。

 外はすっかり夜になっていた。良太があっと空を指した。


「見て見て杏さん。ほらあそこ、満月見える!」


 まだ低い位置に黄色い月が浮かんでいた。薄雲に見え隠れしながらも柔らかな光をあたりに投げかけている。


「なんかさ、大きく見えるね。キレイだなあ」

「ん、綺麗……」

「杏さん、早く帰ってお団子食べよう」

「……ハーブティーもね」


 振り返った良太が嬉しそうに破顔する。杏も僅かに口角を上げると優しい夜空をもう一度仰いだ。











▼イメージイラスト

https://kakuyomu.jp/users/ritka/news/822139836595894879


――――――――――


※お月見といえばなんとなく9月のイメージですが2025年の中秋の名月は10月6日、満月は翌7日だそうです。

満月の瞬間は10月7日12:48なので日本からは見えません。6日夜の月と7日夜の月はどちらも〝ほぼ満月〟ということになります。(どうでもいい情報)

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