第12話 ふっかつのぎしき
――ない。
冷蔵庫の前で
どうしよう。味噌汁をやめて別の汁物にするべきだろうか。例えばコンソメスープなら今あるもので作れる。だけど――良太はすっかり〝味噌汁の口〟になっていた。今夜はなめこと豆腐の味噌汁が食べたい。
壁時計が規則正しい音を立てている。もうちょっとで杏が帰ってくる頃合いだ。今すぐ買い直しに出たとしても杏の帰宅に合わせてご飯を用意するのは不可能。
――いや待てよ。
良太は
そこからの良太は速かった。行きつけのスーパーは仕事帰りの客で混雑を極めていたが、奇跡的に並ぶことなく会計を済ませることができた。店を出た足で駅に走れば、ロータリーを抜けてくる彼女とちょうど会えた。
「杏さん、おかえり!」
「良太、どうしたの」
「あ、買い忘れがあってさ。ごめんね、杏さんが帰ってくるまでにご飯の用意しときたかったんだけど……」
料理の腕はどうしたって杏に劣る。だから良太が当番のときはせめて早めに作って待っておきたかった。
眉尻を下げて謝ると、杏は微苦笑を浮かべて首を横に振った。
――あれ?
ふと違和感を覚えた。
帰路を歩きながら隣の杏をまじまじと見つめる。ちょっと疲れたように見えるのはきっと仕事帰りだからだろう。もしかしたらあたりが薄暗いから、それでより疲れているように見えるだけかもしれない。
「暗くなるのが早くなったわね」
杏の呟きに視線を辿れば頭上はいつの間にやら藍色に染まっていた。建物が切れて少し開けた空にポツンと一番星が瞬いている。
――いや、いつもと変わらないか?
空を仰ぐフリでちらちら横目に見ていると、交差点を渡り切ったところで杏が眉間にしわを刻んだ。
「なに?」
「あ、いや……ええと」
「何かあるんだったらはっきり言って」
「あー、うん……。あのう、杏さん……疲れてる?」
後頭部を掻く。しまった、わかりきったことを聞いてしまった。果たして杏の方もむっとしたまま「そりゃあね」と首肯した。
「疲れてるわよ、すごく。急に後輩が休んじゃって、二人分の仕事を全部あたしひとりで終わらせたのよ。……変な電話もあったし」
「変な電話? クレーマーとか?」
「取引先だからちょっと違うけど……話が通じなくって。最後は一方的に切られたの」
「えー……」
大変だったねと続ければ大変だったわと返ってくる。溜息混じりで少し困ったような苦笑つきだったから良太も同じようにへらと笑った。
荷物を持ってない方の手で杏の手を握ってみた。杏はちらと視線を寄越しただけで何も言わずそのまま握り返してきた。指を絡めるように握り直してみればそれも受け入れられた。
――あれ?
目を瞬かせる。いつもの杏なら頬を赤らめて振り
杏は外でくっつくと嫌がる。例えば雨で全然人がいなくても「どこで見てるかわからないでしょ」と怒られる。
人間そんなに他人を気にかけてないと思うけどなぁと良太は思う。だけど杏が人目が気になると言うのならできるだけ尊重したい気持ちはあった。彼女の言う通り『ふたりきりになれる場所』はちゃんとあるわけだし。
それでもつい身体が動いてしまうのは、赤い顔をして怒る杏が可愛いせいだ。
今日もそのつもりだった。「こら」と怒られるのを期待して手を伸ばした。結果怒られなくてよかったはずなのに、なぜだか逆に落ち着かない。
日が暮れてわかりづらくなったから許されたのだろうか。いや、仮にそうだとしても普段の杏だったら――。
「良太?」
「わあ!」
急に覗きこまれて良太は文字通り飛び上がった。丸くなった杏の目が怪訝そうに
「……そんなに驚く?」
「あっ、ごめん。えっと……なに?」
「ああ、うん。――良太も何かあったの?」
「何かって?」
「なんか変」
うっと息を呑む。まるで取り調べのごとく睨んでくる杏を前に、ぎぎぎぎと音の鳴りそうなぎこちなさで顔を背けた。
「な、なにもないよ……」
「何もないって顔じゃないわよ。良太、わかりやすいんだから」
「それを言うなら杏さんだって――」
振り向いてしばし視線を交わす。杏の面持ちにはやっぱり力がない感じがした。今日はきっと本当に大変だったのだろう。良太を怒る元気すら湧かないくらい。
こっそり頬を掻いた。物足りない、そう思うのはおかしいだろうか。どんな杏も好きだけど、人前でくっつく良太を怒ってこそ『彼女らしい』気がする。
「……あ、」
瞬間、閃いた。前にテレビで見たのだ、今の杏にぴったりな話題を。今こそあれを試すべきでは。
「杏さん、早く帰ろう」
繋いだ手を引っ張った。杏はひとつふたつと目を瞬かせていたが特に異を唱えることはなかった。
マンションに着き、足早にエントランスを通ってまっすぐエレベーターへ。こんなときに限ってエレベーターは高層階まで上がっていてなかなか戻ってこない。扉脇のモニタに映し出されている無人の内部映像がやけにじれったく感じられた。今すぐあそこに飛んでいって『閉』ボタンを連打したい。
ひどく長く感じる待ち時間を経て、ようやく我が家に帰ってきた。リビングに入り、買ってきたものを下ろすのももどかしく良太は振り返った。後から入ってきた杏に両手を広げてみせる。
「杏さん、はい!」
「……なに、いきなり」
「ハグだよ。ハグしたらストレスが消えるんだって!」
「ハグ?」
大きく頷いた。ハグをするとストレスがなくなるらしい。しかもたった三十秒のハグで。
確か健康にもいいし美容効果もあるみたいなことを一緒に言ってた気がする。こんなに手軽で素晴らしくて打ってつけの方法が他にあるだろうか。これはもう『ハグ教』と呼ぶべきだし、なんならまっさきに入信しよう。
呆気に取られていた杏はたっぷり数秒おいてから訝しげに両腕を胸の前で組んだ。
「それでずっとそわそわしてたの?」
「え? 俺そわそわしてた?」
「してた。交差点過ぎたあたりから」
「……そうだっけ」
きょとんと見返せば杏の顔に微苦笑が浮かんだ。ふっと気が抜けるように口角を上げた彼女につられ、へへと良太も口の端を持ち上げる。
良太は催促するように両手を広げた。杏さん、と名前を呼んで、あとは待つ。やがて一歩二歩とゆっくり歩いてきた彼女は良太の腕の中に収まった。
満を持して抱きしめる。鼻腔をくすぐる甘い香りにうっとりする。柔らかな背をまるで幼子をあやすみたいにゆるやかに撫でてみた。
数秒後、杏の両腕も伸びてきて良太の背中に回された。仄かに伝わってくる温もりと優しい拘束が嬉しい。
「――杏さん、どう? 元気出た?」
「……うん」
「俺気づいちゃったんだけどさ、俺も今すごく幸せな気持ちなんだよね。すごいねこれ」
「……うん」
「ねえ杏さん、あと一時間くらいこのままでいていい?」
「ん……。うん? ――ううん、駄目」
「えー」
不服の声を上げると杏が身じろいだ。すぐにも身体を離そうとする彼女をなんとか閉じこめ続ける。杏の右手が良太の背中を叩いた。
「ちょっと、離して」
「やだ。あとちょっと」
「良太」
――やっぱり杏さんはこうでなくっちゃ。
良太は目を細める。次の瞬間、羽のように軽い口づけを送った。
――――――――――
※愛情や信頼関係のある相手と三十秒ハグすることで一日のストレスのおよそ三割を軽減することができるそう。いいですね、みんなハグしよう!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます