9月
第11話 自信を持って
玄関に見慣れないスニーカーが二足並んでいるのを見て、
キーケースを鞄にしまい、靴を脱いだところで洗面所から少年がひょっこり姿を現した。お互いに驚き――てっきりリビングにいると思っていた――杏が何かを言う前に少年がニカっと白い歯を見せた。
「杏ちゃん、おかえり!」
「――ただいま
「そう! じゃ、おれ帰るね」
「えっ?」
言うが早いか
ダイニングテーブルには開封済みのスナック菓子の袋と手作りっぽいクッキーを入れた皿、麦茶の入ったコップが三つ置いてあった。ソファの方を見れば白いローテーブルの上は折り紙で作られた色とりどりの花が山になっていた。その脇で
「……
「うん! 郁、帰るぞ!」
廊下の方に叫んだと思うと聞き慣れた声が小さく返ってきた。次の瞬間には郁もリビングに飛びこんできて、杏の姿に目を輝かせた。
「杏ちゃんだ! おかえり!」
「ただいま。あんたたち、もう帰るの? あとで送っていってあげるから、もうちょっとゆっくりしていったら」
「えっと……」
「杏ちゃんおれさあ、コンビニに寄りたいんだよね。敬老の日のやつ、帰りにプリントして帰るから」
「プリント? 何作ったの」
「肩たたき券と、お手伝い券のセット! 郁、行くぞ」
「あっ待って」
郁はローテーブルの脇でリュックサックを開けた。折り紙の花を腕で掻き寄せてリュックの中に落とす。
あっという間に片付け終えた少年たちは揃ってリビングを飛び出した。追いかける間もなかった。玄関口で「また来るね!」とめいめいに手を振るふたりを見送るので精一杯。リビングのドアの前で半分呆気にとられていた杏は、それからゆっくりと玄関に向かった。
全く慌ただしい甥っ子たちだ。何をそんなに急ぐことがあるのだろう――首を傾げながら鍵を閉め、
リビングの手前で何気なく洗面所を覗いた杏は目を見開いた。洗面台の前で難しい顔をしていたのは。
「……良太? こんな――」
こんなところにいたのと続けるつもりで口を開いた杏だったが、最後まで言うことはできなかった。ハッと振り向いた彼と見つめ合うことたっぷり五秒。やがて杏は訝しげに眉を顰めた。
「……何してるの?」
「ええと……。……あ、おかえり杏さん」
取ってつけたような挨拶が返ってきた。ずいぶんと見晴らしの良い顔でへらりと笑う良太を、杏はじっと見つめるしかなかった。
* *
アイスティーのグラスを手に杏はカウンターキッチンを出た。ダイニングテーブルには先に良太が着いている。俯いて座る彼の前にミルクを加えた方のグラスを、その向かい側に自分用のストレートティーを置いて杏も腰を下ろす。
「――お待たせ。じゃあ、聞かせてもらっていい?」
「あ、うん……」
弱々しい声と共に顔を上げた良太は杏と目を合わせるとやはり弱々しくへへと笑った。その目線はそわそわと宙を
良太と知り合って一年と少しが経ったが、今日のこれは初めて見るヘアスタイルだ。
と言っても大層な髪型をしているわけではない。彼の
「あの子たちは、普通に来たのよね?」
「うん、お昼過ぎだったかな……。お母さんがクッキー作ってくれたって持ってきたから先におやつを食べて、始めは郁くんと一緒に折り紙でお花を作ってたんだよね。
「タブレット?」
「あ、そうそう。それでお手伝い券? 作ってて。見せてもらったらまるで売り物みたいな完成度でさ。五枚綴りで点線が入ってて切り取れるようになってるんだ」
「ああプリントするって言ってたやつね」
「俺『すごいね』って言ったんだよ。俺はそんなの作れないしさ……。そしたらこんなの簡単だって。授業でやった応用だからって。で、
そのときの様子がありありと想像できてしまって杏は思わず半眼を閉じていた。まるで
良太が機械音痴かと聞かれれば杏の回答は「そうでもない」になる。パソコンやスマホは一応普通に触れるし、暇つぶしにアプリゲームをする姿も時々見る。めちゃくちゃなことをやって壊してしまうような事態にはおそらくなるまい。
ただ、ゲーム以外の堅苦しいもの――今時誰でも使いこなせるようなビジネスソフトなどは何かと理由をつけて敬遠するところがあった。
「終わってるって言われちゃってさ……あの、杏さんに愛想尽かされるぞって……」
「なんてこと言うのあの子は。あのねぇ、そんなことであたしは」
「それでイメチェンしようぜって話になったんだよね」
「……は?」
杏の眉間に再び深いしわが刻まれた。なんだそれは。
どうしてそういう展開になったのかわからないが、とにかく良太は洗面所に引っ張っていかれ、
俯いた状態でひどく恐縮している良太に杏は一言物申すつもりで息を吸いこんだ。が、ふと疑問が湧いた。それで「前から気になってたんだけど、」と口にした。
良太が小さく顔を上げたところでその額を人差し指でさした。
「前髪、なんで伸ばしてるの? 理由あるの」
良太の前髪は鼻に届くほど長い。それをなんのセットもしないまま下ろしている。
――正直なところあまり見目は良くない。とはいえ髪型なんて本人の自由だし、杏に何か言えるほどの権限もない。それでこれまでは深く触れずにいたのだが。
「目に入るでしょ? 鬱陶しくないの」
「え? ええと……まあそんなには。慣れちゃった」
「……いつからやってるの、それ」
きょとんと目を瞬いた良太の様子にすかさず「言いたくなかったら無理には聞かないけど」と付け加える。彼は即座に首を横に振った。
とはいえ即答できるものでもないらしい。良太はしばらく思案げに首を傾げていた。それほど考えこまないとわからないのか。
「確か……、近所の子が言ってたからだったかな。うん、そうだ」
「近所の子? なんて言われたの?」
「いや俺じゃなくてさ。その子が言われたんだって。『
「それで刷りこまれちゃったの!?」
「うーん……まあ、事実かなーとは。それで前髪伸びてきて、隠れるからちょうどいいなって思って……」
どこか困ったように後頭部を掻く良太。今日は表情が本当によくわかる。いつもはのほほんと笑っている印象が強い彼だけど、本当は長い前髪の奥でいろんな顔をしているのかもしれない。杏が知らなかっただけで。
杏はむっと眉間に力を込めた。勘が働いたと言ってもいい。
「ねえ、その子って……元カノ?」
容姿を悪く言われて憂うのに男も女もないとは思うが、
果たして杏の推理は半分当たっていた。目を丸くした良太は首をブンブンと横に振った。
「そんなんじゃないよ、近所のお姉ちゃん。家が近かったからよく一緒に遊んでてさ」
「お姉ちゃん、」
「俺が一年生のときに六年生で、もうひとり六年生の男の子がいて、ふたりがまとめ役だったんだよ。小学校のときは学年関係なくみんなで遊んでたから」
「――待って。じゃあそれ、一年生からずっとってこと!?」
「……もうちょっと後かな。向こうが中学生か高校生になってた気がする」
へらりと笑った彼に杏は大きな溜息をつく。これは相当年季が入ってそうだ。
話を聞いた限り良太がコンプレックスを感じる必然性は全くない。けれどそれだけの期間ずっと思い続けて長い前髪で過ごしてきたのなら、もはや自分の問題としてすり替わっているのだろう。
「人が良すぎるでしょ……」
「え?」
「他人が言われたことまで自分のことみたいに受け止めなくていいのよ」
良太が大きく瞬きをした。
――まあ確かに。良太の顔はイケメンとは言いづらいかもしれない。かと言って可哀想かといえばそれは絶対違う。
杏は良太をまっすぐ見据えた。
「言っておくけどあたし、顔で好きになったんじゃないから」
「……あの?」
「誤解しないで。貶してるわけじゃないの。そうじゃなくて、良太が良太だから好きになったのよ」
顔の造りには本人の性質が滲み出るものだ。良太は決して華やかな目鼻立ちではないけれど、若干垂れた目許には人を和ませる力と優しさが表れている。その目が杏を捉え、嬉しそうに綻ぶのを見るのはたまらなく好きだった。
「気にする必要なんて全然ないわよ。だからもうちょっと自信を――」
「もう一回!」
食い気味に声が被さって口を噤む。今度は杏が目を丸くする番だった。なんせ良太は前のめりになって目を輝かせ、周りにお得意の小花を撒き散らしていたから。
良太は立ち上がると杏のそばに膝をついた。左手を取られたかと思うと彼の両手に包みこまれる。
「今の本当? 俺のこと、好き?」
まっすぐに向けられた眼差し。その明るい色の双眸に期待が透けて見えていた。
途端に顔がカッと熱を帯びる。喘ぐように口をはくはくと動かし、杏は僅かに身体を引いた。
「い、い、いきなり何……」
「だって杏さんあんまり言ってくれないからさ。ねえ、もう一回言って」
「何度も言うことじゃないでしょ!」
「俺は何度でも聞きたいなぁ」
捕らえられた左手が熱い。息ができない。声ってどうやって出すんだっけ。
たった二文字、たった二文字だ。その二文字を発声するのが難しい。彼をがっかりさせたくはないけれど、あらたまって言うには恥ずかしすぎる。
「……す、」
「うん」
「す……、き、じゃなかったら、一緒に住んでない……でしょ」
結局口にできたのはそんな言葉だ。しかも最後の方はごにょごにょと小さくなってしまった。
聞こえただろうかと不安になったがそれを吹き飛ばすように「うん」と良太の声がした。嬉しそうな笑顔に迎えられ、杏もホッと口角を上げた。
▼イメージイラスト
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