SCENE 7
「
神父の言葉が聞こえてきた。
ケニーの隣には白い細身のドレスに身を包んだセリーナがいる。
「誓います」
セリーナは神父の方を向いたまま、厳かに答えた。
「はは、おれは
セリーナが顔を上げた。悲しそうな目をケニーに向けている。
「何を言っているの?」
「わかったんだ!」
ケニーは笑ったが、その顔は歪んでいた。振り返り、顔の部分がぼやけた参列者たちに視線を巡らす。
「これは夢なんだ。いわゆる
「どうしたの? ケニー、変よ」
「変? ああ、自分でもおかしくなったと思うよ。こんな夢を見るなんて!」
ケニーはセリーナのむき出しの薄い両肩を乱暴につかむ。
「なんで夢かって? そりゃ、あんたがこんな姿でここにいることがなによりの証拠だ!」
「やめて!」
ケニーの腕の中で、セリーナは首を横に振る。
「おれは、殺される。あんたのパパの嫉妬を買い、なぶり殺されるところだったんだ!」
「もうそれ以上言わないで!」
「いや!」
セリーナの高い叫び声が教会中に響き渡る。ケニーは思わず耳をふさいだ。
だが、次の瞬間、ケニーは信じられないものを見た。
下を向いて叫んでいたセリーナが顔を上げると――
まっすぐなプラチナブロンドの髪は黒い巻毛に、ミルク色の肌はトースト色へ変わっていた。
「ティタ?」
そこにいたのはティタだった。悲しみをたたえた瞳は変わってない。
ただ、その色はスカイブルーからハシバミ色に変わっていた。
ケニーはすっかり混乱していた。
そんな彼を見ながら、ティタは苦笑いとともに、首を横に振った。
「そうよ、これは夢なの。……あなたの言う通り」
目の前のステンドグラスがはまった高窓が、バラバラと音をたて剥がれ落ちていく。ガラスが割れたという感じではない。壁紙が剥がれて落ちるように崩れていく。
そして剥がれた後は――白かった。外の景色も何もなかった。ただ、どこまでも白い空間があるだけだ。今まで見えていた景色は、剥がれ落ちながら白の範囲をどんどん広げていく。
(何だ? 何が起こっているんだ?)
「ただし、あなたの夢じゃなくて、私の夢の中」
「なんだって?」
ティタは微笑みながら、頭につけていた長いヴェールを外した。クラシカルなレース模様が美しいそのヴェールは、ティタの手から離れると、地面に落ちるまえに、煙のように消え失せた。彼女の目はヴェールが消え去った辺りをしばらく見つめていた。
「あれから何が行われたのか、話すわ。
あなたはまだ自分が死なないと思っていたけど……私はあの街で暮らして、何度か死人を見たことがあるからわかった。部屋に入ってきた時から、あなたは長くないと思った」
ケニーの身体は細かく震えていた。
まさか、自分ではなく、ティタの夢だったとは。自分が登場人物にすぎなかったとは。
「信じようが信じまいがどちらでもいいけど、私にはあなたが近々死ぬ未来が見えた。そして予感通り、あの日、あなたが死にそうになって私のところへ飛び込んできた」
やはりあちらが現実だったのだ。
レイフの運転手で、薬中のバズが友達で、売春婦のこの女と寝ていた。
ボスの女に懸想して、まんまと罠に嵌められ、殺された。
自分の夢ではないと言われ、ケニーに形容しようのない不安と恐怖が湧きあがる。
「ど、どうやってこんなことできたんだ? そしておれはなぜこんなに自意識がある? おまえの夢の中なのに?」
ケニーが焦りながら辺りを見回すと、いつしかほとんどが消え失せていた。
神父も、参列者も、十字架も、説教壇も。何もかも。
ジグソーパズルを壊したときのように、教会であったはずの景色はもはや下の方に残るのみだ。
それ以外は――白、白、シロ。
ただの空白が続いている、どこまでも。
「ママが寝たきりになったおばあちゃんに会いに行ったことがあるの。それもおばあちゃん自身に教えてもらったそうだけど……ようするに自分の夢に死者の魂を呼び寄せる術。私はそんなこと信じてなかった。でも実際三日ほどママはおばあちゃんの横でずっと眠ったきりで、起きてきたと同時におばあちゃんは死んでいた。
ママはやり方を教えてくれなかったけど、私は見てた。林檎の枝、アニスシード、アンゼリカや動物の内臓……なんかをね。衝撃的だったから、しっかり記憶に残っていた」
「そして、それをあなたに飲ませた。痛み止めだと言って」
ケニーはいったい何の話を聞いているのかわからなくなってきた。
「私も同じものを飲んだ。ママと同じように、私は今、あなたの横で眠っているわ」
「なんでそんなことをした⁈」
ケニーがたまらず問うと、ティタは陶然とした表情を彼に向けた。
「……あなたを好きだったからに決まってるじゃない。あなたの魂を私のものにしたかった」
ティタはケニーの答えを待つようにじっと見つめたが、ケニーが蒼白の顔のまま、言葉も出ないのを確認すると力なく笑った。
「私、今の自分が本当に嫌になってたの。だからお芝居を見たり、ロマンス小説を読んでいるときだけ気が晴れた。現実逃避よ、わかってる」
空白だったティタの後ろにふいに映像のようなものが浮かびあがった。
そこにケニーは自分の姿を見た。左腕が血だらけのまま、ベッドに横たわっていた。
ティタが用意したのか、何か得体の知れないものを入れた小皿が彼の頭の周りを囲うように置いてあった。周囲には白く煙って見えた。
「最初は上手くいっていた。なのにあなたはだんだんと本当の自分を思い出していった。あなたの望み通り、セリーナになりきろうと観察までしたというのに」
ティタの言葉にケニーは初めて敏感に反応した。
「観察だ⁈ そうだ、おまえ、おれたちを見ていただろ? ……もしや、おまえなのか、ゴードンに言いつけたのは」
最後、あれはティタの記憶か、セリーナに近づき、身分証を見た。
ケニーの中にようやく怒りが沸き上がる。
「それに答えたからって、今さら何が変わるというの?」
「ふざけるな!」
声を荒げるケニーに対し、ティタは冷静だった。
「あなたは純粋なものに憧れるように彼女にのぼせていたけど、あの女は自分を連れ出してくれる男なら誰でもいいのよ」
「うるさい!」
足元がグラグラした。うまく立っていられなくなり、ケニーは膝をつく。
そうだ、怒りをぶつけても、いまさらだ。
目の前の女が言っていた。「死者の魂を呼び寄せる術」を施したと。
(つまり、おれは、すでに死んでいる……ということか)
「ティタ、これから、どうなる? おれはいったい……どうなるんだ?」
答えを求めるように崩れ落ちたケニーの手は、自然とティタのまとうドレスの裾をつかんでいた。
「どうなる? あなたの魂は……私の無意識の中だけで生きているってことになるから、私が目覚めたら……」
ケニーは足元を見た。
もう地面は見えない。上も下もわからない。
どこまでも続く白、白――果てのない空白。
「いやだ! 助けてくれ‼︎」
「もともと、どこまで持つかもわからなかったのよ。ママも三日だったし。
でももういいでしょう? 本当の自分を知ることができて。何も持っていないのに、勇気も気概もないくせに、悪ぶってるあなたも私はかわいくて好きだった」
ケニーは叫び声をあげたが――口からは何も出なかった。
冷や汗で顔をドロドロにして獣のように這いつくばい声なき声で喚き続ける彼をティタは冷静に見つめ続けた。
「さよなら、ケニー。愛してたわ」
彼の姿は壊れたTV画面のように伸びたり縮んだりを繰り返し
やがて細長い線となって
消えた。
ティタ・ブラウンは目覚めた。
三日間、誰がどんなことを試みても目覚めなかった女は、三日後の午後一時に目を開けた。ティタは近所のレンブラント病院の大部屋に寝かされていた。
看護師の連絡を受けて、真っ先に彼女に会いに来たのは知らない男だった。
「ニューヨーク市警のダドリーです。あなたが目覚めるのを待っていました、ミス・ブラウン」
四十前後の疲れた感じの男だった。彼のシワだらけの汚れたコートに、案内してきた看護師が終始顔をしかめていたのを覚えている。
結局のところ、ティタはダドリーの期待には応えられなかった。
ケニーの意識の断片から、彼が(ゴードンの指示で)ラリーに殺されたことはわかっていたが、ケニー自身も事務所に盗みに入っている。だがそれ自体、おそらくはゴードンかあるいはその手下が画策したことだろう。ケニーも騙されたと言っていた。
つまりゴードン側がどう出るかわかるまで、ティタは知らぬ存ぜぬで通すつもりだった。
そこでティタはケニーが誰に撃たれたかについては聞けなかったとだけ答えた。
自分の部屋を訪ねて来た時すでにケニーの意識は朦朧としていたと。
「あなたはなぜすぐに救急を呼ぼうとしなかったのですか?」
「呼ぼうとしました。ただ、彼が辛そうだったので、まず横になってもらいました」
「枕元に散らばっていた三つの小皿の中身は一体なんですか?」
「
「たしかに違法性はありませんでした。何かを飲んだようですけど、それも薬みたいなものですか?」
「はい。同じく鎮痛効果がある薬草です。それが効きすぎて、眠ってしまったのかもしれない」
ダドリーの問いにテンポよく答えていくティタだったが、ダドリーは眉根を寄せた。
「効きすぎというレベルではないですよね。三日もですよ?」
「そう言われても」
ダドリーはあきらかに納得がいってない顔だったが、ティタが「あたしだって困る」という顔でため息をつくと、ダドリーもがっくり肩を落とした。
「では、最後にあなたがたのことを通報した人物に心当たりは?」
ティタはおそらくラリーという男だろうと思った。
あの性格からして、ケニーが完全に死んだのを確認してからでないと、あの場から離れることはないはずだ。ただ、何を考えているのかわからないのが、ラリーが
「さあ、ご存知の通り商売が商売ですから、訪ねてきたお客さんかもしれません。トラブルは避けたくて、でも放っておくのも良心の呵責が……ってことだと思います」
そういう匿名の通報はこの刑事が担当した事件だけでも数十件はあるだろう。
ダドリーはおそらく自分のことはすでに捜査済みで、違法かつ強引な客引きもしていないし、ポン引きともつながりがないことは知っているはずだとティタは思った。
そういったトラブルは母親がよく起こしていたので、自分の場合は電話で直接取引をし、信用できそうな相手に限り、部屋に来てもらうというやり方をしていた。最初は変な客につかまって酷い目に遭うこともあったが、だんだん話しただけで、相手の要求が異常か普通かわかってくるようになった。
そこはもしかすると元来の勘のよさも手伝っていたのかもしれない。
ましてや自分はケニーと関係はあったものの、それ以外の人物には会った事もない。向かいのバズなんて、軽蔑を込めた眼差しで見ることはあっても、口をきいたこともなかった。今までのいきさつは、全てケニー(の魂)が教えてくれたことだ。
ああ、一つだけあった。セリーナに接触はした。あのドーナツ店で身分証を抜き取って、大学生であるのを確認した。
でもそれは彼女を観察するためだ。
ある時からケニーが訪ねて来なくなり、他の女が出来たのではと疑った。ケニーの後をつけて、セリーナのことを知った。二人は何故か回りくどい方法をとって逢引きしていた。
セリーナが人妻なのだろうかと思ったが、彼女を観察してわかったのは、一人で暮らしているにも関わらず、常にSPみたいなガタイのいい男が数人交代で彼女の部屋を見張っていることだった。そこに時折スキンヘッドの目つきの悪い男が訪ねてきた。マフィアのボスみたいな風貌だった。
(こいつの情婦なんだ。お嬢様みたいな顔して、わたしとやってることは変わらないじゃない)
意地悪い笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
だが同時に遊園地で子供のようにはしゃぐ二人の笑顔を思い出し、胸がむかついた。
自分と会うときはケニーはあんなふうに笑ったことがない。
ゴードンがセリーナのもとを訪れるのは大抵金曜の夜で、土曜の昼前に出ていく。それを把握したティタは彼の車の後部座席の窓からケニーたちを撮った写真を差し入れて歩き去った。
その結果に特に期待していたわけではなかった。ただ、数日後、ケニーが久しぶりにティタを訪ねてきた。それもバズと会ったので、ついでにという風だった。そこでへそくりに手をつけられそうになり、ティタは怒ったが、それに対しケニーが誤魔化すように芝居のチケットを買ってやると言った。一緒には行けないけど金は送ってやると言われ、ティタは自分の勘の良さを呪った。ケニーはセリーナとどこかへ逃げる気だと思った。
それは思いもよらない結果で、後からケニーの記憶によって裏付けられた。ただ、まさか、ゴードンがケニーを殺そうとまでしていたとは思わなかった。
「ブラウンさん?」
「あ、はい」
ティタは目の前のダドリーに意識を向けた。
「まあ、ウォルツ――あなたの斜め向かいの部屋に住んでいた男ですがね。そちらから犯人はすぐに辿れると思います」
「たしかにケニーはあの男と友人でした。私は付き合うのをやめるよう何度か忠告したんですけど」
しおらしくうなだれた自分を信じてくれたのかはわからないが、ダドリーは病室を出て行った。
ティタは、ダドリーがあのヤク中のことはドラッグ絡みのトラブルで殺され、ケニーもその場にいて巻き込まれたと報告書にまとめるだろうと踏んだ。色々不自然な点はあるだろうが、彼の様子からして、それよりも家に帰って熱い風呂に入って寝たいはずだ。これ以上追求されることはない気がする。
それよりもティタが恐れていたのは、ラリーの存在だった。
男は音もなくやってきた。夜中の不躾な訪問だった。
ラリーの大きな片手に首をつかまれた状態でティタは目覚めた。彼は小声でこう聞いてきた。
「なぜ警察に何も言わなかった? やつはあんたに助けを求めたはずだ。なぜすぐに救急なり呼ぼうとしなかった? あんたの行為は異常だな。何をしていた?」
(そうか、それが私に聞きたかったことなのか。だから私を殺さなかった?)
ティタは次の瞬間には首をへし折られるかもしれないという状況にもかかわらず、自分でも不思議なくらい、落ち着いていた。
「誰にやられたかなんて聞いてないわ。酷い出血で、もう死にそうだったもの。それに刑事にも言ったけど……意識を失ったわけは自分でもわからない。脳か何かの病気かもね」
その辺りは特に異常はないと、目覚めた際、医者に言われていたが。
「何をどう言おうと、ケニーが戻ってくるわけじゃないし」
消灯後の暗がりで、ラリーがどんな表情をしているのかティタには全く見えない。ただ大きな背丈と太い腕を見ただけで、ケニーが恐れていたラリーなのはすぐにわかった。
「無関係なあんたまで殺すと、やっかいなことになるから生かしておいたが、今晩の対面のことは忘れた方がいい。もしあんたが変な復讐心や義心で、後から私のことを言ったとしても、もう遠くに行ってしまってると思った方がいい」
海外へ逃亡か。さすがに殺人まで犯してしまえば、しばらく姿を隠しているようにゴードンとかいう男は命ずるかもしれない。
ラリーの手がティタの首から離れた。
彼の姿が薄闇の中で静かに遠ざかって行くのがわかった。去り際に、聞こえるか聞こえないかくらいの声でラリーが問うた。
「ところで……あんた、あのバカな男に惚れてたのか?」
ティタの答えを聞くことなく、ラリーは姿を消した。
目覚めてから二日で、ティタは退院した。遺体と一緒に眠っていたことは近所中に知れ渡っていたが、好奇の目で見られてもティタは何も感じなかった。
空虚さは夢を見る前と変わらない。いや、むしろ増していた。
ティタは電車に乗ると、ある場所へ向かった。
共同墓地だ。
ケニーの遺体は引き取り手がなく、ここへ埋葬されたと病院で聞いた。たしか母親は病気で亡くなり、父親とも数十年連絡を取っていないと以前ケニーから聞いた気がする。
小学生最後の夏休みにケニーと何度か遊んだが、顔に殴られた痕があったり、顔を顰めてお腹をさすっていることがあった。父親に暴力を振るわれているのをうっすら察したが、ティタは何も言わなかった。ティタ自身、母親のことに触れられるのは嫌だったので、たぶんケニーも同じだろうと思った。
それはもしかしたら「同病相憐れむ」というやつだったのかもしれない。
だとしてもティタにとってケニーと過ごした日々は特別な思い出だった。中学ではまるで他人のように振る舞われたとしてもだ。
だから大人になって偶然再会したときも、本当は震えるほど驚いたが、表に出さないようにしていた。彼は子供の頃からきれいな顔だったが、大人になると色気まで加わっていた。そういう男のご多分に洩れず、さまざまな女と寝てきたことは間違いなかったが、対するティタも商売上とはいえ、経験では負けてない。彼女のテクニックにケニーも満足しているようだった。
ただ、この関係はいわゆる「恋人」というわけではないのは、ティタにもわかっていた。会うのはティタのアパートの部屋で、外でデートなどもしたことがない。こちらから誘うことも出来なかった。断られたら惨めだし、彼がここに来なくなるかもしれない。会えなくなることを考えたら、性欲処理程度に扱われても、気にしないそぶりをするしかなかった。
そんな自分と向き合うことすら、ティタはしていなかった――セリーナの存在を知るまでは。
白と青と金。ティタの持っていないものを全て備えたセリーナの輝きに、ケニーが強く惹かれたとしても仕方のない話だった。2人の逢瀬を確かめたとき、打ちのめされ、やがて自分でも制御しようのない憎しみへ変わっていくのを止められなかった。
自ら仕掛けたことの結果が、ケニーの死だとは思わなかったが。
でも偶然とはいえ、自分のもとへやってきたケニーを今度こそ手に入れられる。ティタは言いようのない歓喜に震えた。
(夢の中で、あの女の姿までとって、満足させてあげたのに。なぜ事実を思い出そうとしたの?)
ケニーが自分の真実を思い出すことに引きずられるように、ティタの真実の姿も暴かれていった。
何がいけなかったのだろうか。それとももともと短い夢でしかなかったのか。
考えても仕方のないことだった。ケニーの魂は消えた。
ティタは芝に埋め込まれた粗末な墓石の数々を眺めながら歩いた。
最近のものだから、手前にすぐに彼のものを見つけることが出来たが、それでもティタは全部の墓石を見て回った。知らない名前たちを。
重たい雲が立ち込めていたが、とうとう霧雨が降ってきた。
もう一度、ケニーの墓の前まで足を向けた数十メートル手前で、ティタは足を止めた。
ケニーの墓の前に、黒いコートと帽子を被った女が立っていた。
「セリーナ」
ティタはその名をつぶやいた。夢の中で自分がなり代わっていた女の名を。
黒い服装は喪服のつもりだろうか。
ケニーを哀れみに来たのだろうか。自分の養父に殺されたというのに。
ティタはしばらく距離をとったまま、彼女を観察した。
雨雲の下でもセリーナの白い顔は綺麗だった。プラチナブロンドの髪を小さく纏め、レースつきの帽子に収めているようだ。なんとも上品だ。まるで映画の中に出てくる麗しき未亡人。夫を亡くし、失意に暮れた。
ところが次の瞬間、ティタは信じられないものを見た。
コートの下から伸びた白い脚が、地面をグリグリと踏みつけていた。信じたくはないが、その場所にあるものは、あれしかない。
セリーナはケニーの墓石を黒いパンプスのつま先で踏みつけた。
その顔は――笑っていた。
歪んだ笑みだった。初めて彼女が醜く見えた。
ティタはケニーとの最期の夢の中、セリーナになっていた理由が今、わかった気がした。
今の自分と最もかけ離れた姿かたち、恵まれた生活を営む誰か。それを求めていただけだったのかもしれないと。
そして現実のセリーナを無視し、ティタは自分の理想を当てはめた。
セリーナの見た目はまるで彼女の愛読するエレノアシリーズのエレノアのようだった。白く、清らかで、美しく、愛らしかった。彼女に溺れるケニーも、ティタが実際に知っているケニーではなかった。狡賢くなく、誠実な男だ。
それもケニーが色々と思い出し始めるまでの短い夢にすぎなかったが。
「何をしてるの?」
ティタは彼女の行為に耐えられず、思わず声をかけた。
セリーナの脚が何事もなかったかのように、墓石から離れる。顔を上げて、こちらを見た彼女の顔は、ふたたび恋人を悼むような美しい表情に戻っていた。
「あなたは?」
セリーナはティタを覚えていなかった。
たしかに会ったのは一度きりだが、印象に残っていないことに驚く。
(まあ、あれから彼女も酷い目に遭ったのかもしれない)
ティタは彼女の方へ歩きながら口を開く。
「セリーナ……よね? 私は、ティタ。ケニーの友達。あなたのことは話に聞いていただけだけど、見てすぐにわかったから」
ケニーの名を出し、セリーナの反応を待った。
「そう。ケニーの……」
セリーナは、コートのポケットからショッキングピンクのハンカチを出すと、目元に充てた。ティタは少し寒気を覚えた。彼女は少しも涙を流していない。
ふいにセリーナは何かを思い出したように綺麗な青い瞳を見開いた。
「ああ。ティタ、あなたなのね。ニュースで見たわ。彼の最期に、一緒にいたって」
「ええ、そうよ。彼の友達……セバスチャンの向かいに住んでいたから。あんなことがあって、私のところに逃げてきたの。ただ、もう、間に合わなくて」
(どんな気持ちで、あんたは私の言葉を聞いているの?)
さっきの歪んだ笑みはどういう意味があるのか。
ティタはセリーナに問いかけたくて手が震えたが、それはできなかった。夢の中ではもう一人の自分だった女に。
「ずっと眠り続けていたって……遺体の横で?」
セリーナは「信じられない」と言うように眉を顰めた。
「ええ。自分でもよくわからないんだけど……脳には異常ないってあとで言われたから」
「眠っていた間って、夢を見たりしたの?」
おそらくセリーナは興味本位で聞いてきただけに違いないのだが、ティタはあんまりな質問に笑い出しそうになった。
「ええ、見てた。ときどき、ケニーも出てきたわ」あなたもね。
「私も夢でいいから、また彼に会いたい。つきあったのはほんのわずかだったけれど、いい人だった。残念だわ」
セリーナの言葉にティタは絶句した。
(“いい人”? “残念”? 愛してたんじゃなかったの?)
ケニーが消える直前、腹いせにセリーナのことを「自分を助け出してくれる男なら誰でも構わない」と言ってみたが、まさか当たっていたとは。
ティタはさっきのセリーナの異常な行為を思いかえす。
ケニーは失敗した。セリーナにとっては、ただの「しくじった」男にすぎなかったのだ。
現実のセリーナは、ティタの想像の範疇を超えていた。
彼はすでに死んでいるのに、怒りのあまりなのか、墓まで踏みつけるとは。
さすがに見えてなかった。
この美しい女の心にある、真っ暗な闇までは。
ふと、セリーナの左手の指輪が目に入った。
若い彼女に不似合いな、大きなダイヤモンドがはまったリング。
「失礼なことを聞くけど、あなた結婚したの?」
ティタの質問にセリーナの顔から表情が消えた。
「……ええ。継父だった人とね」
セリーナはもう二度と会わないと思ったから自分に言ったのだとティタにはわかった。
彼女の過去からして、ゴードンがなぜ今のタイミングで結婚したのかはわからなかった。
いずれにしろ、彼女は捕えられた。逃げられない形で。
「では、先に失礼させてもらうわ。さようなら」
「さよなら」
セリーナは背筋を伸ばし、モデルのように優雅に歩きながら、墓地から出て行った。
ティタは髪が霧雨で重くなっていくのを感じながら、しばらくその後姿を見送った。
ケニーが彼女と真実の愛を築いていなかったことがわかっても、ティタの胸にぽっかり空いたままの穴は……埋まることはなかった。
眠りたい。
ティタは帰りの地下鉄の車内で思った。
次に眠るときは、夢など見ないで眠りたい。
二度と目覚めたくなかった。
THE END
スカイブルーの瞳 のま @50NoBaNaShi60
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