SCENE 6

 おそらく、最初から罠だった。

 ケニーはアパートの入口にたどり着き、荒い息の中、思い返す。

 まず待ち合わせ場所にバズが現れなかったことだ。

 ヤツの携帯に電話しても、出ない。苛々しながら三度ほど電話した段階で、チャーリーからメッセージが入る。

 まだバズが来てないと言ったにも関わらず、チャーリーはケニーにパスコードを教えた。

 「あいつと何か取引していたんじゃないのか?」と尋ねたが、チャーリーからは「おまえらが金を山分けしようが、独り占めしようが、おれには関係ない」と返ってきただけだった。てっきりバズにドラッグを融通してもらった見返りなのだと思ったが、そうではないようだ。

 この段階で何か怪しむべきだったが、ケニーは金が必要だった。

 セリーナと一緒に西へ逃げて、当面生活できるような金が。

 バズのことは友人だと思っていたが、約束の時間に来ないのに義理立てて待つほどの間柄でもなかった。チャーリーの言葉に深い意味はなかったのだろうが、「独り占め」と言われ、勝手に免罪符をもらった気になってもいた。

 事務所のあるオフィスビルへ向かう。

 地下駐車場へ自分の車で入るとカメラで記録されて残るので、少し離れたところへ置いて、歩いてきた。カメラの死角を縫うようにエレベーターへ近づく。入り口の詰所の前を姿勢を低くして通り過ぎたとき一瞥して中を検めると、やはり警備とは名ばかりの老人が椅子にもたれて気持ちよさそうに眠っていた。

 五階の事務所へ難なくたどり着く。パスコードを入力すると、ドアの鍵が開く音がした。

 運転手のケニーは事務所に寄ることはあまりなかったが、全く中を知らないというわけではない。電気が消えたままの廊下を懐中電灯で照らしながら進む。

 左右に並ぶ応接室を過ぎ、突き当たりに二つドアがある。

 右側が事務室。チャーリーと事務員が基本詰めている部屋。

 左側は所長室、つまりレイフの私室だ。ケニーは以前、クリーニングしたスーツを持って入ったことがあるが、インテリア雑誌の一ページみたいに整然としていて、いささかゾッとしたのを覚えている。

 もちろん用事があるのは右の事務室だ。

 ドアを開け、中を照らすと、チャーリーの事務机の後ろにある棚に据え付けられた小さな金庫の扉は開いたままだった。

 その中に、輪ゴムでまとめた現金の束が無造作に置かれていた。

 現金の束が全部で三万ドルあるのかどうかはわからなかったが、ケニーはふらふらと金庫へ近づいた。緊張より興奮が上回った。こんなに簡単に金が手に入るなんて。

 何かがおかしい。

 そう思ったのと背後から誰かがカーペットを踏みしめながら近づく微かな足音に気づいたのは、ほぼ同時だった。部屋の中が煌々と明るくなる。

 ケニーは振り返ることができずに固まっていた。

「おまえはもう少し頭のいいやつだと思ってた」

 その声に、ケニーはぎこちなく首を動かした。

 ラリーは前回会った時と同じく、上下揃ったスーツ姿だった。

 服の上からでもわかる肩や腕の筋肉、どこを見ているのかわからないサングラスもなんら変わりがない。

「ゲイリーが反吐を吐いたのを見ただろう」

 ケニーはラリーの右手を見た。後ろに隠して見えないその掌の中に何があるのか。

(銃か)

「彼女に話しかけられた段階で、あんたは拒否すべきだった」

(そんな! なんでバレたのか? 逢うときは気をつけていたのに)

 ケニーは内心焦りながらも、懸命に顔に出さないようにして、ラリーの右手を見つめ続けた。

「何のこと? たしかにお嬢さんと話はしたけど、ほんの一瞬だ」

 無駄かもしれないと思いつつ、とぼけてみせた。

「私の右手が気になるか?」

「…………」

 ラリーが右手を見せた。

 ベレッタM92F。

 銃口の先に筒のようなものがついている。ケニーにはよくわからないが、消音装置かもしれない。

 ラリーの大きな手に握られたその銃はおもちゃのように見えた。

 しかし、その銃口はケニーに向けられることなく、下げられた。

「おかしくないか? ゲイリーは反吐吐く程度で済んだのに、おれは……撃たれるなんて」

 口がカラカラに乾いていくのを感じながら、ケニーは声を振り絞った。

 ラリーは答えず、こちらを見ている……のだと思うしかなかった。

 サングラスの奥の瞳が実際はどこを向いているのかわからないからだ。

 だからケニーも動くことができなかった。

「西部劇なら、人の金に手をつけた時点で撃ち殺されてもおかしくない」

 そう答えるラリーに、ようやくケニーの中で怒りが湧きあがってきた。

 さきほどから、金の話はしていない。

 たかだかコソ泥のために奴が出張ってくるはずはなかった。

 セリーナのことがゴードンにばれ、奴は始末を頼まれた。

 あくまで、侵入した窃盗犯を撃ったということにするのだろう。

 今晩、セリーナとある場所で待ち合わせていた。

 金を手に入れたら、真っ直ぐそこへ向かって、彼女と一マイルでも西へ逃れるはずだった。

 どこまでがグルだったのか。

 チャーリーは最初からラリーに命令されていたに違いない。そうなるとレイフも知っていたのかもしれない。バズ……は金に目が眩んだのか。

 もはや考えても仕方のないことだ。ケニーは水の中に落ちたネズミも同然だった。

 焦りと怒りに喚きたい気分を堪えながら、ただひたすらに、銃を持つラリーの手を穴が開きそうなほど見つめていた。

(いつだ? いつ、撃ってくる?)

 ラリーが左手でサングラスに触れた。

 その瞬間、ケニーは前の事務机の上にあった何かを掴んで投げた。ラリーは横へよけたが、肩に少し当たった。

 ケニーが投げたクリスタルのペーパーウェイトは壁に当たって砕け落ちた。

 だがケニーはそれを見ていなかった。ラリーがよけたその一瞬、彼の傍らをすり抜けて、外へ飛び出したから。

 暗い廊下をただ真っ直ぐに突っ切った。追突することで扉の存在を確かめ、開いて出ていく。

 エレベーターに乗るのは、ラリーの行動が読めないだけに、あまりにも危険だった。

 奥にある階段を使う。

 車を地下駐車場に止めておけばよかったと後悔する。

 一階まで降りてきた時に、裏口の前で迷った。このままエレベーターの前を突っきって、正面玄関から出た方が安全か。いや、裏口から裏通りを通って少し行けば自分の車が停めてある。

 ケニーは裏通りを走った。

 だが、角を曲がろうとしたところで足が止まる。彼のCRVの前で、警官が二人立っていた。

 駐車違反か、それとも強盗が早々に通報されたのか。

 最初からツキに見放されていたから、すぐに気持ちを切り替え、角を曲がらずまっすぐ走り出す。躊躇している暇もなかった。目の端でビルの裏口から出てきたラリーの姿を捉えたからだ。

 ケニーは夕闇迫る裏通りをただ、走った。何度か背後を振り返ると、100メートルほど後から、体格のいいラリーの黒い影がゆっくり歩いてくる。

 走って逃げるケニーに対し、ラリーは悠々と歩きながら五十メートルほどの距離を保ち追ってきた。とにかく近くのバズのアパートに向かう。警察はバズのところには来ないだろう。


 バズは中学が一緒だった悪友だ。バズも刑務所を行ったり来たりしている実父に暴力を振るわれていたので、そういう部分でケニーと馬が合った。

 バズは中学卒業と同時に実家を飛び出し、リトルイタリーの貧民街に身を寄せていた。

 ケニーも家とも言えないような狭苦しいトレーラーハウスから早く出ていきたかった。ようやく高校を卒業すると父親に何も言わず、半ば家出同然でバズの家に転がり込んだ。

 バズはランドリー会社の配達の仕事につきながら、そこで稼いだ金のほとんどをドラッグに注ぎ込むという生活をしていた。

 バズの働くランドリー会社がゴードンのバーと契約していた関係で、ケニーもバーテンとして働くことになった。自分の部屋を借りる目処がつき、彼のアパートを出てからも一緒に飲んだり、部屋に遊びに行くことも度々あった。訪ねるとバズはたいていタバコ臭い部屋でTVを見ながらドラッグをきめていた。


 靴音に、ケニーはびくついた。自分の心臓の音がまるでステレオ放送のように頭の中で双方から鳴り響く。

 ひりつくような痛みが襲ってきた。ケニーは恐々、左腕に触れた。右手を見ると、真っ赤な血で染まっている。

 もう少しでバズのアパートの入口というところで、ラリーが二発撃ってきた。

 その一発が左腕を掠った。ケニーは意を決して、傷口を見た。

 左の肩の下辺りに四センチほどの切り傷ができていた。普通の切り傷と違うのは、傷の周囲が火傷のように黒く、えぐれている。

 思わずうめいた。血は容赦なく傷からにじみ出て、腕にいくつもの筋を作っていく。

 足元には早くも血溜まりができていた。その出血量を見ただけでケニーは気が遠くなりかけた。

 バズがあいつらとグルかもしれなくても構わなかった。とにかく今はラリーから身を隠したい。無理矢理にでもヤツの家に押しかけるしかなかった。

 ケニーはダストボックスの上に乗ると、窓側の非常階段に手を伸ばし、傷みを堪えて身体を持ち上げた。階段をつたってバズの部屋へ入るつもりだった。

 三階まで上がると、バズの部屋の窓があった。中は灯りが消えていて暗い。

 窓を押し上げると、それだけでケニーの左腕から血が吹き出したような気がした。

「バズ、いないのか?」

 下から非常階段を上がってくる音が聞こえた。

 規則正しい音だった。急いでいる様子はない。足音の主はラリーしかいなかった。この転々と落ちている血を辿っていけば、自分の足取りは丸わかりだ。焦る必要もない。

 真っ暗だが、バズの家に入り、ひとまず明かりを探す。腕の出血を止めてから、どこかに隠れ、ひとまずやり過ごしたい。

 戸口のスイッチを手探りで見つけ、押した瞬間、血の匂いを感じた。

 自分の腕の出血の匂いだと思ったが、それとはまた違う、嫌な匂いを本能的に感じた。

 死の匂いだ。

 明るくなった居間に、バズの変わり果てた姿があった。

 見慣れた黄緑のソファーに寝ているような形で横たわっていた。だが、その額には大きな穴が開いている。その頭の下には貫いた弾丸がぶちまけた脳髄が散らばっているのだろう。飛び散った血はすでに乾き、広がった長めの赤毛と共にソファーへ張り付いていた。

 ケニーはころげるようにしてバズの部屋から廊下へ飛び出し、斜め向かいの部屋をノックした。商売中かもしれないということを考えもせず、ティタ・ブラウンの部屋を激しくノックし続けた。

 自分もバズのようにされる。ケニーの頭の中は今やそれだけになっていた。


 バズを訪ねるようになってからしばらくして、十年ぶりにティタとも再会した。バズより前から彼の部屋の斜め向かいに住んでいた。後から聞くと、母親の都合で高校の頃に越してきたらしい。

 ティタとケニーは小学校最後の夏休みに遊んだだけだった。中学では互いにまるで他人のように知らぬふりをしていた。高校は別になったので、まさかのちに再会するとは思ってなかった。

 再会したティタが売春婦だったことにケニーはあまり驚かなかった。今思えば、ティタの母親も売春婦だった。もっとも小学校のころはみな彼女を「魔女」と呼び、ティタを「魔女の娘」と呼んでいた。

 なんか怪しげな魔術を使うとか言っているやつもいれば、いや占いができるだけだと言う女の子もいた。

 ケニーが驚いたのは、ティタがケニーと遊んだほんの数日をこと細かに覚えていたことだ。

 ただ、ケニーも一度行っただけのティタの家のことは覚えている。

 今では笑い話だが、当時は魔女の家に行くのは、かなりの勇気が必要だった。だが行ってみればなんてことはない。ケニーのトレーラーハウスと変わらないぐらいの狭いアパートに母娘は住んでいるだけだった。ティタの母親は昼間だというのに寝室でぐっすり眠っていた。ちらっと見ただけだが、今のティタとそっくりだった気がする。

「ママは魔女じゃない……ただの売春婦よ。たまにやる占いはまあまあ当たるって評判だったけど」

 ティタはケニーに笑いながら言った。その魔女は現在アルコール中毒で入院しているらしい。ティタの祖母、つまり魔女の母親はジプシーの血を引いてるそうだ。ジプシーなら妙な力があっても不思議じゃない。

「私も結局、ママと全く同じことをしてる。貧乏でも努力できれば違ったんでしょうね」

 ティタは自嘲気味に言ったが、その目線の力強さは子供の頃から変わってないとケニーは思った。彼女なりにプライドを持ってやっている。そういう顔だった。


 三回めのノックでようやくドアが開いた。

「だから言ったでしょう? あいつと組むのはやめておきなさいって」

 ティタはケニーの血だらけの腕を見て、眉をしかめたが、中へ入れてくれた。

「な……に、してるんだ?」

 ティタは雑巾のようなもので、廊下の血だまりを拭き取る。

 ケニーは早くドアを閉めて欲しかった。バズの部屋のドアとティタへ交互に視線を通わせる。バズの部屋にラリーが入ってきていてもおかしくはなかったが、いやに静かなのが気になった。

「ケニー、あなたはもう――」

 ドアを閉めたティタは血だらけのケニーを見下ろして言いかけた。

「い、いや、ち、違う。こ、こんなところで死ぬわけにはいかない……。い、医者を呼んでくれないか。お願いだ……」

「でも」

「お願いだ……ものすごく痛い。それに寒気もする」

 ティタは紫の丈の長いローブをまとっていた。露出しているのは顔と手の部分だけだ。それは普段の彼女らしくない格好だったが、ケニーにはそれに気づく余裕もなかった。

「わかったわ。まず、ベッドに横になりましょう」

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