憧れ 第二話

 散々な一日だった。現在時刻二十一時三十七分。貴志の心中はその一言に尽きる。


 今朝決めた通り、貴志は緑茶の香りが漂う一室で幼馴染から勧められた推理小説を読んでいた。科学者が死体のトリックを解き、事件の真相が明かされる、そんな一番盛り上がる場面で――スマートフォンが誰かからの着信を知らせた。特に何も考えずに手に取り、すぐに意識を切り替える。液晶には同僚の名前が浮かんでいた。すぐさま応答ボタンを押してスピーカーモードにし、一度着て脱いだスーツを手に取る。

「非番に連絡してくるなんて珍しいな。今の俺の気持ちを一言で表してやろうか?絶望だ」

『それはこちらも同じだ。もしかしてお楽しみ中だったか?それならば謝罪しよう。すまない』

「まあある意味お楽しみ中だったかもな。良いところを邪魔しやがって。それで何の用だ?もしくだらないことだったら次会った時歯を食いしばってもらうことになるかもしれないぞ」

『そんな未来は訪れないから安心するといい。緊急事態だ。今すぐ来てくれないか?』

「なんだ?夢失病に進展でもあったか?」

『いや、残念ながらその件ではない。その……なんだ、お前にしか解決できないトラブルが起きてな』

「……嫌な予感しかしないんだが。もう切ってもいいか?」

『ダメだな。助けてくれ』

「…………クソッタレ」


 久しぶりの同期からの連絡は貴志のもとに絶望を届けてきた。同期からの連絡が軽いトラウマになったのは仕方がないだろう。最後まで嫌がったがあの同期に「頭下げます!お願いします!」と敬語を使って懇願されては断ることなど出来ず、結局出勤しないはずだった警視庁に行く羽目に。すでに貴志の機嫌は地面にめり込んでいたが本番はこれからだ。

 捜査一課の執務室に近づくにつれて聞こえる怒号。少しでも現実から目を逸らしたいからかわざと歩みを遅くするが、待ち伏せしていた同僚達に捕まり連行される。「凶悪犯でも逮捕したかのような勢いだった」とは通りがかった共助課員の証言だ。

 そこからはご察しの通り。修羅場の一言に尽きる惨劇がすでに始まっていた。係長対新入り。規則を重視し部隊全体の統率を図る係長と結果を重視し無茶な捜査も単独行動も躊躇わない新入りは普段から小さな衝突が絶えなかったが、今日ついに大爆発が起きた。

「上からの指示を待て!なぜいつも勝手に突き進んでいく!」

「貴方達のやり方じゃ遅すぎるんですよ!私は犯人逮捕に全力を尽くしているだけです!」

「だが規則を破っては元も子もないないだろ!」

「だからと言ってそんなチンタラ動いていたら逃げられるでしょう!」

 お互い信念と誇りを抱えているため妥協など頭になく、着地点を見つけられないまま羽交締めにされてもなお止まることが出来ないでいる。こうなったらもう着地を諦め第三者が乱入して有耶無耶にする。そうしなければ終わらない。そしてその第三者は当たり前のように貴志に一任されていた。


「ったく、俺は幼稚園の先生かって」

 帰宅して速攻飛び込んだベットにて一人の酔っ払いがぼやいている。言うまでもなく貴志のことだ。あの後言い争う二人の間に割って入り、何とか落ち着かせることには成功した。不満どころか憎しみすら感じる後輩は一度頭を冷やすためにも家に帰らせ、疲れ切っている係長は飲みに付き合うことでその場しのぎではあるが解決できたのだろう。明日以降どうなるかはわからないが。

「今何時…ほぼ十時じゃねえか……クソッ……せっかくの非番だったのに。別に係長と飲むのが嫌って訳じゃねえけどよ〜限度ってもんがあるだろ。明日も早えのに……。明日はあいつからも話聞いて…聞いたところでか。俺に出来ることなんてないだろうに」

 もう動く気力すらないのだろう。かろうじてスーツの上着と靴下だけは脱いで、ベットに全体重を預ける。一瞬で眠気が襲ってきているのを見るに、心身ともに極限まで疲れ果てたのだろう。うとうとと船を漕いでいるともうほとんど意識がないようで。ぽつりと、気づかないようにしていた本音がこぼれ落ちる。

「こんなことやりたくて……警察になった訳じゃねえ…のに……」


「お迎えにあがりました一条貴志様。どうぞありし日の世界をご堪能くださいませ」


 突如意識が浮上する。目覚めにしてはなんとなく早すぎる気がするが、起きてしまったのならしょうがないと重い瞼を動かす。数度瞬きをしてようやく目が働くようになった瞬間、一気に目が覚めた。そこは見慣れた白い天井ではなく、床も天井もわからないほど真っ黒な空間が広がっている。ただ一つ、貴志の視線の先に背を向け何かをしている女性だけが存在している。

 女性の前にはキャンバスが一つ、なにかが描かれている途中だ。ふと、女性がなにを描いているのかが無性に気になって、貴志の足は自然と前に進んでいた。一歩一歩黒を踏み締め女性の背後に辿り着いた時、今までキャンパスにしか意識を向けていなかった女性が勢いよく振り向き。

「大切なものって、なに?」


「っはあっ!はぁ……夢か……」

 今度こそ、ちゃんと目覚められたはずだ。その証拠に貴志の目には真っ白な天井が映っている。先程のような変な夢から目覚められたことに安堵したのも束の間、嫌な汗をかいたせいでベトベトした汗が体を覆っている不快感に腹が立つ。早くシャワーを浴びて出勤の準備をしようと起き上がった瞬間、自身の勘違いに気付く。天井も真っ白、床も真っ白、扉も真っ白。

 真っ黒な夢から目覚めたら、そこは見知らぬ真っ白な空間だった。

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貴方の忘形見 ロエ @longend_

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