憧れ 第一話

 薄暗くて無機質。ミニマリストのさらに向こう側に位置するような部屋にけたたましいアラームが響き渡る。

 気怠げな動作で目覚まし時計を止めた男は、名残惜しそうに布団から這い出て出勤するために身支度を始める。

 重い足取りで洗面所に向かい顔を洗う。鏡にはドス黒い隈を飼い慣らしている黒髪黒目の冴えない男――一条貴志――が映っていた。

「ひでぇ顔」

 自分のことながらあまりにも哀れに思えたのだろう。自嘲気味に笑い洗面所を後にする。もう目の下の隈はどうにか出来る域を超えているのでどうすることもできない。それにしてもいつから隈を飼っていたのだろうか。心当たりに思いを馳せていると、一人の後輩に辿り着く。


 貴志は勤続十年目の警察官だ。捜査一課強行犯係に配属されてから三年。ようやく新米から卒業できたなと背を叩かれた今年、初めて新人教育を任されたのだ。どんな後輩が来るのかと期待していた貴志のもとにやってきたのは、とんでもなく我が強い新人だった。貴志の指示はもちろん上司の指示すら聞かず、自分のやり方で捜査を進めたがる。よく一課に配属されたなと思うが、その実力は確かで誰もが文句を言いづらいのが現状である。そう、この後輩こそが貴志の隈の原因の八割を占める人間だ。

 さらに貴志は先輩なのだからと、上司と新人の仲介を任されている。誰が見てもわかるハズレクジ。同僚からの胃薬の差し入れが今春から明らかに増えている。今日も捜査に支障が出ないよう、後輩の相手をしなきゃいけないのか。きっとそんなことを考えているのだろう。身支度を進める貴志の表情が段々と険しくなっていく。

 朝食を食べて、着替えて、髪を整えて、祖父から教わった先祖代々伝わる祝詞を唱える。ご先祖様が守ってくださるからと祖父に覚えさせられたその祝詞に意味があるかはわからないが、もはや生活の一部と化しているので毎朝忘れることなく唱えている。少し変わってはいるが、一般人と対して変わりない朝のルーティン。普通なことをするたびに、憧れていた刑事も所詮は普通の人間なんだなと思い知らされる。酒が入るとそんなことを幼馴染によくぼやいている。あんなに輝いて見えていたのに、蓋を開けてみればこうだ。昔の俺に言ってやりたいな。刑事なんてそんないいもんじゃねえぞ、とも。


 淡々と支度を進めていたからか、出勤まで大分時間が余ってしまった。茶でも飲むか。そう思いお湯を沸かし始めたところで、今朝の新聞を取ってないことに気づいたようだ。つまらない新聞でも読みながら、優雅に早朝のティータイムと洒落込もうか、なんてくだらないことを考えながら今日もいつも通り、古びたアパートの玄関に着いている郵便受けから新聞を取ろうとする。手を伸ばしたところで、そういえば今日は非番だったなと思い出した。ちくしょうもう少し寝てればよかった、と血涙が流れて来るのではないかと思うほど顔を顰めて新聞紙を握りつぶす。最近忙しかったからと、恐ろしくも優しい上司から貰ったせっかくの休みを無駄にしたことが悔しくて仕方がないようだ。もう一度布団に戻ることを心に誓いながら部屋に戻ろうとすると、小さな土間に一通の手紙が落ちていることに気がついた。

 役所から来るようなシンプルなものではなく、住所や宛名、差出人などが書かれていない真っ白な便箋に赤い封蝋で封がされてる手紙。

 貴志の知り合いにこんな小洒落た手紙を送ってくる人はいない。貴志がそういったことを好む人間ではないからだ。類は友を呼ぶと言うだろう?さらに貴志は家族と一人の幼馴染にしか住所を教えていない。それなのにこんな手紙が届くなんて……差出人が書いてない。ということは誰かが家まで来てポストに入れて行ったわけだが、誰がこんなことを?疑問に満ちた眼差しで取り出した手紙に目を通す。


「〜招待状〜

 この度厳正なる抽選の結果、一条貴志様を当美術館にご招待させていただくことが決定いたしました。

 当美術館はとある無名の画家の作品を集めた、世界に一つだけの特別な美術館です。

 是非ともこの機会にかの画家について興味を持っていただけると幸いです。

 後述の日時にお迎えにあがりますので、楽しみにお待ちください。


日時:今宵貴方様が夢路を辿り始めた頃

                            無名の画廊より」


「………………は?」

 貴志の口から溜めに疑問符がこぼれ落ちる。それも仕方がないだろう。こんなふざけた招待状が届いたのだから。貴志にはどこかの抽選に応募した覚えもない。そもそも指定されている日時がおかしい。夢路とは?寝た頃って素直に書けばいいだろう。そういう問題じゃないか。寝た頃に迎えに来るということでいいのだろうか?不法侵入か?刑事相手にいい度胸だなしょっぴいてやる。なんてことを考えすぐに逮捕しようとする、なんともロマンがない思考回路をしている男だ。

 意味のないイタズラもあるんだな。いや、イタズラだから意味がないのか。どっちだ?……いつもの癖で動機を探そうとするが判断材料が無いに等しいのだからわかる訳もなく、巡らせていた思考は段々と迷宮の奥へ連れていかれた。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。放置でいいか。そう結論を出して部屋にすごすごともどる。なんだかもう寝られない気がするので、取り敢えず中途半端になってる茶を淹れて……幼馴染から勧められた本でも読もうか。なんてことを考える、なんとも穏やかな朝だ。

 今日の予定を立てていると、キッチンから聞こえてくるピーーーッという甲高いやかんの悲鳴が鼓膜を貫いた。そういえばやかんを火にかけたままだったのだ、早く止めないと吹きこぼれる!と自分も悲鳴を上げる勢いで走り去る。ついでにイタズラの手紙を豪快にゴミ箱に投げ捨てた貴志の頭からは、すでに手紙のことなんざ忘れ去られていた。

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