雨垂れ耳をふたつ(サンプル)

うすしお

雨垂れ耳をふたつ

 今日は、寂れた商店街に小雨が降るらしい。

 あいつに会うための顔を整えようと、俺は洗面台の前に立つ。縁が水カビで汚れた鏡の真ん中に、目つきの悪い俺の顔と、頭にげんなりと生えている猫の耳が映っている。毛並みは揃わず、捨て猫みたいに傷がついている。顔を洗うのがめんどくさくて、目やにだけをピッと取って、レインコートを着て傘を持って行かずに出かけた。地面でじっとしていたはずのコンクリートの匂いが、思い出したように空気中に現れていた。

 古びた家の敷地から出て、裏路地を歩きながら空を見上げる。複雑に絡み合った配線と建物の隙間から雨雲が見える。こういう時にだけ、俺は空を見上げられる。

 大通りに出ると、大量の人ゴミの声を巻き上げるように、高架下に電車の走る音が振動と共にやってくる。電車の音にだけ集中して、俺は下を向いて歩く。ひたすら、商店街まで。

 使い古したぼろぼろの靴を中心に、きちんと磨かれた革靴やおしゃれに着飾ったハイヒールが視界の端を通り過ぎていく。

 ――てかさ、あたしの愚痴聞いてくんない?

 ――あいつ人をおちょくるために関係切ったやんね。ガチきしょい。

 ――マジさ、あいつには笑顔だけで接しとき。それ以上は関わる必要ないけん(笑)。

 ――あいつ多分関わったらいかんタイプの人間やけん、仕事以外では無視しとった方がいいよ。

 ――うん。マジあいつ、人の心無いんで(笑)。

 くそうぜえ。

 体中をピリピリと、小さい剣山で突っつかれているような気持になる。街の喧騒が、俺を笑っているように聞こえて、胃が苦しくなる。視界を上げても、きらきらしたとこで買った、絵に描いたようにおしゃれな服着飾って地方都市でおしゃれな大人の人間ぶってるくそみたいなやつしか目に入ってこない。そいつらの猫耳は、ずいぶん元気にぴんと張っていやがる。社会から外れた気分だ。俺はみんなから笑われている。それでいい。せいせいするわ。

 俺の靴はぼろぼろでいいし、寝ぐせもそのままでいい。雨臭さと汗臭さが抜けないレインコートもそのまま。いつかの二の腕のリスカ痕も、付いたままでいい。社不の烙印を押されたみたいで気持ちが落ち着く。

 駅を通り越してある程度まで歩くと、時代に取り残されたみたいな顔をするジジババだらけの通りになっていく。

 通りの日よけから雨音が聞こえ、バス停の藤棚はまばらに雨粒を垂らす。角を曲がって、俺は商店街へと入っていく。

 泥水を得たミミズみたいに、俺は息をする。

 昔は結構栄えていたのだろう。一体何を売っているのかわかんない、シャッターの閉まった店。年寄しか来ない古着屋。古臭いガチャガチャの集合体。怪しすぎる宝石屋、占い屋。錆びた配管。

 客はぜーんぶ、大手のショッピングモールに持ってかれて、商店街は自我を否定されたみたいな顔をしていて面白い。

 俺はちょっと歩いて狭い裏路地へと曲がる。

街の綺麗な景観の反動で出来上がった、穢れを溜めたような場所が、スクールカーストから外れた俺にはお似合いだった。

 雨どいからぴちょんと水滴が垂れる。路地裏の奥の方から、子猫が現れた。

 俺の悪友だ。

 

 今年の夏休みに、兄貴が死んだ。兄貴といっても、ゴールデンレトリバーで、俺は生まれたときから兄貴と一緒だった。お腹の毛並みに頭を預けて一緒に眠ったことや、心が苦しい時に毛並みをハンカチ代わりにしてくれたことだってあった。

 生憎俺は異常性癖なもんで、兄貴のことを考えて興奮することすらあった。

 気づいたころには、兄貴はカーペットの上でずっと眠っていて、動かなくなっていた。

 兄貴の葬儀が終わった夏休み明け、俺は人の頭に猫耳が見えるようになった。最初は、親とかに猫耳のことを話したけど、怪訝な目で見られて終了した。これは俺にしか見えないものだと分かって、俺は口を噤んだ。

 兄貴が死んだんだ。俺の頭がおかしくなったっておかしくない。俺は心の中でふんと鼻を鳴らして、自分を笑った。

 それから少し経って、人の頭の上に見えている猫耳は、ある程度その人の人間性を反映しているという事に気が付いた。クラスでモテモテなイケメン男子の猫耳は赤色でぴんと張っているし、性格悪そうなスクールカースト上位の女子の猫耳は虎柄で毛がぼさぼさとしている。めっちゃ小顔に気を使ってそうな女子の猫耳はスコティッシュフォ―ルドだし、ちょっと体躯がでかくておとなしい男子の猫耳はメインクーンだ。生徒指導の先生の猫耳がライオンだった時は吹き出しそうになった。ネコ科もありなんだよな、この現象。

 そして俺の猫耳は、朝に鏡で見たように、捨て猫みたいにぼろぼろだ。切り欠きもできている。それを初めて認識した時は、面白いくらいスンと腑に落ちた。そうか、俺は人間どもの作り上げるカーストからこぼれ落ちた捨て猫なんだ。そう思うと、この現象も悪くはないなと思った。

 だけど一つ。不思議なことがあった。一人だけ。一人だけ、頭に生えている耳が、猫耳なのか怪しい奴がいた。


 猫を見ると、俺は無性にいじりたくなる。

 煮干しを、タピオカみたいな目ん玉の真ん中に吊り下げる。

 悪友は小さい牙を見せて口を開け、ちょっとだけ跳ねる。俺は煮干しの高さを上げて、口をにやりとさせる。

「あげない。お前が盗ってきたその魚食えばいいんじゃねえの?」

 俺はこいつを見るまで、おさかな咥えた猫がほんとに実在するなんて思わなかった。しかもこんな廃れた商店街でだ。どこにあったっけ? 海鮮なんて扱うお店。

 この悪友・雨垂れは嬉しそうに小さなサイズの生魚を突っついている。

「なあ、雨垂れ」

 俺は雨垂れを見下ろしながら、煮干しを口に入れる。雨どいから垂れた雨粒が俺の頬を掠める。ごつごつしたコンクリートに、どっさりとケツを預け、俺は話始める。

 雨垂れは魚にかぶりつきながら、ボロボロの耳だけはこちらを向けている。授業の時の俺みたいでムカつく。

 デコピンしたくなる衝動を抑え、俺は言った。

「最近さ、人の頭に、お前みたいな猫耳が見えるようになったんだ。ほら、俺にも」

 そう言って、俺は自分の猫耳を触る。ピンと引っ張ったり、ちょっとねじったりしてみる。手からの感触はあるけど、頭からの感覚は一切ない。

「雨垂れ、俺に耳、見えるか?」

 俺は雨垂れを顎クイして、強制的に雨垂れの視線を上げる。

 雨垂れは不快そうな顔をした。

「そっか。見えないか。じゃあ、ほんとに頭がおかしくなったんだな。俺」

 アスファルトのぶつぶつに、一本の抜け毛が目に入る。先っぽが光っている。雨垂れの腕には、小さなかすり傷。ほんとに俺みたいで、ムカつく。

「俺さ、生きてく気力、もうなくなったんだ。多分俺が野垂れ死んだって、泣いてくれる奴なんていないんじゃないのかな」

 兄貴が死んでから、俺はずっと、人間恐怖症だ。今までずっと、兄貴のことが好きで、それだけのことを考えてて、周りの目なんか気にしないで生きてきた。兄貴が死んで、意識の矛先があっちこっちに向いて、自分は異常なんだと、今更やけに気にするようになった。人の目ばかり気にするのはダサい。そりゃそうだ。でもそれは強者が言えたセリフだろ。俺に押し付けられても困る。

 俺は街中を歩くとき、クラスの机で突っ伏しているとき、いつも笑われている幻聴が聞こえてくる。女子からキモがられる。男子から意図的に無視される。過剰なほどの罵倒が頭の中に浮かび、全部俺に刺さっていく。ずっと、そんな調子だった。生きる気力無くすのも、そりゃ当たり前だろ?

 だから俺は、唯一雨宿りできる場所を見つけ出した。そこに、俺と同じような、雨垂れがいたんだ。

 雨垂れは、「死にたいなら勝手に死ねば?」みたいな顔をする。

 うっせーよ、なんて思って、俺はポケットの中のもう一つの煮干しを雨垂れに投げつける。これでも食ってろ。

 雨垂れがそれをキャッチすると、どこか遠くから、足音が聞こえた。まあ、別に、見つかって社会の羽虫扱いされてもいいから、俺は変に焦らない。

 雨垂れが煮干しを食べ終わるころだった。その時、聞き覚えのある声がした。

「あ、ここにいたんだ! 雨宮くん!」

 俺はびくっと肩を上げた。商店街の通路の方を向くと、俺の方を向いた足がふたつある。

 俺は恐る恐る顔を上げる。だぼっとしたパーカーの、ぼさぼさ頭の男子が、俺を見下ろしている。

 どこでそんな表情筋を鍛えているのかと疑問になるくらいに、明るい笑顔でそいつは言った。

「探してたんだ! 雨宮くん、よく商店街で見かけるから!」

 俺は言葉に詰まる。

 俺を探していた。確かにそう言ったこいつの名前は、宿見健太。委員会で一緒に仕事をしたことがあるくらいで、特段仲がいいわけじゃない。こいつの耳は、まるで日光で乾燥させたハンカチみたいに、ふわりと折りたたまれている。

 そんなに関係が深いわけでもないのに、なんで健太が俺に声をかけたのか気になった。俺は健太とはこれといった関わりはないけれど、こいつの事で、気になる点が一個だけあった。

「なんで、俺の事なんか探してたの?」

 そう俺が訊くと、健太はその耳をぴくっと上げて、顔を赤くした。何なんだ。こいつ。上がった耳が、ゆっくりと下がっていく。

「えっと、雨宮くんに、伝えたいことがあって!」

 なんだか覚悟を決めたような健太の顔が、俺を見る。

「ここで話すのもアレだからさ、ちょっと歩こうよ!」

「えっ……」

 俺の安息の時間が奪われてしまう。俺の自我を平静に保つための、この時間が。

 すると、雨垂れが俺に失望したようにするりとどこかへ行ってしまう。

――なんだよ。友達いるじゃんか。一人ぼっちみたいなフリしてさ。

 ぴんと尻尾を上げた雨垂れが、そんなことを言ったように思えた。違うんだよ。俺に友達なんていない。俺は人間が嫌いなんだよ。


「で、俺に伝えたいことって何」

 汲み取れるかどうかのギリギリで、俺は苛立ちを小さく言葉に含ませる。それでも、商店街を歩く健太の背中は、物差しみたいにしっかりしている。屋根の上で動物たちがかけっこをしているのかと思うほど、雨音がこの空間に途えず籠っている。

「ねえ!」

 健太は急にこちらを振り向いて停止する。慣性のまま歩いていた俺は健太のつま先を踏みつぶしそうになる。

「うわびっくりした」

 健太はピンと背中を立てて、こぶしを握り締めている。

「今から僕が言うこと、すんごい意味わかんないと思うんだけどさ」

「はっ? なに」

 なにが? って言おうとして、俺の言葉は健太の声圧で死んだ。


「僕、雨宮くんのこと、好きです‼」


 騒音も、足音も、雨音も、心音も、耳鳴りも、消える。

「は?」

「好きです! からかいでも何でもないです! 付き合ってください!」

 目の前に机があったら、額をガコンとぶつけているんじゃないかいうほど、健太は頭を下げた。途端に頭がフリーズするとともに、俺は、一つ気になっている点が明確になっていった。いや正しくは、やっとここで、俺は認めた。

 

 こいつの頭から生えている耳は、猫耳じゃない。

 兄貴の耳だ。


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雨垂れ耳をふたつ(サンプル) うすしお @kop2omizu

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