神の子(KAC20255

朝吹

 


 弟は、自閉症だ。サヴァン症候群に引っかかっている。意思疎通は出来るから重度ではないが、実感として、家族の中に超能力者がいるようだ。

 俺の小学校の入学式のことだ。新一年生が先生に名前を呼ばれて順番に「はい」と返事をする間、体育館に集まった二百人弱の新入生の顔と名前を、一歳年下の弟はその時に憶えてしまった。それだけではなく、全員の服装と髪型、来賓も保護者までも。あれから二十年経った今でも弟はすべて憶えている。

「まてまて」

 そんな時、俺はわざと信じないふりをする。

「ここに当時の写真がある。壇上の向かって左側には何がある。そして校庭側から四列目の前から十二番目には誰がいる」

 すると弟は、画用紙に細密画を描いて俺に寄こすのだ。何度みてもすごい。

 厳密にはちょっとだけ違うこともあるのだが、ほぼそのままだ。起立と着座、服の皺などの僅かな違いは、弟が脳に記憶した瞬間と、撮影した時の時間の差。

 写真のように見たまま脳にインプットされていくというのがサヴァン症候群でよくきく説明だが、では、それを絵画に起こすにあたって、最初から達人のようなその画力はいったいどこからやってきた。

「まてまて」

 俺が信じないふりをすると、弟の顔には何ともいえない笑みが浮かぶ。兄が構ってくれるのが嬉しいのか、それとも神の次元にいる者が愚かな人間を慈しむまなざしなのか。

 ごめんなさい。

 昨日も女に俺はフラれてきた。台詞もいつも同じ。ごめんなさい、あなたはいい人よ、でも。

 弟が障害児だからだ。

 容姿についてまだ語ってなかったよな。俺は俳優似のイケメン枠で、弟は俺のイケメン要素を薄めたような感じだ。まだ若いのに、独身生活をながく続けた男に共通の侘び寂び感がすでに弟にはまつわっている。おそらく一生、兄のように女の子と気楽なデートをすることはないであろう弟を見る時の哀しみ。お陰で、フラれてもあまり苦にならない。別れる時、俺は心から彼女たちに伝える。ありがとう、短い間だったけど楽しかったよ。

 世界中でふたりぼっちの兄弟だ。誰にも弟は似ていない。そしてそんな弟を持つ俺も標準からは自動的に弾かれた。幸せな結婚、安定した生活、普通の子どもを持つことを切望している妙齢の女たちが、障害児の弟を持つ男を避けて通るのは当然だ。だから誰のことも恨んでない。弟のことを伝えると女たちは決まってまず最初にこう考えるのだ。お世話係にされる。

 両親は弟のことで俺の人生まで狭まらないようにと気を遣って育ててくれたが、最大の懸念であった俺の結婚が現実に迫る年齢になった今、弟を施設に入れることを本格的に考え始めている。俺はそれに反対している。家族会議は毎回のように紛糾する。俺の言い分はこうだ。

 あのね父さん母さん、女からみたら施設にいようが関係ないんだよ。そんな弟がいる時点で除外なの。だからそこを分かった上で越えてくるような女じゃないと、どのみちうまくいかないよ。

 壁時計の秒針を見ていた弟が立ち上がった。

「エロ動画を見なくちゃ」

 きっかり夜の十時になるとリビングから二階の自室に引き上げるのだ。規則正しい。それがおかしいんだよ、弟よ。

 この行動が始まった当初のことだ。お前ちょっと行って様子を見てこいと心配のあまりに形相が変わっている父親からせっつかれて、恐る恐る二階の弟の部屋を覗くと、弟は頭から布団をかぶって食い入るように画面の中のお姉さんを見ていた。多分。男優を見ているのではないと信じたい。

 そっと俺は扉を閉めた。そっ閉じ。そっとしておくべき。

 凡庸な、親戚一同も凡庸な、ごく普通の俺たちの許にどうして弟のような天才が出現したんだろう。

 神に愛されし者。

 ――弟を見世物にしないで。

 俺は叫んでいる。赤鬼のように泣き、大人にぶつかり、両手で押し返している。

 帰れよ、帰れってば。弟を見世物にするな。

 テレビ局の人間は誠意を見せた。身を屈めた彼は玄関で暴れている幼い俺と目を合わせ、これは弟くんのためなのだと真剣に俺を説得しようとした。後ろで困惑している両親にも、お兄ちゃんが納得するまでは撮影には入りませんと云った。おもちゃ売場でひっくり返っている園児並みに俺は泣いた。きっと、俺のなかにも色々溜まるものがあったんだろう。

「この障害をひろく知ってもらうことが、弟くんのこれからを生きやすくするんだよ」

 弟の奇妙なダンスから始まるその映像で、その番組はその年の栄誉あるドキュメンタリー大賞を獲った。

 

 家族旅行で水族館に立ち寄った後、しばらくの間、弟はイソギンチャクの絵に凝っていた。水槽ガラス越しの小魚や水流まで描き込んでいた。天下無双の孤独な弟。


 サヴァン症候群の中でも軽度の弟は、世界中にいる同類の友だちとネットで繋がっている。同じように、その障害を持つきょうだいの側にもネットワークがあって、日々、彼らがこうしたああしたと愚痴ったり身内自慢したり笑ったりしている。俺にとっての救いは、世界の彼らがやたらと明るいことだ。

「神の子だから」

 キリスト教圏内ではその解釈なので、存在をわりと肯定的に受け止めていて、周囲の理解も得られるという。

「結婚? ははは。そんな個人的なことに兄弟が関係ある? 彼らは専門家のいる福祉が面倒をみるものだよ」

 このスタンスなのだ。ドライにみえるが、海外の方が居心地がよさそうだ。

 着信音がした。差出人はあの時のテレビ局のディレクターの、その息子。

「君と同じ歳の息子がいるんだ」

 出て行けと玄関の靴を投げつけた俺に動じることなく、彼は俺の前から動かなかった。

「君のその行動が、外から見てどう思われるか分かるかい。あの家の兄弟はおかしい。発達障害だ。弟だけでなく兄もそうだ。そう云われるんだよ」

 その時の俺にとってそれは痛い言葉だった。

「特殊な子どもが当たり前のように家族や地域の中に溶け込んで愛されている姿を見ることで、その番組を見た人の中にも変化があって欲しいんだ」

 うまい口車だよな。一応はそれで、怒り狂っている子どもを納得させることに成功したんだからさ。

 その後もその人は、折に触れて俺の様子を見に来た。弟ではなく俺。サッカー観戦やキャンプに連れ出してくれた。俺と同じ歳の彼の息子と一緒に。


 神さまの世界にいる弟。神さまの世界にも普通の子どもの世界にもいなかった兄の俺。まがりなりにも社会の中で生きていける俺と、この世ではなんの役にも立たない弟の能力。

『父さん、あの話をまだ諦めてなかったんだ。悪いね』

 ディレクターの息子と俺はLINE友だちだ。おっとりした彼の声が聴こえてくるようなそのLINEに、俺は、くだけた調子で返事を出した。

『柳の下に二匹のどじょうはいないよ』

 テレビ局で出世した彼の父は、サヴァン症候群の弟をもつ兄に焦点をあてた番組を撮りたいのだ。

『誤解しないで欲しいけど、父さんはそのつもりで君の成長を気にしていたわけではないよ』

『分かってる』

 しかし、テレビ映えする子だと、初対面の時から俺に眼をつけていたというのだから恐れ入る。

 俺は返信を打った。

『特殊な弟をもつ子どもが当たり前のように成長して社会の中に溶け込んでいる姿を見ることで、その番組を見た人の中にも変化があって欲しいんだ』

『父の言葉だ。よく憶えてるね』

 苦笑いのスタンプ。都心のお坊ちゃん大学を卒業した彼は、今でこそ一流企業で立派に社会人をやっているが、俺と会った頃はひどく内気で、ほとんど無言だった。彼の父親も息子に友達を作ってやりたかったのだろう。結果として俺たちは仲良くなり、細々とした交流が続いている。

『そんな番組があること自体が、溶け込んでない証明だよな』

『他人の気持ちを想像出来ない自己中が増えたから啓蒙には意味があるよ』

『共感力と想像力のない人間には何を見せても無駄』

 あいつらは発達障害だから。そんな言葉を辛うじて呑み込んだ。

『父からの伝言。また三人で呑みに行こうって』

『いいけど、その話を蒸し返したら俺、帰るからね』

 ちょっと気が咎めるけど、俺の人生は見世物じゃない。

『連休中に合コンをやるんだけど、日取りが決まったら誘っていい?』

『大歓迎』

 女の子がハンティング・モードに入る前に、弟のことを伝えておくのが毎回の俺の自己紹介。まあなんとかなるさ。未来の俺の嫁さんは、地上の天使かと思うほどに懐が広くて少々の困難はどんと来いのはずなんだ、必然的に。

 LINEを終えた俺は、元カノから連絡が入っていることに気がついた。この子、どんな子だっけ。何番目の子だっけ。きっと彼氏と別れて暇なのだ。

 やあ、と返事を出して少し待ったが返事がなかったので充電に戻した。

 明日も会社だからそろそろ風呂に入ろう。弟が二階にやって来る足音がする。彼がお姉さんと仲良くなる時間だ。


 

[了]

 

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