追憶の煙

追憶の煙



 彼女が吐き出したドライアイスのような煙を見つめていたとき、わたしは生まれて初めて大人の女性が格好いい、という感想を抱いた。

 髪の毛を後ろで一つに束ねた狐顔の女性は、細長いマウスピースを口にくわえて深く息を吸い、魅惑的な煙をもくもくと口からこぼした。吐き出したのではなく、こぼすようにもうもうと煙は流れ出たのだ。

 その煙からはフルーツの甘い香りがして、異国の気だるさを体現しているように思えた。

 煙を『こぼし終わった』あとの余韻に浸っていた彼女は、中指と薬指につけた大きな指輪をかちゃかちゃと鳴らしながら、手元のグラスを手に取った。


「……なに?」

「あっ、いえ……」


 ふいに投げられた言葉に動揺して、わたしは視線を逸らした。

 ワンピースとは違う。ロングコートとも違う、不可思議なドレスのような装いの彼女は、ゆったりとほほ笑んで「冒険しに来たんでしょ?」と言った。

 店内は心地よい暖房で過ごしやすい。

 わたしはこっくりと頷いて。


「なんか、格好いいなって思ったんです。中原さんって」

「そう言われるの、初めてだから嬉しい」


 そう言い、手にしたグラスを軽く傾けた。

 中原の横顔を見ながら、わたしはしみじみと思う。

 大人の女性って、こんなに格好よく生きられるんだ。

 年齢は五十代だろうか。もしかしたら、還暦を越えているかもしれない。

 中原には若さがある。

 化粧や髪型で若作りしているのではない、自然な活力的な若さ。

 髪の毛に白髪が混じっているが、それも自分自身のものとして受け容れている。そういう女性的な強さを彼女からは感じる。



 ――お母さんとは、大違いだ。



 再び中原はシーシャの細長いマウスピースを口に運び、ほんわかとした煙を口からこぼす。

 それは煙管を吸う和装の女性を連想させた。


「あなたも、なにか挑戦してみる?」

「えっ、でも……」

「冒険しに来たんでしょ?」

「ええ、まあ……」


 中原はそう言ってカウンターの向こう側にいるオールバックのバーテンダーに目を向けた。

 彼は少しバツが悪そうに首を振ったが、中原は細長いマウスピースを煙管のように振るって。


「いいじゃないの。わたしが料金に色を付けるし、責任をとるから」

「未成年なんですよ」

「ええ、知ってる」


 彼女はそう言って頬を緩めてから。


「でも逃げなかった。一緒に来た男の子は逃げちゃったけど、この子は逃げなかった。その度胸を買ったの」


 中原にそう言われて、わたしはハッとした。

 わたし達を店の外へつまみ出そうとしたバーテンダーは「知りませんよ」と渋い表情でシーシャを用意し始めた。

 その様子を一瞥して、中原はくすっと笑う。


「冒険よ。大人になるって事は冒険をするってこと。さっきみたいに、中途半端な態度じゃだめ。覚悟を決める。いい?」

「か、覚悟は……決まってます」


 わたしの返答に中原はくすくすと笑う。

 まるで内心が見透かされているような気がして、恥ずかしかった。

 三十分も前に、わたしは高校の先輩(悪ぶっている)とお店に入店した。

 東京の繁華街、しかも高そうなバーで、高そうな酒を飲んでやる。

 そういう目的で、わたし達は原付に二人乗りをして地元から出てきた。飲酒運転になる事とか、バーのお酒がいくらなのか。このバーは喫煙バーでシーシャを取り扱っていることなど……まったく考えず、当てずっぽうで入店した。

 大人っぽい格好をして、十七歳と十九歳であることがバレないようにしたのだが……ダメだった。

 結果として、バーテンダーのひとに怒られて、店から追い出されそうになった。

 悪ぶっている先輩は一目散に逃げ出したけれど、わたしは逃げなかった。


「今日、ここに来たのは破滅を探しに来たから」


 わたしは本音を述べる。

 中原はちらとわたしを見て「すてき」と呟いた。

 逮捕されてもいい。補導されてもいい。

 とにかく、このくそったれな人生から離脱したかった。

 ごとん、と電気スタンドぐらいの大きさのシーシャが目の前に運ばれてきた。


「タバコ、吸ったことある?」

「あ、あります……!!!」

「あるんだ。悪い子ね」


 ふっ……と中原は笑ってから。


「シーシャはタバコとは少し違うの。ふかーく深呼吸して吸う。それから、あくびするみたいに吐いてあげる。タバコみたいに下品にしちゃだめ」


 わかる、と言われて、わかるような……と持ち手のホースを握った。

 バーテンダーがマウスピースを渡してくれて、それをホースに差す。

 わたしが口をつけようとしたとき、中原が「待って」と掌で制してきた。


「ここのシーシャは夢見るシーシャ。誰かの大切な『思い出』を共有できる」

「誰かの大切な『思い出』……?」

「ゆっくりと煙を愉しむ。するとあなたは煙のなかに誰かの『記憶』を感じる。これは『追憶の煙』なの。あなたではない、あなたに適した『夢』が降りかかる。でも、それは『夢』じゃない。誰かの『思い出』よ。わかるかしら……?」


 この問いかけに、わたしは「よく、わかんない……」と首を振った。

 すると中原は少しほほ笑んで。


「やってみて。やったら、わかるから」


 そう言ってマウスピースを示してきた。

 雰囲気づくりだとしても、奇妙なものだと思う。

 誰かの『思い出』を見ることが出来る『追憶の煙』――。

 わたしは、えいっ、という具合にマウスピースを口につけ、ぐうっと深く呼吸をするように吸い込んだ。

 ごぼごぼと低い場所で水が暴れる音が響く。

 にんまりと大人の余裕を見せつけながら、中原がわたしを見つめている。

 環境活動家だと話していた。

 格好いい、大人の女性――。


 ぶくぶく、ぶくぶく……。


 わたしはずいぶんと煙を吸い込み、言われた通りあくびをするように口を開いた。

 もわっとした雲のような煙が口からこぼれていく。

 ただ、胸と喉がキュッと詰まったようになって「げほっ、えほっ……!!!」と咳き込んでしまった。

 中原は「あらまあ」と笑い、バーテンダーは渋い顔をする。

 それでもわたしは笑っていた。

 嬉しかった。


「なんか、癖になりそうです」


 そう言って、笑えた。



 幾度か挑戦しているとうまく煙を吐き出せるようになってきた。

 中原に「上手じゃない」と褒められると無性に嬉しい。

 そうして、彼女に勧められるままに甘いお酒を飲んでいたら……不意に煙の向こう側に情景が飛び込んできた。

 シーシャを吸っていたせいか、インドの料理店が見えた。黄ばんだ看板とぼろぼろの国旗が軒先にかかっていて、風に揺れている。その向こう側にドーム状のモスクみたいなものが見えた。周りは木造の瓦屋根で、たぶん日本の住宅街であるのに……そこだけインドの空気が漂っている。

 季節は冬だろうか。

 遠い山の稜線には白っぽい残雪が散っている。まわりのアスファルトにも硬くて汚れた雪が残っていて、消えかかった横断歩道は冷たく濡れていた。

 たくさんの人々がどこかに向かって歩いている。顔や表情は良く見えない。

 そんなとき、道路の向こう側に見知った人を見つけた気がする。

 懐かしい、久しぶりの再会――。

 とたんに嬉しくなって飛び跳ねてしまいたくなる、そういう再会の気持ち――。

 わたしは困惑する。

 そんなひと、思い当たらない。

 けれども、煙はわたしの胸に『うれしい』を溢れさせる。久しぶりに会えたね、という言語化できない『うれしい』で身体が跳ねる。

 そうして青信号の横断歩道を駆けだしたとき――視界が空に流れる。

 切れ切れの雲と青い冬空が横切り、冷たいアスファルトに転がる。


「げほっ、えほっ、げええっ……!!!」

「あらあら、これは派手に――」


 げほげほと咳き込みながら、わたしは中原に「平気です」と掌を見せて応える。

 彼女はわたしの背中を擦りながら「見えたのね、向こう側が」と言った。

 わたしはうまく答えられず、ただ小さく頷いた。

 咳が落ち着いたときには、煙の記憶は消えかかっていた。

 どんな場所で、どんな気持ちで、なにが見えたか。


「楽しい思い出だった?」


 中原の問い掛けに、わたしは「いえ……」と口を噤む。

 しばらくの沈黙を経てから。


「嬉しかった感じ、あるんです。でも、なんか嫌な感じの終わり方でした」

「嫌な思い出だったの……?」


 わたしは少し身を乗り出して、中原に迫って質問した。


「あのっ、これ『夢』だって言ったじゃないですか。『夢』って悩み事とか、好きな人が出来たらその人が出てくるとか、わたしの気持ちに関係しているって思うんですけど……そういう事なんですか? この煙の向こう側に見えたものも!」


 中原は少しだけ考えを巡らせて。


「そうねえ。そう言えるかもしれないし、言えないかもしれない。煙の向こう側に見えたのはスカッとした気持ちのいいものじゃなかった?」

「気持ちのいいものじゃなかったです」


 すると中原は困ったように眉を寄せる。


「なにか、悩み事があるの?」


 そう問われると……うまく答えられない。

 悩み事があるから、ここに来た。

 中原はそれをわかっているはずだ。だけれども、わたしの口から言わせようとしている。


「家に、帰りたくないんです」


 ぽつっと言って、わたしは甘いお酒をぐっと飲んだ。



 お父さんが東京の片田舎に中古マンションを買ったのは、わたしが小学四年生のとき。

 夫婦で頑張って働いて、どうしてこういうマンションしか買えないのかしらね、とお母さんは冗談っぽく話していたのが、いまでも印象に残っている。

 家を買った夫婦は(新居に引っ越した夫婦は)もっとキラキラしたものだと思っていたのに、うちの両親は違った。

 そのころから、少しずつお父さんとお母さんの夫婦仲は軋んでいたのかもしれない。

 あまり広くないマンションで、些細なことで口論するふたりの声は良く聞こえた。そのくせ、会話もなくなった夫婦仲の静寂が、いまでは染みるように痛い。リビングから聞こえてくるテレビの音は、弱い心に鞭を打つように刺々しい。

 お父さんは週末にゴルフへ出かけて、お母さんはパートと家事で疲れていて、いつもムッとしている。

 もっと家族らしいことが、あってもいいはずだ。

 わたしがバイトして溜めたお金でデコレーションケーキを買った。お父さんとお母さんの結婚記念日にプレゼントしたかった。さぷらいずぅーって、おどけた感じでびっくりさせようと思った。布団のなかで、何回か練習もした。

 けれど、結婚記念日にお父さんは会社のひととお酒を飲みに行くと言って帰って来なかった。

 わたしとお母さんで、大きすぎるデコレーションケーキを切り分けて食べた。

 お母さんは「ありがとう」とは言ってくれたけれども、悲しい顔も、涙も見せなかった。これが普通と言わんばかりの顔で、ただ無為に手を動かすばかりだった。

 そんな出来事が先月にあって……わたしのなかで『なにか』が弾けた。

 世の中にはもっとひどい夫婦がいることもわかっているつもりだ。

 でも、わたしはもう家に帰りたくなくなってしまった。

 出来る事なら一人暮らしをして、彼氏を作って、働きに出て、好きな時に街に遊びに行ったり、旅行をしたりしたい。

 わたしにとっての実家は、あまり心地よい場所ではなくなってしまった。

 たくさんの子どもの頃の思い出は、どこか色あせてしまった。

 それが、本当に悲しかった。

 両親から打ち捨てられてしまったような気がして、つらかった。



「だから、今日……このお店に来たんです」

「冒険じゃなくって、逃げ出してきたのね」


 中原はそう言って、わたしの肩をぎゅっと抱き寄せてくれた。



* *



 冬の時期はあっという間に流れていった。

 不良ぶっていた先輩とは連絡も疎遠になった。向こうからメッセージは来るけれども、ほとんど無視した。あんな逃げ帰るような腰抜けだとは思わなかったから。

 学校の期末テストが終わって、成績は散々で……。

 お父さんとお母さんは、ほとんど口もきかないまま。

 街はクリスマスになったけれども、わたしの家は今日も冷え込んだままだ。

 年末年始は家族で、なんて言葉が嫌になる。

 シーシャバーには、そのあとも何度か通った。

 電車に揺られて、都心のバーに行く。大人っぽいな、わたし……なんて思ったりしたけれども、中原とは一度も会えていない。

 オールバックのバーテンダーは、わたしを鋭く見据えてから。


「キミには酒もシーシャも出せないよ。未成年なんだから。あのときは中原さんに免じて提供した。もしまたやりたかったら、中原さんと一緒においで。それか、大人になってから」


 彼女はいつ来るの、と聞いても彼は教えてくれなかった。

 わたしは子どもじゃない。

 でも、大人でもない……。


 街は寒かった。


 家も寒い。


 だから、わたしは年始早々に原付で遠出することにした。

 不良ぶっていた先輩に「原付貸して」とメッセージを送った。まだ怒ってんのかよ、とか機嫌直せってといった彼氏ぶったメッセージが返って来た。

 わたしは原付を貸してほしかったから、彼女っぽく答えたら……簡単に貸してくれた。



 そうして一月二日に千葉県の某所に向かった。

 とある男性アイドルグループのオフ会で、なんどかライブ会場で会ったこともある人たち。

 正直、その男性アイドルグループが大好きというわけではなかった。ただ、あの『熱狂』の渦のなかで、わけもわからず声を出して騒げる仲間が欲しかった。

 男性アイドルは、確かに格好良かったし、曲も悪くない。

 そうした愛好のメンバーが千葉で新年早々にバーベキューをやると言うので、参加することにしたのだ。

 新年早々にバーベキューとは風変りだなと思いながらも、見知らぬ街の駅前で待ち合わせをする。多くの人が電車で来ていたし、彼氏や旦那の車で来ている人もいた。

 わたしが原付で集合場所に行くなり、驚きと笑いがどっと起こった。


「ええ、ここまで原付で来たの!?」

「この寒いなか、よく下道で来たもんだね!」

「えー、じゃあお酒のめないじゃん……って、まだアッちゃんは高校生だったか。わかーい」


 年齢や性別にとらわれず、こうして口々に楽しく会話できるのって……やっぱり好きだ。

 わたし達は手分けして役割を分担する。

 食材の買い出しを任されたわたしは、同世代の女の子たちとスーパーへ向かった。

 他愛ない会話をしながら道を歩いていたとき、ふと立ち並ぶ軒の向こう側に丸っこい屋根を見つけた。

 それは薄く黄ばんだドーム状の屋根……。


「ん、アッちゃんどしたの?」


 ひとりの子が、立ち止まったわたしに声をかけてくれた。

 わたしは胸がぐっと押しつぶされる錯覚に陥った。

 見覚えのある、ドーム状の屋根――。

 木造の瓦屋根が立ち並ぶ街並みに、ぽつんと独立するモスクのような建物――。


「ごめんっ、先に行ってて!」


 わたしは転がしていた原付に飛び乗って、ハンドルをひねっていた。

 アスファルトは早朝の雨で濡れて、深い黒い色をしていた。

 道の傍らには、凝り固まったような雪が残っている。汚れた溶け残りの雪――。


「あっ、ああっ……」


 動悸が強くなる。

 遠景に見える白い残雪に沈む山々の稜線――。


「あの、記憶の……!!!」


 煙の向こう側に見えた世界だ。

 ドーム状の屋根を目指して、わたしは黄色信号を突っ切った。

 人々が行きかっている。


 一月二日――。


 着物姿で初詣に行くカップルや楽し気に手を繋ぐ家族連れの姿もある。

 あの時の記憶でも、人々が往来していた。

 違う、往『来』していない。

 人々は向こう側に、どこかへ向かって人波を作っていた。

 どこかの神社かお寺に、向かっていた……?

 わたしは人流を見極めるようにしながら、道路を走る。

 道路標識に定禅寺という案内表示が見えた。

 それに従って、交差点を左折する。

 すると人流は定禅寺に向かって収束しはじめていた。


「あっ、あった……!!!」


 薄く黄ばんだインド料理店の軒が見える。

 国旗が正月の風に寂しく靡いていた。

 わたしは煙の向こう側に見えた世界に至った。

 しかし、疑問が残る。

 これは『思い出』ではないのか。


 誰かの、思い出――。


 わたしは信号が移り変わるのを遠く認めて、ゆったりと速度を緩め始めていた。

 どうして『思い出』という過去の出来事が、いま『目の前』に現れたのか。

 それに、あの『追憶の煙』は冬の空を見せてきた。冷たいアスファルトに横たわる情景も見えた。


 そのとき、わたしはハッとする。


 原付のハンドルを全開にひねって、エンジン音を響かせる。

 正面の交差点は赤になっている。

 歩行者信号が青で、浴衣を着た女の子が手を振って横断歩道を渡っていた。

 その向こう側から、シルバーのセダンが走って来るのが見えていた。

 わたしはぐうっとハンドルを握りしめて。


「行っちゃダメええっッッッ!!!」


 そう叫びながら、右手を伸ばした。

 衝撃が全身を打ったのは、それから数秒後の事だった。



* *



 高橋サキちゃんが無事だったと知って、わたしは病室でホッと胸を撫でおろした。

 おかげで、こっちは腕も足も骨折してしまったが……。

 不良ぶっていた先輩から借りていた原付も廃車になってしまって、これからどうすればいいのか想像もつかない。

 入院生活も二週間目に突入していて、高橋サキちゃんのご両親が幾度もお見舞いに来てくれた。

 青信号で交差点を渡ろうとしていたサキちゃんは、シルバーのセダンに跳ねられる寸前のところで、わたしが引っ掴んで抱きかかえた。おかげで、わたしが正面衝突に近い形で跳ね飛ばされたけれども……打ち所が良かったのか、骨折だけで済んだ。

 サキちゃんは親戚のお兄ちゃんと道路を挟んで再会し、早く彼のもとに歩み寄りたくてそわそわしていたのだとか。恋していたのかもしれない、親戚のお兄ちゃんに。

 そんな彼女を跳ねそうになったのは、五十代の男性で……飲酒運転だった。

 奇妙な運命のかみ合わせで、ひどい事故が起こる寸前だった。


「それにしても、篤子(あつこ)さんは……どうしてサキを?」


 サキちゃんのお母さんに幾度も質問された内容だが、うまく答えられなかった。

 中原さんの『追憶の煙』が教えてくれたとは言えなかったし、説明するのも面倒だった。

 ただ――。


「サキちゃんが無事でよかったです。今年の四月から、小学生だもんね」


 最初は怯えていたサキちゃんに、そう答えるだけにした。

 わたしの両親は、それなりにわたしを心配してくれたのだとは思うけれども……どことなく、心の溝は埋まってない。

 娘が事故に遭ったというのに、お父さんはそこまで優しくしてくれなかった。

 お母さんのムッとした表情も……あんまり変わってない気がする。


「篤子、これ、お見舞いよ」


 そう言ってお母さんは果物が詰め合わされた素敵な箱を持ってきてくれた。銀座にあるような高級果物店のロゴもある。


「うわっ、それ高橋さんからのお見舞い?」

「ううん。中原さんってひと。あなた知り合い?」

「えっ……」

「大変でしょうからって、受付でいただいたのよ。お友達のお母さんなの?」


 そう言われて、わたしはぐっと息を詰めた。

 あのおしゃれなバーでシーシャを吸っている環境活動家の中原の横顔がぼんやりと浮かんだ。

 わたしは「うん、友達のお母さん。こんど、お礼言っとく」とうそをついた。

 言いながら、退院したら……また、あのシーシャバーに行こうと心に決めた。

 今回の事を中原に報告しなくちゃいけない。


 また、あの人に会いたい。



 あの煙の世界で――。

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