いのちの値段と木曜日
いのちの値段と木曜日
その男――財津義夫(ざいつ よしお)が相談ブースにやってくるなり、わたしはがたんと椅子を鳴らして両手を差し出していた。
「財津さああんっ!」
「おやおや、橋本さんではありませんか。どうなさいましたか?」
「どうもこうもありません!」
わたしは財津の両手をぎゅっと握って、ぶんぶんと振って声を潜める。
「死んだの」
「ほう」
財津がいぶかし気に頷き「まあ、お座りになって」と言ったので、わたしはハッとして椅子に腰を落ち着けた。
そうしてから、取り乱してしまった事を「申し訳ありません」と詫びて、改まる。
「お義母さんがですね、先週の木曜日に亡くなりまして」
「ほおーう」
四十代の後半と思われる痩身の男は、今日も青っぽいスーツを着ていた。
髪型は角刈りで、どこかから湿った煙草の匂いが漂ってくる。
豊島区・池袋の百貨店――。
その催事コーナーに設けられた『老後のおかね 相談会』の立て看板――。
ファイナンシャルプランナーの財津義夫は、相談員としてわたしの前に座っている。
傍から見れば、胡散臭い中年の男であるはずなのに……。
いまのわたしには、神様のように見えた。
財津は少し改まった様子で「この度はお悔やみを……」と浅く顎を引いた。
わたしは「ええ、ええ……」と言ってから、膝の上で手の甲をせわしなく擦っていた。
* *
事の発端は、更年期障害の治療のために江東区にあるクリニックを訪ねた。
マンションの一室で診療をしている腕利きの医師から、財津義夫を紹介された。
「お義母さんの介護がストレスの大きなところですな。お薬は対処療法ですから、根本を何とかしたほうがいい」
「あのね、先生……。そんなことを言ったって、解決なんて出来ません。おカネがないんですから、高齢者施設に入れることもなにも――」
「老後のおカネについて、ご紹介できるファイナンシャルプランナーがいるのです。もしよければ、なにか経済的な悩みの解決になるかもしれませんよ?」
そう言って、医師は豊島区の百貨店で催されていた『老後のおかね 相談会』を教えてくれた。そこで財津義夫を指名せよ、と。
最初は胡散臭い男だと思った。
彼はわたしの年齢や家族構成、わがままな義母の世話をしている事などを聞いてから……言ったのだ。
「お義母さまの死亡保険金を増額されては、いかがでしょうか?」
「えっ、増額……?」
「いまのプランですと、死亡時に三百万円ほどです。まだお義母さまは七十二歳でいらっしゃいますので、いまなら積み増しすることができます。これが八十ですとか九十になるとそうもいかない」
そう言って財津は月額で十二万円ほどの増額プランを提示してきた。
――バカにしてるの、このひとは。
経済的に苦しいから相談に来ているのに、月に十二万円の保険料の積み増し――。
出来ない事はないけれども、やるわけがない!
きっと自分の営業成績をよくするために、わたしをカモにしようとしているのだと直感した。
彼は小難しい保険や年金の話をしてきたが、ほとんど聞いていなかった。
途中で席を立ってもいいと思った。
けれども、財津は「ではね、橋本さん」と保険の増額契約の書類と一緒にカレンダーを出してきた。
「通常は、死亡保険の免責期間は一年から三年です。しかし、ご紹介をさせていただいている保険商品については、四か月の免責期間で問題ありません。お義母さんがご高齢という事もありますから、割高な保険料となっておりますが――」
彼は説明をしながら、机上のカレンダーをとんとんと叩く。それは四か月後の第三木曜日である。
ジッと財津はわたしを見据えて。
「この日に、お義母さんは亡くなるかもしれません。そうすれば、2500万円が死亡保険金として入ってきます。つまり、お子さんの進学資金とご自宅の住宅ローンを相殺しても、じゅうぶんに手残りが出るという計算になりますね」
この発言にわたしは「えっ」と身を引いた。
「なにを言っているんですか?」
「お義母さまが亡くなられた際の、資金計画でございますよ、橋本さん」
「だって、その日に死ぬってわからないじゃないですか」
「では、その日に生きているという確証を橋本さんはお持ちなのですか?」
彼はそう言って角刈りの頭を掌で擦ってから。
「申し訳ありません。保険というものはタチの悪いものでして……。人のいのちをお金に変える。とても胸を張れる話ではありませんね。しかしながら、現実として……『信じること』が救いに繋がることもあるのです」
「い、言っている意味が……わかりませんよ」
「あなたは介護から解放され、口煩い義母は消える。その代わりに、2000万円近い大金が転がり込んできて、老後の余暇が生まれる。そういう話です」
彼はそう言って申込書とボールペンを示してきた。
「信じるか。信じないか。決断のときですよ」
わたしはしばらくの逡巡を経て、サインをした。
十二万円の増額は断った。
五万円の増額で、サインした。
せめてもの抵抗……。
こんなふうに契約を迫る、とんでもないファイナンシャルプランナーだ。
そう思う一方で、鞄のなかで録音を続けているボイスレコーダーのことを心強く思う。
仮に義母が死ななかったら……。
これを盾に訴えを起こす。
ひどい方法で契約を迫ってきた、と――。
なのに――。
* *
「財津さん……。あの、わたし……」
彼の予言通りに義母は亡くなり、掛け金に相応な保険金が支払われることが決まった。
「これからいろいろと大変でございますね。二人目のお子さんが、来年に大学受験でしたっけ?」
財津は言いながら、顧客の管理台帳の紙面をぺらぺらとめくっていた。
そんな財津に……わたしは意を決して言った。
「あのとき、十二万円の増額をしておけばって――悔やんでいます」
「ほう。ですが、あなたは五万円でサインをした」
「そうです。なので、自宅のローンを払いきる金額が……足りないんです」
すると財津は困ったように眉を寄せて。
「良いですか、橋本さん。保険金は『いのちのおカネ』であって、住宅ローンを完済するために掛けるものではないんです」
「わ、わかっています……!!!」
「あなたのお義母さんが、口煩く、あなたを目の敵にしていたことも聞いています。前回の面談で教えていただけましたよね。健康で、頑健な高齢者だ。ですが、残念なことに亡くなってしまった。急な、ご病気で……?」
「いいえ。近所の階段から落ちたんです。バス停から家までの近道だからって、いつも注意してたんですけれども……言う事を聞かなくて! 警察が言うに、足を滑らせて転落したんだろうって」
「ほほおん……野外での事故ですか。それは、残念な――」
わたしは悲しそうな顔をしてみせたが、心のなかでは十二万円に増額しなかったことを強く悔やんでいた。
高齢者であるために、入れる死亡保険がほとんどない。
あの世代に人間は株の運用も保険の加入していなくて、いざ自分たちが介護される立場になったとき……なんのセーフティも持っていなかった。そのくせ、文句ばかり。耳が遠い事を理由に会話も成り立たない。そのうえ……便所の世話までさせられそうになっていた。
死んでくれて、助かった。
ただ、十二万円を増額して……2000万円ほどの保険金を受け取れるようにしておくべきだった!
この財津義夫が提案してきたとおりに――!!!
諳んじるように、なにかを喋っていた財津に「あの、財津さん!」とわたしは割って入った。
彼の手を握り、ごくりと生唾を飲み込んで……言った。
「夫の、死亡保険を見直したいんです」
すると財津はにんまりとして「ええ、ええ、よろしいですよ」そう言って頷いた。
「旦那様はおいくつでいらっしゃいますかね」
「四十九歳……。わたしと同い年です。中学校時代の同級生ですから」
「おお、学生さんのころからのお知り合い。すごく素敵ですね。で、おいくらがご希望ですか?」
「ご、五億円ぐらい……」
すると財津はぴたりと手を止めて、わたしをジッと見つめた。
「橋本さん。掛け金の事です。おいくらぐらい、月額で考えておられますか?」
「あっ、ああっ……そうよね。あらやだ、わたしったら」
五億円あれば、いろいろな事が出来る。
これまで我慢してきたことが、なにもかも……。
老後の心配はいらない。
海外旅行にも、豪華客船での船旅も……!!!
わたしはサインした。
夫に不満は……ある。
長い結婚生活で、子育てをして、たくさんの不満がある。
それらの理由を並べ立てるよりも……。
わたしは手に入るであろう五億円の使い道と優雅な老後の事を考える。
眩しい預金残高――。
空港を颯爽と歩いて南の国へ行く高揚感――。
高級外車と若い男性――。
食事も、掃除も、洗濯も、お手伝いさんがやってくれるホテルライクな暮らし。
まるで映画やドラマの世界――。
その世界に、わたしは行くのだ。
夫の命を捧げて、そのお金で、行くのだ。
素晴らしい、老後の世界へ――。
事務作業をしていた財津は「では……」とカレンダーを指して言った。
「免責期間は五か月です。五か月後の第三木曜日に……」
「旦那は死ぬ……」
「亡くなるかもしれないし、ご存命であるかもしれません。誰にも、わからない」
財津はそう言ったが、わたしにはわかっていた。
このファイナンシャルプランナーは一流だ。
人の生き死にを理解する、特別なチカラをもったファイナンシャルプランナーなのだ。
わたしはにっこりとほほ笑みながら。
「楽しみだわ」
そう呟いていた。
それは老後の優雅な生活を想像しての、言葉だった。
* *
寒い正月が終わり、東京に雪が降る季節が過ぎ去った。
今年はひどく雪が降って、いくども在来線が止まってしまった。
「まったく、困ったものですねえ」
首をすくめてエム医師は住宅街を早足に駅へ向かっていた。
すると路地の向こう側に人だかりが見えた。
赤色灯が家々の壁や塀を赤く照らしている。
「おや……?」
エム医師が人垣に近づくと噂好きな中年の主婦が「嫌ねえー」と心にもない語調で同意を求めるように呟いていた。
「旦那さんを刺したんですって」
「ええー、仲が良かったじゃない。橋本さんのところは」
「それが、そうでもないみたいで。ちょっと前の町会でね、保険金……」
「えっ、保険金……!?」
「すっごく掛けてたんですって。妙に上機嫌だったから、様子がおかしいなとは思ったのよ」
すると複数の主婦が小首をかしげる。
「でも奥さんが旦那さんを刺しちゃったら、保険金を受け取れないんじゃないの?」
「そうよねえ。どういう事かしら?」
その話を耳にしたエム医師はスマホを取り出した。
そうして今日が、第三木曜日であることに合点がいき、電話帳を操作する。
「ああ、ご無沙汰しております。財津さん、どうやら刺しちゃったみたいですよ? 北区のお客様だとは思いますが、旦那さんを……ええ、ええ、そうですよね。生きるか死ぬかは、天のお導き――。死ななかったからと言って、怒ってしまってはいけませんよね」
エム医師はスマホを胸ポケットにしまってから、改めて事件現場の住宅街へ振り返る。
「でも、結果として亡くなったんですね、旦那さん。第三木曜日に」
彼はゆっくりと駅に向かって歩き出す。
「いのちのおカネをアテにするとロクなことになりませんね。老後のお金は、やっぱりちゃぁーんと蓄えておかないと……どんな妄想にとりつかれるか、わかったもんじゃありませんねえ」
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