天国への階段
天国への階段
星野葉月(ほしのはづき)は、バスの車窓に流れる景色を眺めていた。
曇り空、低い屋根の家、団地、自分の顔、今日の診察結果――。
今年で三十八歳になる。
同級生や周りの子たちは、みんな結婚して……早い子だと最初の子が中学生になった、なんて子もいる。
大手企業の課長になったとか、支店長になったとか、そんな子もいる。
テレビをつければ女性の社会進出とか、男女平等とか、賃金格差がどうのこうのとか。
うんざりする。
葉月はリュックにぶら下がるヘルプマークを見つめる。
赤地に白の十字が描かれた配慮を必要としている事を意味する札だ。
自分とは縁遠い存在だと思っていたのに……。
バスが停まって、人が乗って来る。
狭い道路。
バスが停まると車の流れも止まる。信号が青なのに、バスが停車しているせいで時間が停まる。
社会が、時間が、血流が、とまる。
そう、とまっているのだ。
葉月は大学を卒業してから大手食品流通企業に勤めた。
正社員で採用されて、二年ほど働いた。
二年目の春に、少し息苦しさを感じた。これという決定的な要因はなかったのかもしれない。低賃金のなかで会社と自宅を往復する生活に閉塞感だけが募っていた。それに加えて新卒の女の子は、これからの社会を担う存在に『成長』しなくてはいけないから、日々『勉強』だと言われ続けた。
つまり会社の都合のいい人間になるように努めなさい。
それが出来た女性こそが、社会進出のモデルケースで次世代の社会を担う理想的な女性なのだというプレッシャーがあった。
街中を歩いていれば見かける、あの会社の看板――。
誰もがうらやむような大企業なのに……お給料は馬鹿みたいに低かった。
ときどき、涙が出るようになった。
入力していたエクセルデータが保存されていなかったとか、印刷した用紙で指先を切ってしまったとか、ささいなこと。
ぐっと堪えて、指先で涙を一滴だけ拭う。
気づけば、トイレで泣くようになった。
上司に「年末のさ、飲み会ってどうなってるんだっけ?」と問い合わせを受けただけで、胸がぎゅっと詰まって緊張して、涙が出るようになってしまった。
散り積もっていた日々のストレスが、心の容器から溢れてしまった。
花粉症みたいに。
休職した。
心療内科に通った。
ストレスだと言われた。
鬱、そしてパニック障害。
まだ軽度だった。
復職を目指したが、うまくいかなくて……二年目を満了したタイミングで、葉月は最初の会社を退職した。
それから自分のペースで働ける職場をいくつか渡り歩いた。
そう『渡り歩いた』と言えば格好はいいが、実際は『転々とした』のだ。
葉月は社会人としてキズがあり、精神にもろい部分が露見している。欲しいと思っている収入と生活を得るためには、最初の会社よりも『粗悪な』勤め先に行かなくてはならなくて……また調子が悪くなった。
不動産会社、中古車販売店、印刷工場、タクシーの配車センター、食品倉庫……。
長く続いたところもあれば、すぐにやめてしまった場所もある。
実家に帰ることも考えた。
栃木県には両親も健在だったが、母親が地銀の営業マンと不倫していることを知って……それ以来は足が遠のいている。
自分を産んだ女は一回りも年下の、青いスーツと尖った靴を履いた男に腰を密着させているのだと思うと吐き気がした。寡黙で朴訥な父は何も言わない。きっと気づいているのだろうが、何も言わない。その関係性が、なんとなく嫌だった。
「うっ……」
動き出したバスのなかで妙な吐き気がこみ上げてくる。
ぎゅっとヘルプマークを握って、もう片方の手で口元を押さえた。
狭い車内で両親の醜悪な姿を想像したのが、よくなかった。
呼吸を整えて、気持ちを落ち着かせる。
頑張って――。
「あのう、お嬢さんね、いい? ちょっと?」
ふと顔をあげたとき、先ほどのバス停で乗り込んできた高齢女性が立っていた。
高齢彼女は肩越しに目を配る。
そこには白髪の、さらなる高齢女性が杖をついて立っていた。
「ちょっと譲ってあげてもらえる。おばあちゃんだから」
面倒見のよさそうな高齢女性は、さらなる白髪の高齢女性に「いまね、お姉さんが立ってくれますからねー」と声をかけていた。
葉月はぐうっと奥歯を噛みしめながら「あの、すいません」とヘルプマークを示した。
すると声をかけてきた高齢女性は小首をかしげて。
「だいじょうぶよ、お姉さんは若いんだから」
なにが大丈夫なのか。
葉月はキリキリする痛みを腹の奥に抱えながら、ぎゅっと拳を固める。
周りの老人たちが、こちらを見つめている。
その視線が嫌で、吐き気を我慢しながら……ちょうどバス停にとまったタイミングでリュックと鞄を掴んで降りた。
ばたばたと降りたせいで注目が集まったが、あの空間にはいられない。
葉月はボロボロの長椅子に腰かけて、ぜえぜえと肩を揺らす。
東京の下町――。
高齢者と高齢者と高齢者と……そして障碍者が多く住む、団地の街。
大学病院が東西南北にそびえたち、破滅的な地下鉄と陰鬱なバスがぐるぐると廻っている。
十数分後に次のバスが来る。
それまでの間に葉月は呼吸と気持ちを整える。
「こんなんじゃ、まだ働けないじゃん……」
結婚生活。
子ども。
新築の家――。
社会の人々が当然に通っていく道筋から、遠く外れてしまった。
金もなく、誰かの助けが必要で、でも誰も助けてなんてくれない。
バス停にやって来た高齢男性が「よっと!」と葉月の隣に腰をおろす。近くのスーパーで買ったらしいビニールが、葉月の腰にあたっていた。
ぐっと腰をずらすように葉月が座っている位置を変える。
男性は「んぱー」と歯のない口を開けて「んんんん、んんんんん……」と志村けんがコントで演じる高齢者のような、意味の分からない低い音を喉から断続的に発している。
そんな小鳥のさえずりみたいな音ですら、嫌だった。
葉月は席を立ち、そのまま次のバスを待った。
葉月が住んでいるのは東京都××区の北部にある木造アパートだ。
古い時代には城があった地域であるが、いまはもう大きなマンションになっている。
お金を持ち、家庭を持ち、順風満帆な生活を送る人々は土地の高い場所に住み、葉月のようなキズのある人々は低い場所に住む。そのさらに低い場所にあるのが、団地群だ。
墓標のような巨大なコンクリートの塊が、錆汚れを浮かべながら鎮座している。
この街には地名の後ろに『団地』とつければ、あらかた住所が想像できるほど『団地』がたくさんある。
南団地、青空団地、川上団地……。
その団地にぎっちりと詰まっているのが、高齢者たち。
高齢者と外国人と低所得者が住んでいる。
高齢者政策を訴える選挙カーが走り、赤杖を振り回す老婆がバイクの防犯ブザーをあちこちで鳴らし続ける。異国の言語とスパイスの香りが漂う商店街と会話の成立しない井戸端会議――。
そうした団地群とバス停をつなぐ、ちょうど中間点に葉月の住むアパートはある。
玄関の先に洗濯機を置く、木造のアパート。
家賃が安いのは、目の前が坂になっているせいもあるだろう。
ぐうっと伸びる長い階段になっていて、非常に危ない。
多くの高齢者たちは遠回りではあるが『日吉坂』を時間をかけて歩いていく。
しかし、この階段を使えば……ふもとの団地群にすぐ到着できる。
長い階段ではあるが、ちゃんと手すりもある。自転車を転がせるスロープだってある。ある若い子が『広島の街みたい』と言った。
たしかにそうした捉え方も出来るが、残念ながらここは団地へつながる『天国への階段』なのだ。
今日も窓辺から、葉月は団地へつながる階段を眺める。
挑戦的な高齢女性が杖をつきながら、階段の手すりを握ってゆっくりと一歩、一歩、降りていく。不思議な事ではあるが、登る人は少ないのに、降りる人は多い。
バスを降りて階段を使えば、たしかに団地まではすぐだ。
その気持ちはわからなくもない。
わからなくもないが……。
日が沈んでいく。
煮炊きする匂いが漂ってくる。
葉月は狭い台所で質素な夕食を作り、時計をちらと見る。
医者からは『あまりストレスはためないように』と言われている。
だから葉月は不定期ではあるが、密かなストレスの解消をしている。
玄関を出て、アパートの郵便受けに立つ。
監視カメラのない、古びた町――。
葉月はごくんと生唾を飲み込んで、郵便受けの中身を引っ掴む。しょうもないチラシ。
そのまま一目散に、アパート前をゆったりと歩いていた高齢の女性に近づいた。
彼女はビニール袋を持ち、杖をついて、これから階段を降りようとしていた。
その曲がった背中を、蹴る。
ごろごろと転がる身体を見送って、葉月はアパートに取って返す。
自宅の窓から見える赤色灯の賑やかさ。
まるで繁華街――。
聞こえてくる『この階段、もう何回目かしらね。区に言って閉鎖してもらった方がいいんじゃないの?』という声――。
足の悪いお年寄りが、誤って転んで落ちてしまう。
注意を促す看板や張り紙が、結界札のように張られている。
それでも、高齢者の転落事故が絶えない『天国への階段』――。
葉月はひそかにほほ笑む。
「わたしは社会の役に立っているのだ」
腐った土壌や木片から沸きだしてくるシロアリのような高齢者が、またひとり減った。
元気な日本の高齢者たち。
きっと家族も迷惑している。
横柄で、過去の栄光を振りかざして、高齢であることを特権のように思っている人々。
そんな人々のために、いまの若い世代は必死に働き、支え、なんの見返りもない。
こんな歪んだ世界の片隅で、葉月はひそかに『役立つこと』をしている。
この階段に、正式な名前なんてない。
団地に繋がる『天国への階段』とは、うまいものだ。
葉月はその名前の通り、月にひとり、またひとりと『天国への階段』に高齢者を突き落としていく。それがストレスの解消法なのだから。
* *
葉月のもとに警察がやって来たのは、梅雨時のことだった。
警察官の制服ではなく、スーツの刑事だった。
雨の日の早朝で、まだ夜も明けていない。薬だって飲んでいないし、頭がぼんやりとしたまま、驚きと衝撃が葉月を襲った。
大柄な男性と若い女性の刑事がやってきて、言った。
「あんた、自分がなにやったのか、わかってるよね?」
凍り付いた。
パニックになる。
吐き気がした。
「あ、あの、わ、わたし……」
すると奥の女性刑事が言った。
「誤解しないで。これ」
そう言って彼女は一万円札を出してきた。
警察が、お金を……?
「なんですか、これ」
「先月、ひとりやったでしょ。だから、一万円ね」
「えっ、あの、でも……」
「働いたら報酬をもらう。あんた、働いたんだよ」
「でも、そんな……。わたしは、だって――!!!」
しーっ、と女性刑事が指を自らの唇に添えてから言った。
「増えすぎてるの。本来なら、もっといい場所がある。茨城県とか群馬県とか。もっと住みやすい場所がある。でも『彼ら』は『ここがいい』という。それって身勝手じゃない?」
「そうかもしれませんけど……」
すると男性刑事は「いろんな考え方があるってことだよ」と前置いてから、言葉を続ける。
「ただ、あんたは働いた。そして結果を出している。だから報酬をもらう。それだけだ。思想とか理由とか、そんなものは重要じゃない」
葉月は一万円を片手で受け取ったが……その手は激しく震えていた。
「わたしは、逮捕されない……?」
この問いかけに、ふたりの刑事はなにも答えなかった。
そうして何事もなかったかのように、アパートの玄関から出て行った。
葉月はしばらく考えた。
考えた末に、また高齢者を『天国への階段』へ突き飛ばした。
六月はふたり。
すると七月に刑事がやってきて、二万円をくれた。
社会の役に立っているのだ……。
七月には四人を突き飛ばした。
八月には――。
そうして元死刑囚・星野葉月は、逮捕される五年間の間に驚くべき数の高齢者を天国と地獄と病院に送った。
彼女が供述した『ふたりの刑事』は妄言とされたが……収入源のなかった彼女の財布に残っていた七十万円近い金銭の説明は、未だに成されていない。
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