ママのホットプレート

ママのホットプレート



 お母さんに対する思い出ってたくさんある。

 叱られて嫌いになりそうになった時もあるし、褒められて大好きになったときも。

 中西友里(なかにしゆり)は電車のなかで、母親の裕実(ひろみ)との記憶を思い返していた。



 友里はただ『お金が欲しかった』だけなのだ。


 五月の連休に千葉の屋内ホールで開催される男性地下アイドルのコンサートに行きたかった。そこで『推し』のグッズを買いたかった。だからお金が欲しかった。

 高校生らしいお金の使い方だし、数百万円の札束が必要な話でもない。

 頑張ってバイトして、お金を溜めて……遊びに行く。

 だからエム医師が募集していた雑務のアルバイトに応募した。江東区のマンションで四時間ほどの書類整理をするアルバイトだった。

 マンションの一室で『病院』を経営している事もよくわからなかったけれども、エム医師は優しい男性だった。つるりとしたスキンヘッドで、にこにこしていて……友里が多少のお金に困っていることをすぐに見抜いた。

 アルバイトの募集要項どおり、簡単な書類整理を四時間ほどやって……即金で八千円を受け取った。そのときに『あの薬』をもらったのだ。


「中西さんの人生が少しでも豊かになるといいんだけどね」


 彼は赤い錠剤と青い錠剤が入った錠剤のシートを差し出した。

 赤が右側、青が左側に配置された錠剤薬のシート。


「青春を謳歌するには、お金が必要だよね。おじさんもそうだった。だから、だいぶ若いうちに『損』をしたよ。お金がないことでね。だって中西さんもお金がないからアルバイトに来たんだろう? ならきっと役に立つよ」

「これ、なんの薬ですか?」

「お金を生む薬だよ。人生は楽しく、笑って、大切な人とちゃんと過ごさなくちゃ」

「い、意味が分からないです。あの、なんか怖いです……」

「使いなさいと命令しているわけじゃない。必要なら使ってみて。赤い薬を飲むとキミはお金に困らなくなる。で、充分にお金が貯まったなと思ったら『必ず』青い薬を飲んでね。キミの身の回りに起こっている出来事が、すべて解消されるから」

「その、お金を生まなくなる?」

「そういうこと。お金はね、どんなにイイ人も狂わせる魔力がある。だから、魔力に支配されたと思ったら、すぐに青い薬を飲まなくちゃいけない」


 エム医師はにっこりと笑って。


「人間をもっともダメにするのは、お金なんだよ。これのせいで、みんな病んでしまう。だからお金に対する薬が必要なんだ」


 彼は念押しするように「飲む、飲まないは中西さんの自由だよ」と言ってから。


「それとね。くれぐれも、この『秘密』をひとに言ってはいけない。薬に頼ってはいけない。せいぜい一週間ぐらいで青い薬を飲んで、物事をリセットしなくちゃいけない」


 エム医師は雰囲気を一変させた重苦しい声で言い「約束ですよ」と低く笑った。

 そうして、友里にとって初めてのアルバイトは終わった。



* *



 赤い薬を飲んだのは、エム医師のアルバイトから帰ってすぐのことだ。

 赤が毒薬なら、青が解毒薬である。なら挑戦してみるだけ、してみよう。

 そんな気持ちで友里は赤い薬を飲んだ。



 変化は翌朝に現れた。

 毎朝の快便が、止まった。


「あれ……?」


 学校へ行く時間もあるので、そのままトイレを出た。

 その日の放課後になっても便意はやってこなかった。

 エム医師からもらった薬のせいだろうか。副作用で便秘になるものは、普通の処方箋薬でもある。だから友里はたいして気にしなかったし、十七歳になってまで「お母さん、なんか大きい方が出ないの……」とは言えなかった。

 夕食は裕実特性のホットプレートだった。

 料理教室で作って来たという餃子を並べて、じゅうっ……という小気味よい音を立てながらホットプレートで焼く。出張中のお父さんがいれば食べきれるのに……というほどの分量の餃子を母親は焼いた。

 とってもおいしかった。

 友里は母親のホットプレート料理が大好物なのだ。



 翌朝も、便は出なかった。

 便座に座りながら「便秘薬だったの……?」とエム医師の顔を思い起こした。

 今日の夕方にも排便がなければ、青い薬を飲もう。

 昨晩は『絶対に残る』と思った餃子を裕実とふたりで完食した。最後は友里がひとりでぱくぱく食べていた。それほど餃子は『おいしかった』のだ。これまでにないぐらい。

 裕実が「んもー、そんなにおいしいかね? いつもと変わんないよ」と笑っていた。

 友里は便座に座りながらおなかを擦って。


「味覚が良くなる薬だったのかな。なにを食べて『すごくおいしい』って感じる。でも、便秘になっちゃう……。そういう薬なの?」


 誰に問うわけでもなく呟いて、友里はトイレを出た。

 便秘の事なんて、誰にも言えない。

 友達にも、お母さんにも、誰にも……。



* *



 学校で、便は出た。

 昼休みに自然な便意が来て、トイレに入って排泄した。

 第一の感想は「よかった」だったし、第二の感想は「えっ……?」だった。


 カツン、コツン……。


 明らかに硬いものが便器の陶器を打つ音が響いた。

 嫌な予感がして振り返ると便器のなかには親指ほどの塊が沈んでいた。


「えっ……」


 それは排泄されたものに違いなかったが、見慣れた排せつ物ではなかった。

 排泄した規模感と実物が見合っていない。


「なにこれ……」


 しばらく親指ほどの大きさの物体を見つめた。

 濃い黄色味が掛かった物体で、ひどく硬そうである。輝いているわけではないのだが、くすんでいるわけでもない。


「意味わかんない……」


 友里はレバーを引いてトイレの水を流したが、物体はカツンカツンと陶器にぶつかるばかりでしっかりと流れて行かなかった。

 そのとき授業開始のチャイムが鳴り、便座のふたを閉めて友里は個室を出た。


「なんなの、意味わかんない」


 次の世界史の授業中は、たくさんの『ハテナ』が頭をめぐって、とても集中できるものではなかった。

 あんな硬そうなものがおなかから出てきた。

 その一点が、友里の心を激しくかき乱した。

 初潮を迎えたときにどうしていいのかわからなくなってしまった。そのときの途方もない絶望感が、全身に広がっている。

 世界史の教師が言う。若い教師で、少しでも世界史に興味を持ってもらおうと苦心している先生――。


「左の写真を見てみて。ちょっと小さくて見えにくいけどね、これがスペイン船に積まれていた財宝なんだ。パイレーツ・オブ・カリビアンって映画があるんだけどね、そういう海賊と戦う時代が、現実世界でもあったわけなんだ」


 不意に入って来た言葉に従って友里も写真を見た。


「――!!!」


 思わず、目を見開く。

 そこに映っていた写真は、海中に没した黄金の品物たち。

 それをダイバーが手に取って撮影しているものだ。

 水のなかでくすんだ色をした怪しげな『黄色い物体たち』は、つい数十分まえに、自分の尻から出現した『あの物体』ではないか。

 エム医師の言葉が蘇る。


『――青春を謳歌するには、お金が必要だよね』


 まさか、と息が詰まった。

 それと同時に友里は走り出していた。


「ちょっと中西さん!?」


 世界史の先生の声が聞こえたが、友里は口元を押さえて廊下に駆け出していた。

 向かったのはトイレ。吐くためじゃない。


「まだ、あるよね!」


 個室に入り、便座を開ける。

 流れきっていない『あの物体』が見えた。

 友里は意を決して手を突っ込み、その物体を拾い上げた。

 硬い金属で、ずっしりと重い。


「これ、金……?」


 カネじゃない、キン。

 流し場で石鹸をつけて洗って、光にかざす。

 怪しい光。

 その物体は黄金のように見えた。



* *



 学校帰りに錦糸町へ寄った。

 高級ブランドの買い取り専門店へ行き、親指大の金の塊を震える手で若い男性鑑定士に手渡した。

 鑑定士は「未成年はちょっと……」と首を振ったが。


「これって金ですか?」


 友里の問いかけに「いや、金かどうかって……ん、ちょっと待ってて」と奥へ引っ込んだ。

 すると少し年配の男性とふたりで出てきて、未成年からは買い取りが出来ないことなどを告げられた。そして最後に――。


「これね、ご両親の同意がないと取り扱えない。24金の本物だから」

「親の同意があれば、いくらなんですか……」


 声が震えた。


「ざっくりで言うとね、九十四万で買い取りになるの」


 きゅ、九十四万円――!?


 息が詰まった。

 自分の尻から出てきた物体が、九十四万円――。


「あ、あの返してください。帰りますから」


 そう言って金をひったくるようにして友里は店を出た。

 そのとき彼女は確信した。

 わたし、金を生む体質になったんだ、あの薬のせいで!



「お母さんッ、あの、おかわり!」

「どうしちゃったの……?」


 近所のスーパーで買ってきてくれたお惣菜をばくばく食べ、白米を飲むように食べ、味噌汁で押し込んだ。生まれてこんなに食べたことはなかった。

 少しでも、たくさん、排泄するために。

 知りたかったのだ。

 また、次の排泄も『黄金』が出てくるのか。

 もし通常に戻っていれば、それはそれでいい。けれども、また黄金が出てきてしまったら……?

 だいじょうぶ、青い薬でもとに戻るから。

 友里は自分にそう問いかけながら、必死に箸を動かした。

 不思議とおなかはぜんぜん満たされなかった。



 母親に秘密を打ち明けたのは、翌週の事だった。

 食卓のうえにはティッシュの上に乗せた黄金の粒が八つ――。

 ひとつが九十万だとして、七百二十万円ほどになるだろう。


「信じてもらえないと思うんだけど……」


 友里は自分の身体が黄金が排泄されることを告げた。

 錦糸町の買取店で九十万円の査定が成されていること。親の同意がなくては換金が出来ないこと……。それらを一挙に喋った。

 母親は無言だった。

 無言で話を聞いていた母親は、目を見開いて黄金を見つめていた。

 その表情は鬼気迫るもので、怖かった。

 黄金の魔力がヒトを狂わせる――。

 エム医師の言葉が、ぼんやりと脳裏を過った。

 話を聞き終えた裕実は「いったん、お母さんに任せておきなさい」と言って黄金の粒をティッシュにくるんで外出してしまった。

 お母さんは両手に買い物袋を携えて、八時過ぎに帰って来た。

 鞄、靴、洋服……それと食料品の袋が、どっさり。


「遅くなってごめんなさい。すぐに夜ご飯にするから」


 そう言って裕実はデパートの地下で買ったと思われる大量の総菜をテーブルに並べた。

 どれもこれも友里が好物な食べ物だった。

 唐揚げ、とんかつ、エビフライ、春巻き、チキン南蛮、麻婆豆腐、焼きそば、ファストフードのフライドポテト……。

 どれもこれもデパ地下に入っている有名店のもので、見るからにおいしそうだった。


「お、お母さん……?」

「食べちゃって。それと、これ、あなたの」


 そう言って彼女は十万円を差し出してきた。


「ま、待ってよ。換金したの!」

「ええ、した」

「いくらになったの……?」


 母親はしばし顔を伏せてから「八百万円……」と早口に、小さな声で言った。

 恐ろしくなった。

 喜んでいいのか、怯えた方がいいのか。

 裕実は友里をじっと見つめてから、言った。


「ちゃんと食べて。まだ、出るんでしょ」


 いちばん聞きたくなかった一言が、裕実の口から出た。

 友里は怖くなった。

 怖くなったのに……食欲は、衰えなかった。



 母親の裕実には『おカネ』が必要であることを知ったのは、その週の半ばだ。

 彼女には親密にしている友達がいた。

 大学時代のサークルの友達で、結婚しているひと。おまけに子どもが三人いる。

 その人と恋仲になって、もう八年になるという。

 最初、友里は「えっ?」と思った。


 母親が不倫しているとわかったからだ。


 それ以上に「意味、わかんないんだけど……」と戦慄したのは、裕実の不倫相手は男性ではなくて女性だった。旦那ある女性と裕実は不倫交際を続け、その結果――相手の家族は離婚調停に入っていた。

 子どもの親権を手放さず、離婚の慰謝料も払う必要があった。

 派遣社員である先方の奥さんに、それらを叶えるだけの財力はない。裕実だって専業主婦であるから、お金なんてない。

 そこに友里が現れた。黄金を生む友里が。

 裕実は人が変わったように料理をし、大量のごはんを友里に提示した。

 食べさせれば食べさせるほどに黄金を生む。

 最初はトイレで排泄していたが、汚い排せつ物が出ないことがわかるなり「お風呂場でしなさい。わたしが見ていますから」と命じてきた。

 友里が拒絶を示すと問答無用で引っぱたかれた。

 怒鳴りあうことが増えた。

 出ていくと友里が主張すると殴り倒されるほどの勢いで裕実は食って掛かって来た。


 それが怖くて、歯向かうことをやめた。


 学校を休むようになった。

 朝からご飯を食べる。

 食欲は衰えない。

 眠る以外はごはんを食べる。

 そしてお風呂場で黄金を生む。裕実がそれを回収して、錦糸町に売りに行く。

 黄金、黄金、黄金……。

 あれだけ大好物だったホットプレートは、もう見たくなかった。

 山盛りのおかずはホットプレートに乗せられて「食べなさい」と押し付けられる。

 それを泣きながら友里は食べた。

 黄金のために。

 黄金を生み続けた――。

 だから、裕実の目を盗んで青い薬を飲んだ。


 終わりにしたかったから――。



* *



 エム医師は住宅街の一角で赤色灯を眺めていた。


「娘さんが母親を刺したんですって」

「違うわよ、奥さん……。お母さんが娘さんを刺したのよ」


 すると別のやじ馬が「なんか、最近は変な匂いがしてたんです。気づきました?」と問いかけて「あー、してました。たしかに!」と周囲の主婦たちが同意する。

 エム医師は踵を返して歩き出す。


「だから言ったじゃないですか。一週間ぐらいがメドですよって。それと誰にもこういう話は伝えてはいけないんです。たとえ信頼できる両親でも『黄金』は人間を惑わせると言いますからね。ああー、宝くじが当たったら、誰にも言わずにパアーっと使っちまいましょうなあ。ま、わたしには当たりっこないですけれども」


 そう言ってエム医師は江東区の団地へと戻っていった。

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