第4話 妖精のダンス
はっとして、泉の方に目をやる。
泉は、明るく光を放ち始めていた。
柔らかい緑色の光が、ベンを、そして俺を照らす。
すると、固唾を呑む俺の前で、まるで煙が立ち上るように水面から何かが現れ出した。
それは、しばらくは輪郭がはっきりとしていなかったが、やがて人の形になった。
そうやって泉のあちこちから、水の色をした透明な人が立ち現れる。
——水の精、ウンディーネだ。
この世のものとは思われない音楽は、相変わらず流れ続けている。
彼らはそれに合わせて、ゆっくりと踊り始めた。
時にふわりと水面から浮き上がり、時に水面に沈み込み……彼らは泉の中をステップで
軽やかに移動していく。水しぶきをあげてくるくると回転したり、大きく背を反らしたかと思えば水の中にぱしゃんと消えたり……
彼らの動きは、自由だった。
俺は、いや、ノアだって、逆立ちしてもあんな風には踊れない。
ウンディーネの風貌はというと、何しろ水でできているかのようで、顔の判別はあまりつかない。
だが、その蠱惑的な眼差しはなぜだかはっきりとわかった。俺たちの方を見ているようにも、見ていないようにも思える視線。
彼らは俺たちの存在に気づいていないのだろうか?
でも彼らの手つきは、まるで俺を手招きしているように見える。
ふと、『ウンディーネの舞』のラストを思い出した。
幻想的な舞を目の当たりにした男は、妖精に誘われるようにして、彼と一緒に踊り出すのだ。
——気がつけば、俺も踊り出していた。昨日の夜の公演と同じように。
でも、ここは舞台じゃない。ここは森の中で、目の前には本物の妖精たちがいる。
妖精のダンスは、本当に存在した。
おとぎ話は、おとぎ話じゃなかった。
いつしか俺の目は涙で濡れていた。
俺は涙を流しながら、妖精の音楽に身を任せていた。
ちらりと見ると、妖精たちも俺の動きに呼応するかのように動いていた。
俺と妖精は、踊りを通じて一体となっていた。
〈今宵は、客人が二人もいらっしゃいましたね〉
そんな声が聞こえたような気がした。
——妖精の言葉だろうか。
グラスにそっと触れて鳴らした音のような、澄んだ響きだ。
「二人」という言葉にベンの存在を思い出して、俺は踊りをやめた。
ベンは、うっとりとした表情で妖精のダンスに見入っていたが、踊りをやめた俺を見て声をかけてきた。
「兄ちゃん、さすがだね。すごいや」
俺の踊りのことを言っているのだろうか。
「いや、妖精のダンスに比べたら、俺の踊りなんて……」
俺はあまりに感動して、明日から自分は普通に踊れるのか不安なほどだった。
「そうそう! ね、妖精のダンス、本当にあったでしょう」
「ああ、そうだな」
確かに、今回はベンが正しかった。
「……妖精のダンスなんか、ただのおとぎ話だとか言って、ごめんな」
「うん、いいよ」
……まあ、せっかく手配した舞台に不満そうな顔をされたのは、まだあんまり許していないけれど。
俺の気持ちを知ってか知らずか……ベンは無邪気に、きらきらと目を輝かせて続けた。
「今日、兄ちゃんが一緒に来れてよかった! 前に来たときは一人だったから……」
その言いぶりからすると、やはり三年前にベンが行方不明になったときも、彼はこうやって森に来て、妖精のダンスを目撃したのだろう。
「だからさ、兄ちゃんに見せたかったんだ」
「——俺に?」
「うん、一人だと、もったいないでしょ?」
「……ベンは優しいな」
俺はそう言って彼の頭を撫でた。
それから俺たちは二人並んで、まるで飽きることなく妖精のダンスを見続けていた。
朝の光に、木々の向こうの空が白み始めるまで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます