第3話 森へ


 門のところには、誰も立っていなかった。


 考えてみれば、ここは平和な町だ。夜中に忍び込んでくる不審者も、人家に近寄ってくる獣も、この辺りにはいない。だから、門番の人たちも、わざわざ夜中に見張りはしないのだろう。

 だから、三年前のベンは、ふらりと町の外に出ることができてしまったのだろう。


 つまり、誰の目があるわけでもない。けれど、俺は無意識に忍び足になって門をくぐり抜けた。

 夜中に町を出るなんて、何となく、悪いことをしているような気分になったのだ。



 門を抜けると、すぐ目の前に森がある。

 町の人も、めったにここに来ることはない。大きな街は反対の方角だし、どうしてもピクニックをしたいのでなければ、森に行く理由もないからだ。

 よっぽど、弟が行方不明にでもならない限り。


 うっそうと茂る木々は、月の光で翳って、どこか恐ろしげだ。

 真っ暗で、森の中は見通せない。暗闇の向こうに何が待ち受けているのか、見当もつかない。


 でも……これは、俺の気のせいかもしれないけれど……


 不思議と森が、俺を手招きしているように思えた。


 もし大人がそばにいたら、俺のことを止めてくれたかもしれない。

 でも、俺は一人だった。


 俺はほとんどためらうことなく、夜の森へ足を踏み入れた。



 方角のあてがあるわけじゃない。

 迷子になるといけないから、なるべく真っすぐ歩くようにする。でも、周囲の木々さえはっきり見えない状況で、真っすぐという体感にどれほどの意味があるかは分からなかった。


 ふと、木々が不自然にざわめきだす。


 木の葉が、梢が立てる音は、こんな言葉に聞こえてきた。


『こっちだよ』

『こっちだよ』


 ——空耳というやつかもしれない。


 でも、『ウンディーネの舞』にもこんなシーンがあった。

 俺が森で迷っていると、木の精の役の少年が三人出てきて、誘うような仕草をしてくるのだ。


 この声に従ってみても、いいかもしれない。


 俺は舞台を思い出しながら、踊るように、いや、ほとんど踊りながら、森の中を進んでいった。



 仕事だから、じゃない。

 俺は踊りが好きなんだ。


 ——踊りで生きていけたら、どんなにいいだろう。



 ……そう、それで……俺が舞台の端まで行ったところで、少年たちはけるんだ。

 それから、フクロウの鳴き声を真似た笛の音がして……



 ホホウ



 あまりに完璧なタイミングでフクロウの鳴き声がして、びっくりした。


 木陰を見上げてみるが、どこにいるのかは分からない。


 もう一度鳴き声がしないか、耳を澄ませてみる。



 ホホウ


『さっき、男の子があっちに行ったよ』



 今度ははっきりと、そう聞こえた。


 いや、フクロウが喋るはずはない。

 だから、これは俺の聞き間違いだ。


 ——でも、それでも。


 弟を探しに来た兄を、森の木々が、フクロウが、助けてくれるおとぎ話があったっていいだろう。


 俺は、フクロウの教えてくれた方角——すなわち、俺の右手側へと進んでいった。




 フクロウの声を聞いて間もないうちに、俺は泉のほとりへと辿り着いた。


 水が光を放っているかのように辺りは明るく、泉は底まで見通せるほど澄みわたっている。

 自分の息の音さえ、泉に吸い込まれてしまったのではないかと思うほどの静寂が、空間を満たしている。


 ベンはその泉のほとりに佇んでいた。


「おい、ベン! どうしてこんなところに……」


 言いかけて、ふと気づく。

 何だか、様子がおかしい。


 俺はベンの近くまで寄っていった。


 でも、ベンは俺の存在に、まるで気がついていないようだった。


 ぼうっとした様子で、目の焦点が合っていない。


「ベン! どうしたんだ⁉」


 肩をつかんで揺すろうとした、その時——



 どこからか、音楽が聞こえてきた。


 笛の音でもない、太鼓の音でもない。

 歌声ともまた違う。


 ——この世のものとは思われない音楽が。

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