鋏池穏美

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 魚となった私が、群れの中で生き生きと泳ぐ夢。


 いつから違ったのかなんて分からない。


 泳ぎ方も、呼吸の仕方さえ分からない。


 そう生まれたしまっただけなのだろうか。


 私は、私は──


 魚に、なりたい。



 ―――



 じりじりと身を焦がすような陽の光に、みんみんと五月蝿く鳴く蝉の声。噎せ返るような熱気に肌はじっとりと湿り、息苦しさに喉が詰まる。開放的な雰囲気に走り回る子供たちが、まるで水を得た魚のように見えた。


 私は夏が嫌いだ。


 仕事もリモートで出来るし、買い物もネットで済ますことが出来る時代。そうとなれば、わざわざ嫌いな夏に外出などしたくはないのだが──

 それでも私は今、ここにいる。売りに出された一軒家の内見に。


「多少古いですけど、広さは十分でしょう?」


 吉田と名乗った不動産屋の作られた笑顔に、私は「知っています。ここは私の実家だった場所ですから」とだけ答えた。


 吉田さんは少し驚き、「それでしたら先に仰ってくれたら──」と言葉を発するが、私はそれには反応せずに靴を脱ぎ、かつてそうしていたように家に上がった。そう、ここは私の実家だった場所。両親が他界し、姉が相続した家。姉は早くに家を出て結婚しているし、住む予定もなく売りに出したのだ。


 吉田さんは私の後を追いながら、「それならば相続人との遺産分割協議のやり直し、または話し合いで名義変更をすればいいのではないでしょうか。その場合でも贈与税が課税されることにはなりますが──」と次々にどうでもいい言葉を並べていく。


 そんなことは知っているし、かといって私にはその資格はないのだ。私は──


 私は、両親や姉から縁を切られている。ただ、今の法律上で完全に縁を切ることは難しい。成人すると共に分籍もしたが、それでも完全に縁を切れたわけではない。当然ながら私にも相続の権利はあったのだが、それは両親の「遺産は全て姉に」という遺言によって意味をなさなくなっていた。私も私で相続をするつもりはなかったが。


 吉田さんが「何か事情が?」と聞いてくるが、私は答えずにリビングに向かう。リビングに入ってみれば、壁に刻まれた懐かしい傷の数々。姉と私の身長を一年ごとに刻んだ跡。私たちがまだ家族だった頃の名残。そっと指でなぞると、目から溢れてくる涙を抑えられなくなってしまい、その場に崩れ落ちた。


 口からはとめどなく嗚咽が漏れ、涙が床にぼたぼたと落ちる。吉田さんは気を利かせたのか、「少し外しますね……?」と静かに部屋を出ていった。


 私は叫んだ。


「なんで、こうなっちゃったんだ」

「ごめん、ごめんなさい、みんな」

「本当に、ごめんなさい」


 後悔と謝罪の言葉がとめどなく溢れ、ただ泣き続けた。



 ―――



 やがて戻ってきた吉田さんが、どうしていいか分からずにこちらを見ていた。私は涙を拭い、ソファに座りながら大きく息を吐いた。「何があったかお聞きしてもよろしいでしょうか?」と吉田さんが言うので、対面のソファに座るように促す。


「今から二十年前、あれは姉が高三、私が高一の夏、ですね。今日のように蒸し暑い日でした。その日、私は姉の交際相手を殺したんです。首を絞め、殺したんです」


 私のその言葉に、吉田さんが絶句する。


「その日、姉は塾で帰りが遅く、両親も仕事で家にいませんでした。そんな中、姉の交際相手が訪れたんです。姉の交際相手とは私も仲良くしていたので、家に上げました。とりあえずは二人でゲームをして過ごし、交際相手が途中、トイレに行きました。その際、部屋にスマホを置いていき、そのスマホに信じられないメッセージが届いたんです。スマホのメッセージって文頭の何文字かは表示されるでしょう? そこに『いつになったらお前の彼女とヤらせてくれるんだよ』って文字が見えて──」


 その当時のことを今でもありありと思い出す。交際相手のスマホにはロックがかかっておらず、私は震える手でメッセージを遡って読んだ。そこには姉の行為中の写真や動画が添付されたメッセージが多数あり、姉が交際相手に弄ばれていることが容易に窺い知れた。


「戻ってきた交際相手を問い詰めました。でも、笑ったんです。処女はちょろい、ちょっと遊んだだけ、妊娠してたらごめんな? と言って。気付けば私は、交際相手の首を絞めていました」


 忘れようにも忘れられないあの日の光景。汗ばんだ私と交際相手の肌が、ぬるぬるとしていた事を覚えている。交際相手は苦しげに口を動かし、必死に呼吸しようとしていた。陸に打ち上げられた魚のように、ぱくぱく、ぱくぱくと動く口。手のひらの中で脈打つ首が、えらのように感じられた。


「気付けば死んでいました。なんだか魚、みたいでしたね」


 そこから数時間、私は姉や両親が帰ってくるまで放心したままとなり──


「他にもやり方はあったはず。ですが私は短絡的に殺してしまった」

「それは……なんと言っていいのか……」

「……姉のことが大好きだったんですよ。私は。異性として……ね」


 そう、私は姉が好きだった。狂おしい程に好きだった。彼氏が出来たと聞いた際は、胸が張り裂けそうだったのを覚えている。だけど私と姉は血の繋がった姉弟であり、結ばれることはない。ならばせめて姉の幸せを願おうと、自分の気持ちに蓋をした。血の繋がった家族を愛しているなんて、おかしいのは私なんだと自分に言い聞かせた。


 息が、苦しかった。おそらく私は打ち上げられたのだろう。血の繋がった姉を愛し、常識という名の海から弾かれ、孤独という名の陸に。普通ではないから、仲間ではないから、魚ではないから、群れにはなれないから、ぱしんと弾かれた。私は羨ましかった。またみんなとその海を泳ぎたかった。姉の交際相手のようなクズでも泳げているのに、私は泳げない。姉を愛しているから殺したのか、泳げることへの嫉妬で殺したのか、分からない。

 ただ一つ確かなことは──


 私も魚に、なりたい。


「戻ってきた姉と両親は──魚でした。口をぱくぱくと動かし、ぎょろぎょろとした目で私を見ていたんです。私を問い詰める言葉が水泡のように弾けて消える。弾けた言葉は耳の奥でくぐもった音になり、私には届きませんでした。殺した交際相手の呪い、なんですかね。それともおかしい私が見る幻覚、なんですかね。ああ、なんだか息苦しい、です。私はこの世界で上手く息を吸えない。だから吉田さん、上手く息を吸えるあなたも魚、なんでしょう?」


 吉田さんがぎょろりと目を動かした。ぱくぱくと口を動かし、何かを言っている。だがその言葉は水泡のように弾けて消えた。


 私は静かに立ち上がり、リビングの窓へと向かった。


 そこに映った自分の顔。


 魚、だ。


 ぎょろりとした目。


 ぱくぱくと動く口。


 そうか。


 ようやく私も魚になれたのか。


 だけどどうしてだろう、苦しいのは。


 やはり息が吸えない。


 魚に、なったのに。


 窓を開けた。


 夏の空気が流れ込んでくる。


 ねっとりと湿った空気。


 潮の香りがした。


 そのまま家を出た。


 目の前の国道を鉄の魚が行き交う。


 それは波のようにうねり、止まることなく流れ続けている。


 その波に飛び込んだ。 


 ああ。


 でもやっぱり弾かれるのか。


 弾かれた私は宙を舞う。


 そうして打ち付けられたアスファルトの上──


 びちびちと、跳ねた。




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