”檻の中の鳥”

鈑金屋

檻の中の鳥

 1.囚われの鳥


 聖女エリシアは、生まれた瞬間から、夜の檻に囚われた。


 王宮の奥深く、誰の目にも触れぬ塔の最上階。

 窓辺から射し込む陽光が広間を淡く照らし、豪奢な調度品が影を落とす。

 絹の帳、金糸を織り込んだ衣、硝子細工の器──すべてが手の届く場所にあった。


 けれど、その部屋にはただひとり、聖女だけがいた。


 聖なる血を引くものは、城の外に出てはならぬ。

 それが、彼女の生まれる前から定められた掟だった。


 国の秘密をその身に宿す存在。

 しかし、王家の名を背負うがゆえに、彼女の存在は隠されねばならなかった。


 彼女を知る者は、王族の中ですらわずか。

 王の側近でさえ、その姿を見たことのない者もいた。

 仕える侍女たちもまた、ただ機械のように動くだけで、そこに情はない。


 ──塔の中で、誰にも知られずに生きること。


 それが、彼女に課せられた運命だった。


 窓の向こう、遠くに城下町が見える。

 陽の下を行き交う人々、広場に響く笑い声、馬車の車輪が刻む石畳の音。

 夜になれば、街の灯が星のように瞬き、まるで夢の国のようだった。


「……もし、私があの中にいたなら」


 時折、そんな儚い幻想を抱く。


 もし、王の娘ではなく、名もなき少女だったら。

 ただの一人の人間として、この町で生きていたなら。

 自由に歩き、誰かと笑い、誰かの手に触れることができただろうか──


 けれど、それは決して叶わぬ夢。


 彼女の居場所は、この塔の中だけ。

 外へ出ることも、誰かと心を通わせることも許されない。


 静寂だけが、寄り添うようにそこにあった。


 だが、その夜。


 エリシアは、ふと気づく。


 ──毎晩、塔の下を歩くひとりの少女の存在に。


 一定の歩幅、規則正しく響く足音。

 城を巡回する兵士の中で、ただひとりだけ異質な影。


 鈍く光る鎧ではなく、薄汚れた制服を纏い、華奢な体を隠すように歩く。

 その姿はどこか危うく、どこか、哀しかった。


 戦火の孤児、夜を巡る哨兵。

 貴族の娘ではなく、王の兵ですらなく、ただ命を繋ぐために闇を歩く者。


 最初は、気にも留めなかった。


 けれど、ある夜。

 ふと、その少女が立ち止まり、顔を上げた。


 ──目が合う。


 月明かりに照らされた双眸が、まっすぐにエリシアを捉えた。

 それは、ただの偶然ではなかった。


 誰にも見つめられたことのない聖女の存在が、初めて誰かの視界に入った。

 彼女という存在が、この世界に確かにあるのだと──そう証明されたような、衝撃。


 エリシアは無意識に、窓辺へと歩を進めた。


 夜警の少女もまた、塔の下で動かずにいた。

 声を発することはできない。

 名前すら知らない。


 それでも、ただ視線を交わすだけで、胸の奥が揺れる。


 ──私を知る人が、ここにいる。


 その夜から、エリシアは毎晩、窓辺に立つようになった。

 まるで、少女の巡回を待つかのように。


 遠くを行き交う人々の姿よりも、

 陽の光に満ちた世界よりも、


 塔の下の、小さな影だけが、今は何よりも眩しかった。


 2.月影に染まる瞳


 王城の夜は、まるで時間が凍りついたかのように静寂に満ちている。


 昼間の喧騒が嘘のように消え、貴族たちの笑い声も、兵士たちの怒号も、すべてが沈黙する。

 広大な石造りの回廊に響くのは、冷たい夜風の囁きと、規則正しい足音だけ。


 ──夜警の巡回。


 少女ノアは、その影のひとつだった。


 戦火の中で名を失い、家も、血を分けた者の温もりもすべて焼き払われた孤児。

 この王都は、彼女にとって「生きるために仕方なく辿り着いた場所」にすぎなかった。


 運よく夜警の職を得られたのは、彼女が何者でもなかったから。

 貴族の目に触れず、誰の記憶にも刻まれぬ者にだけ許される仕事。

 城の片隅を黙々と歩き、朝になればただ消える影。


 それでも、ノアは満足していた。


 ──夜は、優しい。


 誰の目もない静寂。

 一定の足音だけが己の存在を確かめるように響く時間。

 何かを求めることも、何者かであろうとすることもない、ただ歩くだけの夜。


 それが、彼女に許された唯一の安息だった。


 けれど、あの夜。


 その安らぎすら打ち砕く視線を感じた。


 ──見られている。


 冷たい夜気に溶け込むはずの自分を、誰かが見ている。

 そんなはずはない。

 夜警の影に気を留める者など、これまでひとりもいなかった。


 だが、それは確かに、そこにいた。


 月光の下、塔の窓辺に佇むひとりの少女。


 まるで夜の幻のように、静かに、確かに、こちらを見下ろしていた。

 銀の光を浴びたその姿は、氷細工のように儚く、神の彫像のように美しかった。


 息を、のむ。


 ──聖女。


 幻のように語られる存在。

 王家の血を引きながら、その身に秘めた秘密ゆえに塔に閉じ込められた少女。

 貴族ですら目にしたことのない、城に隠された聖女。


 それが、今、そこにいた。


 遠い世界の者のはずだった。

 手の届くはずのない、触れてはならぬ存在のはずだった。


 けれど、彼女の瞳は確かに、ノアを映していた。


 その目には、夜を裂くほどの知性が宿っていた。

 ただの囚われた少女ではない。

 すべてを見透かすような鋭さと、

 それでいて、触れれば砕けそうなほどの孤独を抱えた瞳。


 美しい、と思った。


 そして、それ以上に──


 その瞳に映った瞬間、自分が「ここにいる」と思えた。


 王都の隅に生きる影のような存在。

 命を繋ぐためだけに歩く、名もなき夜警。

 誰にも期待されず、誰の記憶にも残らない、ただの孤児。


 そんな自分を、彼女は確かに「見つけた」。


 まるで、自分の存在を、この世界に刻んでくれるかのように。


 それは、ただの偶然だったのかもしれない。

 けれど、その日から、夜が変わった。


 巡回のたびに、塔の窓辺を見上げた。


 ──そこに、彼女がいるから。


 聖女もまた、同じ時間に、夜の帳の向こうでこちらを待っていた。


 言葉はなかった。

 ただ、目を合わせるだけだった。


 それだけでよかった。


 誰にも知られず、誰にも悟られず、

 夜の静寂の中で、たったひとつの視線だけが交わされる。


 そして、知った。


“恋”とは、名を持たぬ感情のうちに生まれ、

 たとえ言葉がなくとも、目と心だけで通じ合うものなのだと。


 3.許されざる恋、夜に溶けて


 王城の夜は、凍てつくほどに静かだった。

 だが、その静寂はもはや孤独ではなかった。


 塔の窓辺に佇む、月影に染まる少女。

 銀糸のように淡く光を宿す髪、夜の深淵を思わせる瞳。

 その姿は、夜そのものよりも美しかった。


 声を交わすことはない。

 ただ、夜の闇を隔て、互いの視線が交差する。


 それだけで、心は確かに触れ合っていた。


 ──それがどれほど危ういものかも、知りながら。


 聖女は、王族の血を引く者。

 その存在すら、城の中で語ることを許されぬ、秘された少女。


 自分は、戦火にすべてを奪われたただの孤児。

 王都に流れ着き、夜警という影に紛れて生きる者。


 本来、交わることなど許されぬ運命。

 決して触れてはならぬ存在。


 それなのに、どうしても目を逸らせなかった。


 ──もし、誰かに知られれば。


 聖女に課せられる罰が、どれほどのものになるのか想像もつかない。

 彼女の牢獄が、より暗く、冷たいものへと変わるかもしれない。


 それでも。


 どうしても、やめられなかった。


 塔の前を通るたび、見上げる。

 彼女もまた、窓辺に立っている。


 目が合う。


 それだけで、満たされていく。

 それだけで、生きている意味があった。


 ──この時間が永遠に続けばいい。


 そんな叶わぬ願いを、何度抱いただろう。


 しかし、城の闇に潜む目は、思った以上に鋭かった。


 ある夜。


 巡回を終えた後、上官が低く囁いた。


「余計なことに首を突っ込むな」


 それだけだった。


 だが、理解するには十分だった。


 誰かが、気づいたのだ。


 塔を見上げる視線に。

 聖女と、目を合わせていたことに。


 ──これは、王家にとって“許されぬこと”だった。


 その夜、少女は塔の前で足を止めた。


 窓辺には、変わらず彼女がいた。

 けれど、いつもとは違う。


 月明かりに濡れた瞳が、不安げに揺れていた。


 何も言えなかった。

 何を言えるはずもなかった。


 ただ、そっと微笑む。

 まるで「大丈夫」と伝えるように。


 彼女も、静かに瞬きをした。

 そして、かすかに微笑んだ。


 ──それだけで、よかった。


 どれほど過酷な運命が待とうとも。

 この瞬間だけは、決して嘘ではない。


 目と心だけで交わした想いは、誰にも奪えない。


 ──そう、信じたかった。


 4.別れの夜、月は泣いた


 ──それは、あまりにも唐突な宣告だった。


「お前は明日、城を発つ」


 上官の低い声が、冷たい刃のようにノアの耳を切り裂いた。

 行き先は王都から遥か遠く、忘れ去られた辺境の地。

 そこではもう、王城の夜を巡ることも、塔の窓を見上げることもできない。


 ノアは悟った。


 ──王家が、この関係に気づいたのだ。


 言葉を交わしたわけではない。

 触れたわけでもない。

 ただ、夜ごと目を合わせただけだった。


 それすら、許されなかった。


 王の意志に背くことなど、誰にもできない。

 聖女でさえも──。


 ──彼女は、知っているのだろうか?


 自分がこの城を去ることを。

 もう二度と、あの窓辺で交わることはないことを。


 今、彼女は何を想っているのだろう?


 最後に、ただ一度だけ。

 その姿を、目に焼き付けたい。


 それが許されるのなら──。


 ノアは巡回を終えた後、塔の前に立った。

 今夜を逃せば、もう二度と会えない。


 月明かりが石畳を静かに照らす。

 いつもより冷たい夜風が、黒衣を揺らした。


 そして──。


 塔の窓には、聖女がいた。


 いつものように、静かに佇んでいた。

 けれど、今夜の彼女は、どこか違って見えた。


 目が合った瞬間。


 その瞳に、淡い涙が光った。


 ──知っていたのか。


 彼女は、すべてを悟っていたのだ。

 ノアがこの城を去ることを。

 もう、二度と会えないことを。


 それでも、聖女は何も言わなかった。

 ただ、微笑んだ。


 いつものように。

 何も変わらぬ微笑み。


 けれど、その奥に宿るものは、深い哀しみだった。


 ノアは拳を握りしめた。


 ──何か言わなければ。

 ──最後に、何か伝えなければ。


 けれど、言葉にすれば、すべてが壊れてしまいそうだった。

 その想いすら、禁じられたものになってしまいそうで。


 だから、ノアは何も言わなかった。


 ただ、まっすぐに聖女を見つめた。


 ノアの心は、ただひとつの想いを叫んでいた。


 ──あなたのことを、ずっと忘れません。


 聖女は、ゆっくりと瞬きをした。

 それが、最後の合図だった。


 ノアは深く一礼すると、踵を返した。

 もう振り向くことはしなかった。


 夜が明ける前に、城を去った。


 そして、翌日。


 聖女の塔の窓が、開かれることは二度となかった。


 5.永遠の夜に、君を探して


 辺境の風は、王都のそれとは違っていた。

 どこまでも乾き、冷たく、ノアの肌を刺した。


 ──それでも、あの城の石壁よりは、優しい。


 王宮とは無縁の場所。

 新しい仕事、新しい生活。

 だが、胸にぽっかりと空いた空白は、埋まることがなかった。


 夜になると、ふと空を仰ぐ。

 まるで、あの塔の窓を探しているかのように。


 ──聖女は、どうしているのだろう。


 ノアは、彼女のことを知る術を持たなかった。

 王家の情報が、こんな地まで届くことはない。

 たとえ届いたとしても、その名を口にすることすら許されなかった。


 だが、それはある日、唐突に耳に入った。


「幻の聖女が亡くなった」


 なんの感傷もない、ただの噂話。

 あまりにも、あっさりとした報せだった。

 まるで、もともと存在しなかったもののように。


 ──幽閉されたまま、静かに息を引き取ったらしい。


 その死を惜しむ声は、どこにもなかった。

 彼女は、王家の歴史から、跡形もなく消されようとしていた。


 ノアの世界が、音を失った。


 何も変わらないはずの夜が、急に恐ろしく思えた。

 あの夜ごとに交わした視線は、もう二度と戻らない。

 彼女の寂しげな瞳も、あの儚げな微笑みも、この世界にはもう存在しない。


 ノアは空を見上げた。

 そこには、何もなかった。


 ──そして、数日後。


 夜の巡回中、ノアは野盗に襲われた。


 辺境の地では、夜道は危険だった。

 王都と違い、法も秩序も及ばない場所。


 ノアは最後まで短剣を手に抗った。

 生き抜くために、必死で戦ってきた。

 けれど、その夜──彼女の刃は、敵わなかった。


 血に濡れた大地に倒れ込む。

 遠くで、誰かの笑い声が聞こえる。

 薄れゆく意識の中で、ノアは最後にもう一度、夜空を見上げた。


 ──聖女。


 微かに揺れる星の光が、あの塔の窓辺の灯りのように思えた。

 ただ、それだけを感じながら、ノアは静かに瞳を閉じる。


 誰にも名を呼ばれることなく、彼女の命は終わった。


 けれど、その瞬間、風がそっと吹いた。


 静寂の中、ノアの唇から微かな吐息が漏れる。

 まるで誰かが、そばにいるような錯覚。


 ──ふいに、遠い記憶が蘇る。


 夜の城で、ただ目を合わせるだけだったあの時間。

 言葉を交わさずとも、互いの想いを確かめ合ったあの夜々。


「……待ってるわ」


 それは、確かに聞いたことのない声だった。

 けれど、ノアにはわかった。


 ──聖女が、そこにいるのだと。


 静かな夜風の中、ノアは微笑んだ。

 そして、まるで導かれるように、そっと瞳を閉じる。


 二人を隔てていた運命の鎖は、今、音もなくほどけていく。


 暗闇の中、ただ星々が瞬いていた。

 それはまるで、もう一度、あの塔の窓から見つめ合う二人の瞳のように──。


(終焉の夜、君と再び)

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